2021年9月5日 コリントの信徒への手紙Ⅰ12章1~11節 「コミュニティー」
今朝のこの礼拝は、早くも残り三分の一の今年2021年の後半戦に向けて、ここでまた改めて、心機一転心を奮い起こして歩んでいくための、振起日礼拝です。よって今朝は、いつものルカによる福音書から少し離れて、改めて、教会とは何か、私たちとは何者なのかという、何度考え直しても足りないほどに大切で、何度も思い返す価値のある、私たちのアイデンティティについて語る御言葉を通して、自分たちの在り方を改めて振り返り、そこから、また残りのこの年を展望し、共に踏み出していきたいと思います。
今朝の説教題を、コミュニティーとしました。日本語では共同体と訳される言葉ですが、しばしばコミュニティーという言葉は、Church as a communityという風に、教会を意味する言葉として用いられます。コミュニティーという言葉は、「コン」という「共通」という意味の言葉と、「ユニティー」「結合」という言葉が合わさった、「コン・ユニティー」「共にひとつになる」という意味の言葉です。ですので、教会共同体、コミュニティーの中には、共通ものがあり、その一致があり、共に一つになるということなしには、教会は教会にならない、とも言うことができます。
「ナンバーワンよりオンリーワン」とよく言われます。「自分はナンバーワンになれなくてもいい。それ以前にみんなが特別なオンリーワンなのだから」という、それは、とても良い言葉のように聞こえますし、実際名言の類に入る歌詞なすれども、しかし、それだけではまだ足りないと思います。それぞれが、ナンバーワンを追い求める競争をやめて、オンリーワンなのだから自信をもって歩もうよ、というだけでは、それぞれがオンリーワンになって、競争はやめるのかもしれませんけれども、しかしそこまででは、まだ一人一人はバラバラのままです。
そしてこの、バラバラの個人という状態が、本当に特にこの今の時代、きついですし、寂しいですし、問題です。今では、人間一人一人のバラバラさ、そこにある孤独が、今、とても深刻化しています。コミュニティーと呼べるような、人と人とを確かに結びつける一致というものが、家族の中でも自明ではなくなっているのが今の状況であって、このままでは、この深い孤独によって一人一人が生きていくことができないというところまで、その個々人のバラバラさは進行しています。
しかし、この、私たち人間が孤独であるということは、神様にとって、放っておいてよいようなことではなくて、孤独というものは、人間が抱えている問題の中で、神様にとって最悪のことであって、あってはならない一番の大問題なのです。
そもそも、全てが良い世界として、良いものとして創造されて、世界が否定ではなくて肯定のメッセージで溢れている、そういう幸せな、調和のとれた世界が、聖書の一番初めの創世記第1章そして2章にはありました。まだ罪のない世界です。しかし、この聖書の中のまだ死もなく罪もない、世界が一番幸せな段階において、良くないことが一つだけありました。そこで語られる、聖書の中に出て来る最初の否定的な言葉が、「人とが独りでいるのは良くない。」という、アダムの孤独を憂慮する、神様の言葉でした。人が孤独でいることは、本当にこれは良くないことで、すぐにそこから助け出されなければならない、致命的で深刻なことだと、神様は考えておられるということです。そして神様はすぐに、アダムが孤独で、良くないままでいることがないように、神様がアダムと一緒にいるというだけでは十分に満たすことのできないその孤独を癒すために、自分の骨の骨、肉の肉という一心同体という深い次元で一致することのできる、エバという、二人目の人間を創造してくだいました。
孤独でいい、自分は一人でいいから、それで大丈夫だからと、いくら自分で思っていても、私たちを設計し、この心と魂と精神を作り上げてくださった、私たちの作者であられる神様が、「人が独りでいるのは良くない」と言っておられますので、それは真実で、人は孤独で大丈夫な訳はないのです。独りでは生きられないように、もともと人は作られています。たとえナンバーワンであろうとも、オンリーワンであろうとも、その時人が孤独なら、それでは良くない、その人にコミュニティーがなく、その人が人間同士による何のコミュニティーにも属していないのなら、その良くない状態は解決されません。
