2021829日 ルカによる福音書224753節「闇が力を振るう時」

新共同訳聖書の今朝の御言葉の表題に、「裏切られる」と書いてあります。心の古傷が軋んで痛むような、物騒で、不穏な表題と、そのもとで語られる今朝の御言葉ですが、今朝も私たちは、聖書の中に自分を発見して、また主イエスの姿を覗き見て、主イエスが今の時代の私たちに向けてくださっているメッセージを受け取りたいと思います。

 

前回の御言葉で、主イエスはオリーブ山で祈りながら悶え苦しんでおられました。今朝の御言葉では、祈りによって得た力と確信によって、力強く立っておられます。

 しかしながら、今朝の御言葉この場面こそが、実は、今までになく本当に恐ろしく苦しい場面なのだと思います。

皆様には、敵に囲まれた、捕まったという経験がおありでしょうか?今のところ私には高校生の時に下北沢でチーマーに囲まれてカツアゲされたというぐらいの経験しかありませんけれども、それでもやはり、何らかの形で相手に捕まって、逃げられなくされてしまうと、この先自分が何をされるか分からないという怖さを覚えます。

しかし、もし相手が武器を持つような深刻な敵対者である場合には、捕まるということは、その時点で死を意味することにさえなりうる。殺意があり、武器を持っている大勢の敵対者に囲まれるというほど恐ろしいことはありません。

そして今朝の御言葉での主イエスの逮捕は、まさにその、捕まったら終わりという、死を意味する逮捕です。相手には明らかな殺意があります。けれども、ここでの主イエスはいたって冷静です。血の汗を流すような祈りによって、御自分の中にある恐れをも既に追い払われた主イエスは、ここで毅然とした態度で、落ち着いておられ、まったく周りの状況に飲まれておられません。

私は、信仰者は強い人たちであること、決して弱いから神様にすがっているというような弱腰で生きているのではない、本当の強い人たちだと思っていますし、そういう人たちに何人も会ってきたのですが、そういう信仰者の強さ、あるいは凄味というものは、こういう時に、こういうかたちで現れるのだなと、今朝の御言葉を通して改めて思わされます。

しっかりと神様に祈り、先週主イエスも祈られた、「私の願いではなく、御心のままに」という祈りの言葉に、自分の身も心も全て預け委ねて、その意味で、見えない自分の未来の全ても神様に託した信仰者は、腹が座っている、何より信仰が座っています。たとえ病によって死が目の前に迫っているのが分かるという状況の中でも、このように毅然とした態度で、しかも同時に、静かに落ち着いて歩まれた、そのような多くの信仰の先輩方の姿が、私たちの胸にも刻まれています。その信仰の先達たちも、この場面で主イエスが抱いておられたような、「神様に委ねるならば、この先どんなことが起ころうとも、たとえ死がこの身にやってこようとも、決して神様は私を悪いようにはなさらない」という、神様の御心への信頼があったのだと思います。

 

先週の御言葉にありましたように、主イエスはいつものようにオリーブ山に行かれ、逃げも隠れもすることなく、いつもの場所に来られました。ですからいつものその場所は、裏切ろうとするユダにも容易に予想できました。大勢の群衆を携えて、47節には群衆という言葉があり、今朝の52節にも、22:52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。』」と書かれていますので、まるで凶悪犯罪者の逮捕をするようにして、当時の軍事力、政治力、宗教的権力がひとつに力を結集して、裏切った弟子のユダを先頭に、主イエスと11人の弟子たちという、この小さなこの集団を目がけて、夜中の闇の中を、たいまつを抱えて押し寄せてくるのです。

暗闇の中でもありますので、誰が捕まえるべき主イエスなのかを正確に判別する必要があります。その判断の申し合わせ事項として、裏切るユダが主イエスを見つけて接吻をする。それを合図として皆が捕えにかかる、という手はずだったと思われます。

しかし、ここで圧倒的劣勢に立たされているはずの主イエスは、主導権を取って、この場を支配するようなひと言を言ってのけておられます。48節です。22:48 イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』と言われた。」愛と平和と和解の表現である接吻によって、死に至らせる、暴力的な裏切りの口火を切るとは、何とも矛盾した行為です。

けれども、ここで形だけの、平和の挨拶を主イエスと交わすユダの姿は、決して他人事だと済ませてしまってよい事柄ではなく、これは、神様に対して罪を犯す者すべてを代表するような姿です。私たちはの心は、親しく美しい挨拶を、偽りの、偽物の挨拶に仕立ててしまう、偽善と罪を孕んでいます。

