ルカによる福音書22章39~46節 「主イエスの本気」
皆様、疲れておられると思います。先週休暇をいただきましたが、休暇を取らせていただいて、改めて、自分が疲れを覚えていたことが分かりました。緊急事態宣言もまた出てしまい、今朝も多くの方々がオンラインでこの礼拝を捧げておられます。このずっと収束しないコロナウィルスの件も、私たちを大きく疲れさせている原因です。さらに心痛む事実として、小中高生の自殺の増加があります。昨年は統計史上最悪の499人の小中高生が自ら命を絶ってしまったと報告されており、さらに今年は最悪だった昨年をさらに上回る傾向が既に表れてしまっています。子ども達の部活動や課外活動も来週からなくなりました。もちろん大人の自殺や、特に女性の自殺が増えています。私たち大人だけではなく、誰もがコロナ禍で疲れ苦しんでいるという、本当に深刻な状況です。
私たちは、この疲れをどこで癒されるのでしょうか?もちろん、肉体的な休息をとることも大事ですけれども、それだけは払しょくできない精神的な疲れが癒されるためには、ちゃんとその疲れをいやす力や方策を持った相手に出会う必要があります。一般的な方法としては、カウンセリングを受けるというような方法もあります。休暇中にちょうどカウンセリングの本を読んでいたのですが、その本でも結局、結論的には、共感が人を救い力づけるのだと書いてありました。医者でも友人でも家族同士でも、やはり言葉を交わし合い、理解し合い、共感をし合える、そういう関係から、私たちは癒しを受け取ることができます。
旧約聖書のイザヤ書には、こういう御言葉があります。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」もちろんこれは、主イエス・キリストの十字架の傷について語っている言葉で、主イエスの受けた傷からこそ、私たちへの癒しは与えられるのだと、聖書は語ります。
そして今朝の説教題には「主イエスの本気」と、掲げられていますけれども、主イエスの本気とは、主イエスが、この今朝の御言葉で、本当になまじっかな形ではなく、心底、本当に苦しまれて、本気で痛みを負われた、という意味での本気です。
主イエスは神の御子として、神に等しい方であるのだから、このお方は、心配したり、苦痛を感じたり、恐れたりするような方ではない、とする解釈は間違いですし、その考え方はとても危険です。なぜなら、そのように考えてしまうと、この主イエスの苦しみが、ただの芝居になってしまうからです。そしてそんな芝居がかった形の苦しみや傷では、私たちの疲れ、時に死を願うような辛さや虚脱感が癒されるには、到底足りません。
今朝のルカによる福音書にはない言葉ですが、マタイ福音書とマルコ福音書には、この場面の主イエスが、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られたと記されています。死ぬほどつらいと、主イエスはそんな言葉を、他では発せられませんでした。それだけ本気で、主イエスはこの場面で苦しまれています。
最後の晩餐のあと、主イエスは、オリーブ山に行かれました。39節と40節を見ると、「いつものように」「いつもの場所に」と繰り返されています。そこは、主イエスが祈りの場所として、いつも好んで向かわれていた場所だったということが分かります。けれども、この夜はこれまでとは違い、主イエスの様子はいつものようではありません。
今朝の39節から44節までを改めてお読みします。「22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕」
いつもでしたらお一人で来られていたオリーブ山に、主イエスは弟子たちを連れてこられました。そして、彼らにも祈ることを求め、石を投げて届くほどの所で、ひざまずいて祈られました。石を投げて届くほどの所、という、他の福音書にはない言葉が目を引きます。これはどういうことなのでしょうか?
この言葉には、主イエスの、この私たちと同じ人間味というか、人間としての弱さ、人間として感じる心細さというものが表れているように思われます。主イエスは神の御子であられつつ、100%、真の人間でもあられました。この苦しい場面は、主イエスにとっても、一人で居るには辛すぎ、また心細すぎたのです。だからこそ、主イエスは弟子たちを連れて、石を投げて届くほどの距離という、決して遠すぎることも近すぎることもない弟子たちとの距離の中でひざまづいて、目の前の十字架の苦しみに向き合い祈られた。この所作から伝わってくるのは、単純に感情を形容する言葉によっては、うまく表現できないような主イエスの思いではないでしょうか?