政治が、益々信頼に欠けるものになってしまっている現在、コロナ対策にしても、経済対策にしても、国が当てにならない以上、自分の身は自分で守る以外にないと、今、国という基本的で大きなコミュニティーへの信頼と一致が失われ、人々の心や関心は、ますます自分本位の在り方に傾いて、ますます社会が個人主義化しています。
しかし、個人主義的な社会の只中にいる、この孤独な私たちに、神様は今朝、「こんな風にしたらいいよ」「こんな風に生きていけば、そしてこのことを良く知っていれば、孤独の良くない状態から逃れることができるよ」と、私たちを造ってくださった、私たちの設計者の立場から、語りかけ、教えて下っているのです。
では、その方法とは、その知るべきことは何かというと、それは、オンリーワンに造られた私たちは、「出どころ」と「目的」が「同じ」だということ。つまり私たちは、最初と最後を同じくするコミュニティーなのだ、ということです。
まず、「出どころが同じ」ということについてですが、それは今朝の4節から6節の御言葉にあります。「12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」
私たちの賜物や務めや働きはそれぞれ皆違います。賜物とは、才能や個性ということができますし、務めという言葉は、使命・生き方という風に言えます。そして働きとは、仕事の違い、力の強弱、頭の考え方の違いに置き換えることができます。そういう風にして、私たちそれぞれ皆が、他の誰とも一緒ではないという意味で、オンリーワンなのですが、まず大事なことは、それらが私たちが自分で獲得して、自分の力で造り上げたオンリーワンなのではないということです。そうではなくて、実は、それらはみんな、ひとりの同じ神様からのもらいものなのだ、出どころは神様なのだ。神様が、この私を、誰とも同じでない特別な私として造ってくださったのだ、ということです。
ですので、すべての人が持っている、賜物や、務めや働きの違いは、それによって他人と比較したり、それをもって自分を自慢したり、相手を蔑んだりする材料にはならない。そして、もし、自分に何かの特別な病気や弱さを持っていたり、賜物が少ないように見える人がいたとしても、それはその人が悪いのではなくて、それは、一人一人にとって一番良いように、私たちには計り知れない熟慮の中で、神様がそれぞれに与えてくださった、神様の配剤なのだと言われています。
そしてその神様という、私たちの共通した最初の出どころを知るならば、最初の出どころが同じであるように、最後の目的もまた同じなのだと、聖書はさらに語ります。それが、今朝の7節にある言葉で、これは、今朝私たちが特に共々に心に刻んで持ち帰りたい、今朝の中心をなす御言葉です。今朝の7節は語ります。「一人一人に“霊”の働きが現われるのは、全体の益となるためです。」ここには、私たちがそれぞれ持っている違いは何のためにあるのかということの答えが、ずばり、何のためらいも、曇りもなく、はっきりと語られています。それは「全体の益となるためです」と答えられています。これは、人の人生を変えてしまうような、ものすごい答えだと思います。
この自分という存在は、何のためにあるのか?自分が自分であることには、何の意味があるのか?それは、答えのない問いなのではなくて、答えがはっきりしているのです。私がオンリーワンである目的は、自分色の花を咲かせるためなのではなく、それは全体の益のためなのです。私たち、それぞれの賜物や、使命や働きは、ひとつも不必要ではなく、すべて必要です。しかしそれは、何のために必要なのかというと、それぞれがバラバラに、それぞれのオンリーワンを伸ばしていって、それぞれが自分のために自己表現、自己実現して、一人で輝くためにあるのではなくて、色々な部品がすべて組み合わされてひとつの機械ができるように、ひとりひとりの違いは、全体の益となるために、全体を良いものに造り上げるためにこそ、あるのです。