主イエスはマタイによる福音書で、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は私から遠く離れている。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」と言われましたが、まさにその通りだと思います。私たちが罪を犯す時には、私たちは毎度のように、心の内側にあって、そこから表に出て来る罪を、表面上の美しさや、美しい言葉や、もっともらしく取り繕った言い訳によって隠し装います。アダムとエバも、最初に罪を犯した時、神様にしらを切りました。そして、その罪を隠そうとする行動によってこそ、逆に人間の腹黒さ、姑息さが、透けて見えてしまう。これこそが罪の心であり、罪が罪をとめどなく生む。これが私たちの心の中でいつも起きている罪の連鎖です。この私たちの中にも全く同じ罪の心がありますので、このユダの、接吻をもって裏切るという行動は、よく理解できます。

そういう姑息な罪の黒い雲が、だんだんと闇を深くしていく。それが主イエスの足元にも忍び寄る。主イエスはこの時、しかししっかりとユダの裏切りの罪を見透かして、すべてを見通しで、覚悟のうえで、落ち着きはらっておられますけれども、しかしながら、そのような主イエスとは反対に、この時の弟子たちは、怯えずにいることはできませんでした。他の福音書では、それはペトロだったと言われていますが、主イエスと一緒にいた弟子の「ある者が、大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」と書かれています。無駄な抵抗とはこのことです。弟子は死に物狂いで剣を抜いて、もちろん相手の首を切りに行ったのだと思いますが、恐らく恐怖に手元がガタガタ震えて、狙いを外して、剣は相手の右耳にかすっただけでした。

 22章の38節の、最後の晩餐の終わりのところで、弟子たちが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と主イエスの心を誤解して語った、その勢いと早合点そのままに、彼らは剣を振り回すわけですけれども、それに対して、51節です。「22:51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。」

 主イエスのためにと思って剣を振り回した弟子たちは、「なぜだ?なぜ『やめなさい。もうそれでよい。』なのか?」と思ったはずです。

自分に向けて包丁を投げて来る人がいたら、その辺にある、まな板や机を盾にして自分を守って、手当たり次第、その辺にある石ころを投げ返すか、あるいは、一目散に逃げるか、普通はこのどちらかしかないと思います。けれども主イエスは、どちらもなさいませんでした。

主イエスは、人間の暴力の渦中で、弟子の裏切りと、群衆の殺意の只中にあって、毅然として、剣を捨てられるのです。四つある福音書うち、耳を切られた敵対者を主イエスが癒されたと書いてあるのはルカによる福音書だけです。

ここに、主イエスの、争いと暴力に対する、具体的な姿勢が見えると思います。剣を使って当然と思えるところで、それを用いない。それによって傷付けられても、決して逃げずに、それを癒すための道をあくまで選ぶ。

マタイとマルコの福音書では、この逮捕劇のあと、弟子たちは逃げてしまったと書いてあります。でもそれは、主イエスが一人で立ち向かうことによって、弟子たちをこの状況から逃がしてくださったとも取れます。

そしてこのルカによる福音書でも、主イエスは最終的に十字架に架かられて、その身を裂かれて、死んでくださることによって、苦しみの杯をすべて御自分で飲み干されることによって、剣と暴力が生じさせる罪と死を、御自分が十字架に架かるという方法で、解決してくださいました。

こうして主イエスが、罪と死から私たちを守る壁になってくださっているからこそ、私たちは安心して生きることが出来る。危険が迫った時、死が目前に迫った時にも、慌てふためいて剣を抜いて、自暴自棄の戦いを戦う必要はないのです。そこには主イエスが立ちはだかってくださる。主イエスが、暴力と剣の只中に立って、そのすべての剣を身に受けて、そこから、今までにはなかった、罪の赦し、死からの救いという、平和を作り出してくださる。主イエスの十字架の受難は、しかしそこで終わらずに、その三日後の復活という、命の回復で締めくくられたことを、私たちは知っています。そしてその主イエスが甦られたのは、今日、この日曜日の朝です。

 

敗戦と、戦争にて起こった私たちの内外の罪を顧みるための8月が、今年ももう終わりますけれども、19453月のB29による神戸大空襲によって、西代にあった時の会堂を焼かれています。この街と共に、そういう苦しみと破壊を身に受けてきた、しかしそこから癒されてきたのが、この教会です。伝道開始100周年を迎えた私たちの教会は、その過去を忘れず、いつも思い返さねばならないのだと思います。

