2021912日 ルカによる福音書22章54~62節 「やさしい目」

 北海道のべてるの家で有名な、向谷地生良(むかいやちいくよし)先生の『弱さの研究:「弱さ」で読み解くコロナの時代』という最近出された本の中に、こういう言葉がありました。

  「勝手に治すな自分の病気」っていうべてるの理念があるんですけど、病気は、自分たちを生きるうえでもっとも大切なところに戻してくれる大事なセンサーだという考えがあります。これからの世の中というのは、まさに新型コロナは、大事なものを大事にしていくということに、立ち帰るきっかけにしていかなければならないなという気がしますね。

 

「病気は、自分たちを生きるうえでもっとも大切なところに戻してくれる大事なセンサー」。新型コロナもまた、そのような、立ち戻るためのセンサーではないかと言われています。新型コロナなんか糞食らえだと、ウイルスを決して恐れず、怯えず、歩んで行こうではないかと、今この時に、そういうマッチョな呼びかけを、教会で、また説教でしようとは思いませんし、そういう語り方はすべきではないと思います。むしろ前々から私たちは、このルカによる福音書の御言葉を通して、この時は悔い改めるべき時なのだと教えられてきました。コロナウィルス禍によって、人類全体の、そして今日の世界文明の大きな挫折と無力が露わにされましたので、これによって自分たちの弱さを突き付けられた私たちは、本当に、この度与えられた、生きるうえでもっとも大切なところに戻してくれる大事なセンサーの警告音を、胸に手を当てながら聞き取って、悔い改めなければならない。コロナによって自粛するだけでなく自省して、自己反省して、私たちは今こそ、生きるうえでもっとも大切ところに、皆で立ち戻されるべきだと思います。

 

今朝の御言葉の場面で、ペトロは、挫折をし、激しく泣いて、しかしそれによって、幸いにも大切なところに引き戻されました。何が起こったのでしょうか?そして、ここでペトロに起こったことは、この私たちそれぞれの中でも、かつて起こったことであり、またこれから起こることであり、この朝にも、同じようにして起こることです。

ペトロは、今朝の御言葉で、主イエスを裏切り、そのことによって、かつて主イエスの前で語った「主よ、御一緒になら、牢に入っても、死んでもよいと覚悟しています」という自分自身の誓いを裏切りました。

今朝の御言葉の数時間前に、主イエスは、ユダの裏切りによって逮捕され、大祭司の家に連行されてしまわれました。しかし、この時逮捕されたのは、主イエスお一人でした。主イエスに最も近い弟子たちは、一人も捕まることはありませんでした。この時、実は弟子たちに危険は及んでいません。ですからペトロは、そんな逮捕劇があったすぐ後でしたのに、しかし、今朝の始めの54節にありますが、ペトロは捕まった主イエスのあとを遠巻きに尾行して、大祭司の邸宅の中庭にまでも入っていくことが出来ました。つまり彼はノーマークだったわけです。ですからこの状況でなら、ペトロが仮に弟子だとバレても、すぐに特別な危険が彼に及ぶ心配はありません。がしかし、ペトロは、単なる女中からの一言に、ひどくうろたえてしまうのです。それは5657節で起こりました。22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。」

当局者たちでもなく、その幹部の誰でもない、単なる女中の、何の根拠もない問いかけに、明らかにペトロはギクリとして、ものすごく用心して、軽くそれに答えたようでいて、見た目は涼しい、白々しい顔をしながら、しかしペトロは、返す刀で、自分と主イエスとの関係そのものを否定しました。

さらに5822:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。」さらにそのあとに596022:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。」

この時は過越しの祭の時期で、北の地方から上京してエルサレムに巡礼に来ているガリラヤ人など、いくらでもいましたから、ガリラヤの者だからという風に、恐らくイントネーションによって出身がバレても、それだけではイエスの一味だということの決定的証拠にはなりません。けれどもペトロは、最後はムキになって弁明し、恐れなくてもよいことに恐れ、主イエスの弟子であることを打ち消しました。

最後の晩餐の場面で、ペトロが「主よ、御一緒になら、牢に入っても、死んでもよいと覚悟しています」と語った時、きっと彼が考えていたのは、ドラマティック名場面です。自分も主イエスと一緒に兵隊に囲まれ、剣で抵抗しつつも捉えられて、多くの邪悪な敵たちによって不当な裁判にかけられ、手に鎖をされたまま、お前は主イエスの弟子なのかと、喉元に剣を突き付けられて尋問されるような、彼はそういった、いわゆる絶対絶命の、大きな試練のことを考えていたのでなかったかと思います。けれども、主イエスが予め見通しておられたペトロの裏切りは、そういうドラマティックな形ではなくて、目立たない、他愛もない、小さなかたちで訪れました。