この時主イエスの前に置かれ、また主イエスを苦しめたものは、具体的に何だったのかというと、それは、42節の御言葉にある、杯です。
主イエスは42節で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と、率直に、心を開け拡げて祈られました。杯という言葉は、イザヤやエレミヤや、エゼキエルなどの旧約聖書の預言者らによって、神様の怒りと裁きをあらわす言葉として使われてきた言葉です。主イエスはここでもそれと同じ意味で杯という言葉を使われて、その神様の怒りと裁きの杯を、どうか、できることなら、この私から過ぎ去らせて、私の前からどかしてくださいと、これは私には無理です、いやですと、率直に祈られています。しかもマタイ福音書とマルコ福音書には、主イエスはこの同じ訴えを、この場面で三度も繰り返したと記されています。
何よりもここで主イエスを追いつめて、苦しめたのは、神様の怒りと呪いの対象になるということ。神の裁きと怒り杯を飲むということでした。
主イエス以外の全人類は、ここに生じている、神からの完全な否定、全面的な敵対という場面に立たされたことはありません。立たされることもありません。それを味わわれたのは、後にも先にも、この主イエス・キリストだけです。
宗教改革者のルターは、「死の激痛ですら、この主イエスの苦悩とは比べものにはならない。主の苦痛は、どのような人の心も耐えることができない、極めて深刻なものだった。ユダに裏切られ、ユダヤ人に捕らえられ、異邦人によって十字架に釘付けられ、死を苦しみたまわねばならない時が迫ったというだけが、主イエスの悲しみではなかった。それだけではなく、全世界の罪が主の上に負わされていたし、主が迎えようとされる死は、罪と神の怒りによってもたらされようとする死であった。主は、私たちのすべての者のために身代わりとなり、私たちの罪を御自身の上に引き受け、罪に対する神の恐ろしい怒りを受けて、わたしたちの咎を贖おうとされた。」と語っています。
過去・現在・未来の全人類のすべての罪とそれに対する神の怒り、その裁きの杯が、主イエスの前にこの時置かれていたのです。主イエスは本気で苦しまれました。44節には、福音書の中で、このルカによる福音書だけが書き残している壮絶な言葉があります。「22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」なんという言葉でしょうか?額に汗するというどころではありません。これは、血が大きなこぶのような塊になって大量に落ちる、という言葉です。ですから、この場面を多少大げさに表現するならば、この時、うずくまって悶え苦しむ主イエスの姿が、どろどろの血の塊のように液状化してしまった、というそういう表現の仕方になります。度を越した苦しみ。まさに、死よりも苦しい、体が解け去るほどの、全身が血の固まりになるほどの苦しみが、この時の主イエスの苦しみでした。私たち全員の、そのすべての罪と死を担うということはこういうことです。
そして、主イエスがたった一人でこうやって神様に捨てられて、苦しんでくださったということが、私たちにとっての慰めとなり、癒しです。
主イエスは弟子たちをオリーブ山に引き連れ、40節で、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われましたが、そのあとの苦しい祈りを終えられた主イエスですが、45節にはこうあります。「22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」弟子たちは、主イエスの側にいながらも、このとても大事な、主イエスが一睡もせずに苦しみ祈り、そのそばで弟子たちも、ここでは決して眠ってしまうようなことがあってはならない、という緊迫した場面で、しかし眠り込んでしまっていました。
しかしながら、その弟子たちに対して主イエスは決して怒って叱りつけるようなことはなさいませんでした。この時の主イエスの眼差しは、深い海のごとくすべてを受け入れる優しさ、深さ、そして静けさに満ちています。主イエスは、今朝の御言葉の終わりの46節でも、既に誘惑に陥って、睡魔に負けてしまっている弟子たちに、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と、もう一度、やさしく、同じ言葉をかけてくださいました。
45節で、「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」と語っている今朝の御言葉は、弟子たちの弱さに同情的です。私たちは本当に、一番主イエスが苦しみ、悲しんでおられる場面で、その苦しみ一緒に起きていることができません。弟子たちも、最後の晩餐の後のことですし、いつもとは違う、ただならぬ主イエスの様子を近くで見て、その苦悩と悲しみの姿を、その苦しみのすべてを見て取ることはできなかったとしても、しかしそれを察知し、心に受け止めていたのだと思います。しかしこの一番、寝てはいけない場面で、私たちは、悲しいかな、悲しみの果てに、眠り込んでしまう。起きていることができないのです。
家族を亡くした日、また、教会の神の家族を天に送った夜のことを思い返します。何か、そこで自分が寝てしまったらいけないような気がして、自分が寝てしまったら、愛するあの人がいない明日に、自ら時計を進めてしまうような気がして。あの人がいない明日がやってくるという悲しみに耐え難い、という思いの中で、寝てはいけない。この大事な夜に、寝てしまってはいけない。あの人が生きていた今日を、過去にすることはできないと思うのですけれども、いつも悲しみの果てに、涙に暮れて、最後には座ったまま寝てしまいます。
でも主イエスは、そういう私たちを赦してくださって、起きて祈っていなさいと言われながらも、苦しみの杯をすべて飲み干すのは、この私のやることだ。苦しみ、裁き、あなたがたの罪のすべては私が担う。あなたはそれを飲まなくていい。悲しみの果てに眠り込んでしまうのなら、よくやった、そこまで頑張ったのなら、あなたはそれで十分だと、この主イエス・キリストは、私たちに対して、そういう主イエスで居てくだいます。
オリーブ山で本当に最後まで祈り切り、杯を飲み干してくださったのは、弟子ではなく、主イエスでした。けれども主イエスはその祈りから、付いてこれず、戦力にならない弟子たちを締め出すこともまたされずに、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と気遣い、共に祈ることへと招いてくださいます。オリーブ山で私たちのために苦しまれ祈られる、御言葉が示しているこの主イエスの姿を、今朝お持ち帰りいただいて、今週の皆様の胸の中に携えていただきたいと思います。
この私たちのために、ここまでの痛みと傷を負った、神の御子主イエス・キリストがおられる。この私たちにも傷があり、心の傷口が痛むことが多々あり、そこはかとない疲れ、悲しみがあります。けれども、こういう私たちを、下支えしてくださっている、もっと傷付いて傷んだ、主イエスがいる。私たちの傷や痛みは、今も、取り除かれないままに心に残り続けていますし、今週もコロナ禍が、私たちそれぞれと、子ども達の心にまでのしかかるのですが、しかし、この私たちは、今同時に、救い主主イエス・キリストの、祈りと、赦しと、深い優しさの中に担われています。この方には、私たちの痛みが分かる。主イエスはあなたのそれを、しっかりと御自分も味わい知ってくださっている。私たちは、この主イエス・キリストによって癒されます。
今まで、目覚めず眠っていて、全く主イエスのことなど考えていなかった、全く主イエスのために生きていなかった私たちのために、主イエスは杯を飲んで死んでくださいました。この私たちのための痛みと傷を、無駄にできません。共感というもの以上の、主イエスのあなたへの深い寄り添いがここにあります。私たちが癒され、またこの一週間を始めていくための力は、この主イエス・キリストから来きます。