2021年8月25日 水曜礼拝教理説教 コロサイの信徒への手紙114節 ハイデルベルク信仰問答48~51問 「上を向いて生きる」

 

 上を向いて生きるという、強い姿勢、前向きな姿勢をもって生きるということは、一体どこから生まれてくる生き方なのでしょうか?生き方には色々あります。下を向いて生きる。上を見上げることを恐れて生きる。あるいは、上を見上げる度に、天にいる存在に対して込みあげてくる怒りと恨めしさを覚え生きるという生き方もあると思います。

そこで、今晩の聖書と、またハイデルベルク信仰問答では、上を向いて生きる生き方とは、天に昇られて、今天におられる主イエス・キリストを見上げる時に、それは生まれてくる生き方なのだと答えます。

 
 前回、キリストが天に昇られたのは、私たちのためのことだったと学びました。天に昇天されたキリストは、しかしそれによって離れてしまったのではなく、片時も私たちから離れてはおられない、とハイデルベルク信仰問答は教えていました。

 そして今晩は、さらにその上で、イエスキリストが今天におられるということの意味について、ハイデルベルク信仰問答が問い、またもう一歩深く答えています。

 ハイデルベルク信仰問答は、今晩のところでも、今までのように、キリストが為されることが、私たち一人一人にとって、どのようなかたちで益となり、慰めになるのかを問うています。

 

そこで今晩の49問は、「キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。」と問いかけながら、その益を三つ上げています。

「答 第一に、この方が天において御父の面前で、わたしたちの弁護者となっておられる、ということ。」

 天誅が下る。天罰が下る、という言葉が時々語られますが、それは、主イエス・キリストが天におられない場合の言葉です。十字架で、私たちの罪の罰とその責任をすべて背負って担い切ってくださった主イエス・キリスト抜きでは、いつ、天から、私たちそれぞれの罪に対して天誅がくだり、天罰が下るやもしれないですし、そうであっておかしくないのですが、しかし、私たちの救い主であり、私たちを贖って、神様と人間の間の和解と平和を取り持ってくださる主イエス・キリストが天に昇られましたので、そして、ハイデルベルク信仰問答が語りますように、その主イエス・キリストが、天において御父の面前で、わたしたちの弁護者となっておられますので、今や、この主イエス・キリストがその命を懸けて、私たちを守るために弁護をしてくださり、また、罪も十字架に免じて、無罪にしてくださいますので、さらにこの主イエス・キリストは、先日の日曜日にも学んだ、オリーブ山で私たちのために、血のように汗をし足らせながら必死で祈ってくださった主イエスですので、この主イエスの昇天こそがが、私たち自身を、より良くより強く守る、私たちにとっての大きな益であり慰めとなるのです。

 

 第二に、「第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭であるキリストが、この方の一部であるわたしたちを、御自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証である、ということです。」と言われています。

 キリストの復活が、私たちが死後どのようになるのかという道筋をしっかりと示す保証となったのと同じように、主イエスが昇天されて、天国で今生きておられるということは、この私たちも死んだ後、主イエスと同じように復活し、主イエスと同じように、天に昇る、天に引き上げられて、この地上を超えたところで、この命を超えた永遠の命を与えられて歩む。主イエスの昇天はそのことの確かな保証になるということです。

 死んだらどうなるのか?天国に行くというけれども、それは具体的にはどこに行ってどうなるのか?これはすべての人々にとっての、とても大きな問題です。そして聖書は、その大きな問題について、全くあいまいには答えていません。つまりはっきりと、私たちは死後、主イエス・キリストがおられるところに生き、いつまでもこの主イエス・キリストと一緒に復活の命を生きるのだと聖書は、キリスト教は語ります。この点で、全くあいまいなことはありません。私たちが最終的にどうなるのかということまでも、主イエスは責任をもって道筋を備えてくださり、責任をもって、そこまで私たちを招いてくださり、私たちと共にいてくださるのです。