ある説教者は、この部分の説教で、このように語っています。「わたしたちが神に祈らず、神の御声を聞き慣れていないと、人の声が神の声のように聞こえます。小間使いの女が、巨人ゴリアテのように見えます。ですから、わたしたちの本当の強さは、『いざ、ござんなれ』と四肢を踏んで受け止めた、大試練に勝つことによってではなく、不意に襲う小さな試みに勝つかどうかによって、わかるのであります。」

思えば、アダムとエバによる人類最初の罪も、彼らの目には大きな罪とは映らないようなことでした。「禁じられている木の実だけれども、この実はおいしそうだし、神様との約束は気にはなるが、これを密かに一口かじるぐらいは大丈夫だろう。見つからないだろう。ちょっと味見してみよう。」と、彼らはそれぐらいの感覚で罪を犯したのだろうと思います。しかし、罪とか誘惑とか、躓きというのは、実にこういうかたちでやってくる。私たちは、さあ大それた罪を、正面切って犯してやろうと思いながら、大っぴらに罪を犯すことはしないのですが、実際には、小さなくぼみ、小さな罠が、私たちの足を躓かせ、大転倒をさせる。罪はそうやって忍び寄ってきます。ですから私たちが、罪を避け、誘惑に打ち勝って生きるということは、それはとても小さくて、日常的で、具体的な、そこにすぐ手が届くような事柄を、どう扱うかということに掛かってくるのです。

そしてここでも、小さな躓きが、大転倒を生みました。ちょっと心にぎくりと来る言葉を受けて、少しの良心の呵責がありながらも、「私はあの人を知らない。あなたの言うことはちょっと分からないね」と、ペトロの口から滑り出た言葉が、弟子であることの否定、主イエスとの出会いと、一切の関係の否定という、大きな反目を意味しました。そして、ほんの数時間前に、この命を懸けて!と誓った言葉の正反対を自ら選び、進むという、ペトロのとんでもない自己矛盾、一貫性のなさ、自己中心性、大きな自己保身が、その小さな言葉によって、正体を現しました。

そして、このペトロに起こったことは、私たちの中でも毎日、毎晩、何度も起こっている欺きであり、自己矛盾であり、これは私たちの中でもいつも起こっているずるさであり、挫折であり、これは、本当にこの私たちの裏腹さなのであり、この裏切り、神様の前での罪の積み重ねは、私たち皆の姿を映し出しています。

ペトロとしては、主イエスにはこの自分の軽口は聞かれていないだろう、見られていないだろう、という見立てがあったのでしょうが、しかし、主イエスの目は、そのペトロから離れてはいませんでした。

60節の後半から62節までお読みします。「まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。22:62 そして外に出て、激しく泣いた。」

 突然鶏が鳴いた。それまでもそのあとも、実際には鶏は鳴いていたと思いますけれども、その鳴き声がこの瞬間、ペトロの耳から脳みその髄に、スッと入ってきた。そして撃たれたように、彼は動けなくなった。この時彼は、そこで我に返ることができたのです。振り向いてくださった主イエスの眼差しと合わせて、この鶏の声は、本当に神様の深い恵みだと思います。

 もし鶏が鳴かなかったとしたら、どうなっていたか?同じく主イエスを裏切って逮捕のきっかけを作った弟子のユダは、泣けませんでした。戻ってこれませんでした。彼は、真面目に、自分の犯した罪の自己責任を取ろうとし、ルカ福音書ではなく、マタイ福音書に書かれていることですが、大祭司のところにもらった銀貨を返しに行って、「私は罪を犯してしまった」と言ったのですが、「そんなの知ったことか、お前の問題だ」と言われ、自ら首を吊ってしまいました。

 もし鶏が鳴かなかったら、ペトロもそうなっていたかもしれない。私たちの人生にも、こういうことの数々があるのではないでしょうか?もしあの電話があの時鳴らなかったら、もしあの日地震がなかったら。もしあの時の挫折が、もしこの病気がなかったら。そしてもちろんコロナも、コロナ無ければ良いのにと、もちろん思いますが、しかし、新型コロナがあったからこそ、生きるうえでもっとも大切なところに立ち帰るきっかけが、与えられるということもある。神様は、木の葉のざわめきからでも、人の何気ない言葉を通しても、様々な形で、私たちそれぞれに深く働きかけてくださり、私たちを我に返らせ、御言葉を心に甦らせてくださいます。