私たちの多様性は、目的の多様さ、ゴールの多様さを意味するものではないという、この聖書の教えは、面白いと思います。ひとつの目的を達成するために、私たちそれぞれは多様で、違っていなければならないのだと、聖書は教えるのです。
野球でも、サッカーでも、選手みんなをクローン人間のように、均一な同じ人間になるように鍛え上げて、その上でひとつの目的を達するというのは、下手な監督のやることです。みんなが同じで揃っているチームは、統制が取れていて、はみ出し者がいないですから、ミスは少ないと思いますが、それはいつも同じやり方で試合をするつまらないチームになってしまって、それでは強いチームにはなりません。
けれども私たちの神様という監督は、ひとつの目的を達成するために、選手をひとつの色には染めない監督です。みんなが違うものをもっていて、色彩が豊かなのですけれども、その多様さによって、かえって豊かなひとつのものを造り上げようとなさる監督です。みんながのびのびとオンリーワンを発揮できて、なおかつ全体の益のために、ひとつの目標のために共に結び付いているチームこそ、本当に強いチームです。神様は、教会を、そういうコミュニティーにしたいと思われている。そして、みんなそれぞれに違いのある私たちが、それでも孤独になってしまわないように、神様は、教会というコミュニティーを造って、そこに私たちをつなげて、ひとつになって生きるようにしてくださっているのです。
では、もう一歩踏み込んで、その私たち皆の目標である、全体の益とは何でしょうか?全体、という言葉について、それが何を指すのかは、有名なこのあとの12節以降の御言葉を見るなら明らかです。
それは教会のことです。この御言葉に、霊という言葉が繰り返して語られますけれども、ペンテコステの日に、神の霊である聖霊を受けた人々は何をしたかというと、彼らは互いに集まって教会をつくりました。そして財産や必要な物を分け合って、神様を礼拝しながら、互いに、一致できるコミュニティーを造って、その喜びの中で生活をしたのです。
人間にとっての一番の喜びと感動は、人と深く一致できた時、人と思いを分かち合えた時に起こります。そして、キリストを知り、神様に救われて、神の霊を受けた者たちが、喜んで神様を礼拝しながら、ひとりひとりが全体の益のために、多様な仕方で生きる時、そこにキリスト教会が立ち上がるのです。
教会がある。一致できるコミュニティーがある。出どころと目標を同じくする、神様に結び付けられたみんながいる。こここそが孤独を打ち破る場所ですし、キリストがおられるこの教会に招かれていない人、属すことのできない人、ここを居場所にできない人はいません。なぜなら、主イエス・キリストが十字架に架かってくださったのは、すべての人のためであり、すべての人にご自分の霊を注ぐために、キリストは十字架に続いて復活し、今でも生きて、天から私たちのことを見て、執り成してくださっているからです。
そして今朝私たちはこの「全体」という言葉を、教会というだけでなく、もっと広く考えたいと思います。今朝の御言葉の、「全体の益のため」とは、広く取れば、この世界全体をも指しうる言葉だと思います。私たち皆に与えられる神の霊は、だだこの私だけ、ただこの教会のことだけを考えて、そこに働こうとされている霊ではないからです。
日本各地でも、先週末のニューヨークでも、今世界中で気候変動による被害が起きています。そして、持続可能な社会、脱成長コニュニズム、公共的なものを重視した脱資本主義、参加型の社会主義、というようなことが、たくさんの私よりも若い世代の経済学者、社会学者、哲学者たちから提唱されています。
そしてそれらのことは、何か全く新しい考え方なのではなくて、さかのぼれば実は昔から、既に聖書の中にある、キリスト教会を通して、示されてきたコミュニティーの在り方です。そしてこのコミュニティーの中心には、主イエス・キリストがおられて、愛を持って、どこまでも人を愛し、全体を生かすために生きたキリストの後ろ姿が、また新しい2021年の締めくくりに向かって歩み出そうとしている、私たちの手本、目標になるのです。
私たちのようなコミュニティーが、本当に今、世界に必要です。私たちは、いつ何時も、どんなに少人数でも、祝福の源ですから。私たち一人一人も、この板宿教会も、全体の益となるために、今ここにあるのです。