 ヨハネによる福音書の14章も書いてありますように、主イエスは天国に場所を用意して、用意ができたら迎えに来て、そしてしっかりとその場所にまで手を引いて導いてくださる。私たちの死後には、全くあいまいさのない、確かな世界と予定と計画、筋道が備えられているのです。

 

 そして、キリストの昇天の益の第三は、「第三に、この方がその保証のしるしとして、御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです。」ということです。そしてここが、今晩の説教題の、「上を向いて生きる」という言葉に繋がってくる部分です。上を向いて歩こう、という有名な歌がありますが、またあの歌も、最終的には孤独で、上を向いて歩いている一人ぼっちの夜という歌詞の内容なのですが、しかし私たちは、主イエス・キリストが天に昇天して昇ってくださり、そこから私たちと共にいて、私たちを見守ってくださっていますので、私たちは、本当に上を向いて生きることができます。

 

 この「神の右に座す」という言葉は、とても有名な聖書の言葉で、ハイデルベルク信仰問答50問は、さらにこの言葉の意味を掘り下げて語っています。ハイデルベルク信仰問答50問、なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えるのですか。「答 なぜなら、キリストが天に昇られたのは、そこにおいて御自身がキリスト教会の頭であることをお示しになるためであり、この方によって御父は万物を統治なさるからです。」

 神の右に座すという、この聖書にも使徒信条にも出てくる言葉の意味は、神様から、主イエスが全権を委託されているという意味の言葉です。全権を担う主イエスが、私たちの弁護者として天にいてくださっているので、私たちは本当に、安心して、心強さを感じながら、上を向いて生きることができる、私たちにはそれができるということの幸せと確かさを覚えたいと思います。上を向いて生きる時、それはただその時、ぼんやりと神様がおられる方向を見上げて歩むということではなくて、確かにそこにおられる主イエスと目が合う。その時私たちは、具体的な主イエス・キリストのことをはっきりと視界にとらえて、イエス・キリストをただ見つめて生きるのです。

 キリストは、神の右に座す、全ての者の上に立つ神として、そこにおられます。この言葉に出会う時、やはり思い出すのは、ステファノの殉教の場面です。

 ステファノは迫害を受けて、石を大勢から投げつけられ、死に至ってしまうその最後の場面で、使徒言行録の7章に記されている場面ですけれども、そこでステファノは、「7:55聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。そして最後の最後に彼は、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と叫んで息を引き取りました。

 どんな時にも、どんな瞬間にも、上を向いて、主イエス・キリストを視界にとらえて生きるとは、こういうことです。そしてステファノは、そこで死を迎えましたが、しかしこういう、苦しみの中で上を向いて、キリストを見上げて生きる者の死は、ある見方から見れば、それは苦難からの解放であり、「ご苦労さん、よく頑張った、これからは神様のもとに昇って守られよ」という、救いであり、神の右に座す主イエス・キリストによる、もっと良いところへの迎え入れであり保護である、とも言うことができると思います。昇天された主イエス・キリストを見上げて生きる時には、人生と、その最後にある死の意味もまた変わるのです。

 

 キリストが私たちのために弱く貧しくなられたことは、本当に私たちにとっての、主イエス・キリストにしかできない深い寄り添いであり恵みですが、それに勝るとも劣らない恵みとして、今キリストが天に昇られて、神の右に座し、私たちの弁護者、私たちの生と死を貫いた永遠の弁護者として立っていてくださるということも、クリスマスの主イエスの降臨に劣らない、私たちにとっての大きな恵みであり慰めなのです。

 

 私たちには、確たる未来がある、確たる主イエス・キリストのおられる天国がある。そのゴールであり、人生の待避所、安全地帯、そこを見上げて、上を向いて歩む私たちの人生は、すでに、救済されています。最後に、コロサイの信徒への手紙114節を改めてお読みして終わります。

 

コロサイの信徒への手紙

「3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。

3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。

3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」