 そして鶏が鳴いたのと時を同じくして、他の三つの福音書にはない、このルカによる福音書にだけ書き記されている出来事が起こりました。その時、「主は振り向いてペトロを見つめられた」それがどんな目であったのかと色々考えますが、ペトロが振り向いたのではなくて、主イエスがペトロに振り向いてくださって、ペトロを見つめてくださいました。

 このルカ福音書にしかない主イエスの眼差しによって、三度の裏切りの予告の言葉だけでなく、同じくこのルカ福音書にしかない、2222節の言葉も、ペトロの胸に去来したのではないでしょうか。それは、三度の裏切りの予告の直前に語られた「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」との主イエスの言葉でした。

ペトロは、オリーブ山で寝こけてしまって、主イエスのために祈れませんでしたが、しかし主イエスは、本当なら自分のことだけで精一杯のところを、祈れないペトロの分まで、代わりに自分のことのように祈って、ペトロの信仰が、挫折によって無くなってしまわないように、主イエスはペトロを守ってくださったのです。そして次の瞬間、ペトロは、我に返って、そうだ、主イエスを助けなければと、大祭司の邸宅の中に突入したのではなくて、本当にもう、何もできなくなって、大祭司宅の外に出て、ただ、激しく泣きはらすしかありませんでした。

ユダとは対照的な、情けないペトロの姿、罪を犯し、罪を犯し散らかして、もう自分ではどうにもそれを取り繕うことができずに、見つめられても、主イエスを助けることができずに、けれどもそんな主イエスに、ずっとお世話様で、祈っていただき守っていただきながら、自分は腰が砕け、外に出て、戦線離脱して、泣き崩れることしかできない。

でも、聖書は、このペトロで良いと言うのです。挫折は、しないに越したことはないのでしょうけれども、聖書は、挫折をしないように、挫折を避けて生きよとは語りませんし、それを自らで乗り越えよとも言いません。むしろ聖書は、挫折や失敗はあっていい、あるべきだし誰でもそれはあると、そして挫折や失敗をしたら、もうなったら死んで償うしかないのではなくて、むしろそこから、どう生きるかを語ります。

そして主イエスは、私たちが繰り返す挫折も、罪も、全部ほっ散らかして、何も自分で処理できず、最後ただ泣くしかないという私たちの情けなも、無責任さも、裏切りも、すべて込みで、赦してくださる。

 自分の、重ね重ねの裏切りと罪と、自分でそれを拭えない、ダメさ、無責任さが、主イエスの目にはいつもすべて見えているにもかかわらず、しかし主イエスは、この私から目を離さず、こんな私のために、私の信仰が無くならないように祈ってくださっているということを知る時、本当に涙が出ます。

 今、私たちを見つめてくださっているのは、この私の卑しい、汚い心を知り、それもすべて込みで、そういう私のために十字架に架かって、喜んで痛みを負い、命を差し出してださる、主イエス・キリストの、やさしい目です。

 ペトロはこの主イエスの目を見て、「お前は死ぬな、その挫折から立ち上がって、十字架から与えるこのわたしの命と愛で、生きよと。」という、主イエスの愛を知りました。その生きるうえでもっとも大切なところに戻りました。

信仰が無くならないように主イエスに祈られ、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と肩を叩かれた、このペトロの上に、私たちのこのキリスト教会は建てられました。失敗者であり挫折者である自分への、主イエス・キリストの、燃えるような愛を知ったペトロだからこそ、本当に、同じように一度は倒れた兄弟たちを力づけることができ、キリストの愛に溢れた教会を立ち上げることができたのです。

そして本当にここに、福音があります。それは、単なる幸せとか御利益ということを超えて、人生全体を肯定し、その失敗や挫折が、かえって神様に注がれている愛を豊かに受け取る場所になるという、自分の人生の意味がまるごと変わるような救いです。そして主イエス・キリストのこの目は、今朝も、この私たち一人一人それぞれを、見つめてくださっています。

 

 

祈り

私のことを見てくださっている方がいます。しかも私の弱さ、裏切り、罪にも拘わらず、その私の悪いところも全て含めて、受け止めてくださる方がいます。私の中の、死ななければいけない部分を引き受けて、十字架にかかってくださった方がいます。死ぬべき私のために、死んだほうがいいような有様の私のために、死んでくださった方がいます。今私たちは改めて、この主イエスから注がれている眼差しに、慰めをいただきます。主イエス・キリスト、なんと暖かい名前でしょうか。この方に感謝し、この方とともに生きてゆきたいと、心から願います。私たちのこの新しい一週間の中にもあなたは居て、私たちに対して、愛と赦しを与えてくださいます。そこに私たちの希望があります。感謝して、主の御名によって祈ります。アーメン