2021919日 ルカによる福音書226371節 「人間の罪」

 主イエス・キリストの十字架は、神の愛と赦しの恵みが最も色濃く表れる場所ですが、しかし同時にそこは、私たち人間の罪が最も色濃く形をとる場所でもあります。

 先週の54節からのところでペトロが3度主イエスを裏切ってしまったのと時を同じくして、主イエスは夜明けまで、継続的に暴行を受けて、そしてすべての福音書を総合すると、6回にわたる裁判を、この日の夜半から十字架に付けられるまで、繰り返し受けられました。

 誰よりも力を持っておられ、天の万軍を呼び寄せ従えることのできる神の御子主イエス・キリストであり、また物事の善悪を正しく裁くことのできるお方は、この主イエス・キリスト以外におられないはずなのですが、主イエスは側近の弟子たちに裏切られ、暴行を受け続け、善悪の判断が全くついておらず、善と悪がひっくり返ってしまっている人間によって尋問や裁判を受け、全く不正なやりかたで、無理矢理、罪人、犯罪人、受刑者に仕立て上げられてしまわれました。全ての人間の救いのために、クリスマスに人間の姿を取ってこの世に生まれて来てくださった救い主メシアを、人間たちは、逆に血祭りに上げて、救い主を殺し返してしまう。人間は盲目で、これが正しい、これが正義だと勘違いしながら、折角自分を助け救うために来てくださった方を殺してしまうのです。こういう見当違いを平気でやるのが人間の本質的な姿なのだということを、今朝の御言葉は一読で明らかにしています。

 

 ペトロが薪を囲いながら、主イエスを三度知らないと言っている間、主イエスは63節から65節の仕打ちを受けておられました。22:63 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。22:64 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。22:65 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。」

 なんという恐ろしいことをしているのかと眉をしかめて読む他ない、とても正面から正視できないような光景です。目隠しをして、とありますが、これは頭を覆うという言葉です。ただの目隠しだけではなくて、頭をすっぽり袋のようなもので覆ったうえで、その主イエスを囲んで、殴る、罵るということが繰り返されました。そんなに非道なことをして、何の、そんなに激しい恨みがそこにあるのでしょうか?特に恨みがある、ということでははないのだと思います。主イエスも、人の恨みを買うような悪いことは一切なさっていません。しかしその主イエスの正しさ、潔白さ、慈悲深さが、さらなる暴力と侮辱を呼び起こすのです。

 先程お読みした旧約聖書のコヘレトの言葉にも、7:20 善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。7:22 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを/あなたの心はよく知っているはずだ。」という言葉がありました。罪、暴力、呪いや恨みつらみが、すべての人の心の奥底にある。こういう私たち人間にとって、常に正義で、常に善で、いつも正しい、慈愛に満ちた神がいることは、救いであると同時に、その一方でひねくれてしまった人の心にとってそれは、恨めしく、我慢ならないことでもあるのです。自分ではどうにも決別することのできない罪と悪と、心に巣食う邪気を、主イエスは持ち合わせていない。どうやってもこの方には勝てず、その意味で悔しく、恨めしい。

 実際、主イエスはこれまで何の特別な護衛も付けずに行動されてきましたので、敵対者たちが主イエスを捕らえよう思えばいつでもそれができたはずなのですが、主イエスは常に正しく、逮捕に足るような理由もなく、いつも堂々として正しくおられるので、付け入るスキがなく、捕まえたくても捕まえられなかったのです。けれども当局者たち、当時の政治的、また宗教的指導者たちは、そういう自分たちよりもはるかに卓越した、自分たちより上の、清く正しく眩しい、神の御子主イエス・キリストの存在を、どうしても認めたくなかった。悔しくて、許せなかったのだと思います。