今の世の中も、当時と変わらず暴力的です。アフガニスタンでの暴力、色々な世界情勢に対して、積極的に武力行使をしていこうという声がよく聞かれますし、凶悪な事件や、また攻撃的な発言が日常化しています。ただ戦争をしていないということが平和なのではなく、戦争状態にはなくても平和がなく、争いと暴力がはびこってしまっているのが、今の世の中です。主イエスも今朝の御言葉の終わりで、「今は、闇が力を振るっている」と語られました。

 

ヨハネによる福音書には、今朝の御言葉の場面の直前の、最後の晩餐の時に主イエスが語られた言葉として、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」という言葉が記されています。

今私たちは、主イエスが天に昇られて、目には見えなくなって、泣いて悲嘆に暮れる時代を、再び主イエスを喜び見る時までの、間にある時代を歩んでいます。主イエスが肉眼で見えない、弟子たちが泣いて悲嘆に暮れるこの時代は、闇が力を振るう時代です。

 

山中雄一郎先生は、今朝のこの部分の御言葉について、絶妙な解説を語ってくださっています。それはこういう言葉です。「イエスは、そのような危険な時代を見抜かれて、『今は闇の支配の時である』といわれたのです。弟子の一人が大祭司の僕に切りかかった時、彼は戦う相手を誤っていました。彼はむしろ、自分の魂に戦いを挑み、自分をキリストから離れさせようとする悪の力に対してこそ、戦うべきだったのです。私たちも、自分の外側の悪に対してだけではなく、自分の魂をキリストから離そうとする悪の力に対して、霊的武装をもって戦いの備えをするべきなのです。」

他人を赦せず、人を障害物のように見なして、不必要に身構える心。絶えることのない裏切りと、権力による暴力。主イエスに従うと言いながら、敵に怯えて剣を振り回し、人を傷つけ、戦う相手を間違ってしまう、敵を招き癒してくださる主イエスとは正反対の弟子たち。これは皆、私たちが自分の魂の中に持っている敵です。主イエスが肉眼で見えないこの時をいいことに、自分の魂をキリストから離そうとする悪の力が、私たちの心の中で暗躍し、キリストを知らない、キリスト無き生き方をしようとしてしまう。キリスト抜きで物事を考え、キリスト抜きで自分の過去・現在・未来を考えようとする。そういう自分、そしてそういうこの時代。これがみな、私たちが今朝、御言葉の剣をもって戦わなければならない相手です。

 

主イエスはそのことを、戦う相手が違うということを、不思議と、今朝の御言葉でも突き詰めて仰るということをなさいませんでした。前もそうでしたけれども、主イエスが言われたのは「やめなさい。もうそれでよい。」だけで、あとの言葉は語られず、負傷者の耳に触れて癒してくださいました。言っても分からないから。言ったところで、弟子たちも、敵対者たち皆も、聞く耳を持たないからだと思います。ですからここで主イエスが、「やめなさい。もうそれでよい。」だけしか仰らないのは、主イエスの優しさだと思います。そして主イエスは、なぜそれが止めなければいけないことで、なぜ、もうそれでよいのか?もうそれ以上剣を振るって傷つけ合う必要はないのか?それを、言葉ではなく行動で、もうほとんどこの後の主イエスは、十字架で息を引き取るまで、言葉を語られないのですけれども、ただ黙して逮捕され、十字架に架かられ、死んで埋葬され、しかし復活されるという行動によって、示してくださっています。この落ち着き、人々の怒号と暴力と喧騒の中で、音もなく地面から染み出す静かな湧き水のような主イエスの静けさ、そういう一挙手一投足、それをもって語ってくださる主イエスに、私たちも今スローダウンして、心を落ち着かせて、聞く耳を持ちたい。

毎日感染者数が上下動する、コロナウィルスの喧騒の中で、それに巻き込まれて行動を制限され、心も揺さぶられて、それぞれの先週一週間を歩んできた私たちですが、この今の私たちにも、「やめなさい。もうそれでよい。」と主イエスは語りかけてくださっているように思えてなりません。この主イエスの声に今、良い意味でそれぞれが立ち止まって、改めて主イエス・キリストという方を見つめることを許されて、自分が求めている答えを、ゆっくりしっかりと、主イエス・キリストの十字架の一挙手一投足の中に求めていく。これが、闇が力を振るう時に、必要とされることです。