結局人は、自分が一番でいたい。つまり、自分が神でいたいのです。たとえ相手が神の御子であろうとも、その神でさえこちらがコントロールできるようになれたらいいのにと考える。人は、子どもであっても、神のごとき万能感を無邪気に求めますし、今世界中には、広島の原爆の1500倍にもなる強力な最新式の核兵器が、なんと1000発あるそうです。神の力さえも手に入れたいという、人間の途方もない、際限を知らない傲慢さがそこにも見えますし、そういう心は、誰にでもあります。そしてもし、その願望を阻む神が目の前に現れようものなら、人はそこで神に屈服するどころか、神さえ敵対者と見なし、神さえ殺してしまおうと、画策する。

その神殺しの願望、その念願が、ついにこの日、叶おうとしているのです。メシヤを自称する神の御子を逮捕し、手かせ足かせをし、頭に袋をかぶせてひざまずかせた時、人は躍り上がって神を殴りつけ、お前はこれでも神なのかと、嬉々として罵倒するのです。

そしてこういう凶暴性が、この見張り役のこの人たちだけでなく、今の私たちの中にも眠っている、潜んでいる。いつそれが覚醒するか、その自分自身の罪の闇の深さが、自分でも把握できず、時と場合によっては、自分が何をやるか分からない、そういう闇の部分が、私たちそれぞれにはあります。

 

主イエスを十字架刑に処するための裁判が始まったのは、夜が明けたのと同時です。そして主イエスが十字架に架かったのは、午前9時だったと、マルコによる福音書に書いてあります。ルカによる福音書には、この間のたった3時間足らずの間に、4回の裁判が行われたと、その様子が記されています。ありえないスピードです。めちゃくちゃな死刑確定手続きです。大きな罪を人々が集団で犯す時、戦争などの時もそうですけれども、悪魔の働きがはびこる、こういう異様なテンションがその街その社会を支配するのです。本当は正しく無罪の主イエスに対して、無理やりの罪の捏造と、でっち上げの極刑の強引な押し付けを、ごり押しで行ったという、これはその人間の罪の記録である以外の何ものでもありません。

おかしな、不正な裁判でした。最高法院という、当時サンヘドリンと呼ばれていた、国の最高議会であり、今の私たちで言えば国会と最高裁が合わさったような場所で、主イエスは行って当然の証言をされず、もちろん弁護人もついておらず、まともな質疑や議論の余地もありませんでした。67節後半から71節までを改めてお読みします。

22:67 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。22:68 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。22:69 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」22:70 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」22:71 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。」

この言質の取り方は全くおかしいのですが、主イエスがこの部分のやり取りを通して明らかにしておられるのは、そういう彼らの、主イエスの言葉を聞く気がなく、議論する気もなく、なりふり構わず、掴まえたこの獲物をこの機に逃がしてしまうことなく、しっかり確実に殺すのだという、ただ、この結論ありきの姿勢でした。

新約聖書の始めに置かれている四つの福音書には、主イエスによる「はっきり言っておく」という言葉が、74回も記されています。そして「聞く耳のあるものは聞きなさい」という言葉も繰り返し語られました。それはなぜか?それは、人に聞く耳がないからです。はっきり何度も言われないと、あいまいに何度も聞き逃し、主イエスの言葉を聞かないからです。

 人間は本質的に、神の言葉を、また聖書の言葉を、聞こうとしないし聞きたくないのです。人の言葉さえちゃんと聞けない私たちですので、神の言葉はなおさらです。生まれつきの、神を知らない状態のそれぞれであったならば、御言葉を読みたくはないし、できれば耳を塞いで、それを聞かないでやり過ごしたい。全品9割引きとか、期間限定閉店セールとか、目先の旨味がはっきりしているような、そういう言葉に人は集まるのですが、しかし教会の説教を聞きに、我先にと人が押し寄せてくることはありません。聖書の言葉の中心に位置している主イエス・キリストの十字架は、愛と恵みと同時に、私たち人間の深い罪を問うからです。そして、その罪は、人間が塵からつくられた人間でしかなく、神ではないという事実を明らかにします。

 人間の領分を乗り越えて、主イエスを十字架に貼り付けにし、神殺しをしてしまった人間は、折角来てくださった救い主メシヤを殺してしまうのですから、本来なら人間皆は、救いに対してすべてノーチャンスで、救われる可能性を自らたち切った神殺しの罪人たちということになります。罪人に、罪に堕ちた者に、救いはありません。地獄での永遠の死が待っている。それが当然の末路です。

 

しかし主イエスは、こんな強引な逮捕と裁判であったにもかかわらず、神を冒涜する、冒涜罪とされて、十字架の極刑に値する、酷い罪人、悪人に甘んじて仕立て上げられてくださいました。そして反論も反目もされず、人間のやりたい放題に罵倒されて、暴力を受け、間違いを犯した罪人として十字架に掛けられてくださいました。主イエスは、なぜそれを甘んじて受けられたのでしょうか?それは、その十字架が、私たちの罪を清算し、洗い流して、赦してくださるための、私たちのための十字架だったからです。

実際に主イエスの十字架の死刑を実行した、主イエスを自分の手にかけて殺したローマの軍隊の百人隊長は、最悪の罪人に仕立て上げられて、間違いを犯した人間として殺された主イエスの十字架の一部始終を見て、ルカによる福音書23章の47節で、「本当に、この人は正しい人だった」と呟きました。

私たち人間が悪人仕立てた主イエスは、本当は正しい人で、間違っていなかった。

そして、間違っていない、正しい者が、正しくない者たちのために、してあげられることがあります。それが、贖いというものであり、代わりに罪をその身に被ってやるということ、旧約聖書で繰り返される動物の犠牲のように、罪ある者のための罪のいけにえになるということが、正しい者にはできる。それは正しい者にしかできないことなのです。

主イエスは、罪のいけにえとして、罪を取り除く神の小羊として、十字架でその命を捧げてくださいました。神様は、神殺しをしてしまうとんでもない罪人である、間違っている私たちを殺すことなく、逆に十字架で、私たちが流すべき血を、受けるべき痛みを代わりに受けてくださり、罪の報酬として、本来は私たちに当てがわれていた死を、主イエスは引き受けてくださいました。そしてここに、私たちの罪を遙かに高く超える、主イエスの愛と赦しを、見ることができます。

 

 ローマの信徒への手紙8章は語ります。33節から39節の御言葉です。

8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。

8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 私たち人間は、深くて深刻な罪を持っています。平気で神に反逆し、神様さえも殺しに行く、そういう間違った、失敗を重ねる私たちです。失敗と罪を重ねることを避けようとしても、「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない」のです。私たちは、自分で、こういう救い難い自分自身を救うこともできなければ、私が罪を犯さなくなるように助けてくれる人も誰もいません。

けれども、8338:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」私たちは、主イエス・キリストが、十字架で罪人を肩代わりしてくださり、代わりに死んでくださったことによって、義とされ、過ちを赦されて正しい者と認定されます。依然として罪が私たちの中にあっても、私の心の奥底に、神様に対する反抗心があり、神様に耳を塞ぎたく思う神殺しの邪念が巣くっているという事実が依然としてこの心にあっても、しかし、ローマ8358:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」誰がキリストの十字架から、罪人である私を引き離すことができましょう。3839節。8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 この心に巣食う罪も、ペトロのように何度主イエスを否み裏切ろうとも、主イエスの愛は、私たちから離れない。何が起ころうとも、神殺しをする相手にまでも、神様の愛は、私たちの罪と裏切りを超えて、十字架で殺された主イエスから、しっかりと手渡される。どんな力によっても、どんな天変地異によっても、動かすことができず、壊し崩すことができず、変えることのできないものがあります。それが、主イエスキリストの、私たちに向けられた、罪人の私を義としてくださる愛なのです。どんなに愛に相応しくない人にでも、どんなに拒絶するような者にでも、主イエスの愛は十字架から迫ってきて、その人のすべての罪もろとも飲み込んで、決して、永遠に、何があっても、その私を、あなたを、引き離さないのです。