2021年10月3日 ルカによる福音書23章1~12節 「正義感」
正義感という言葉をよく使いますし、正義感という気持ちを私たちは、自分で思っている以上に頻繁に感じているのだと思うのですけれども、実は正義感ほど厄介なものはなかなかありません。
コロナウィルス禍によって、他の方もそうだと思いますけれども、このところ私はオンライン会議続きで過ごしています。オンライン会議の難しさは、もし自分が黙っていたらほぼ居ないのと同じことになってしまうという点です。そこに実際に自分が居れば、何も話さない沈黙の中でも、そこで頷いたり首を傾げたりするというしぐさや、目線や目配せで色々と主張し存在感を発揮でき、それはそれで仕事になるのですが、オンライン会議ですと、しっかりと言葉を発して主張しなければならない部分があります。ですから自分の主張や考えを伝えるために、オンラインでは、時に強い言葉なども使いながら、しっかりと自分の考えを主張して相手にぶつけなければならない、そういう場面も出てきます。
そして、その場と相手を動かすために自分の主張を語ろうとする時、そこでいつも頭をもたげてくるのが正義感です。どうしても自分が言ったことが正しいと思いたいですし、自分としても、ここにこの場合の正義があると思って語りますので、それを否定されると、そういう時にはきっと相手もそうだと思いますけれども、かあーっと顔の表面が熱くなって、なんだかドキドキしてきます。そういう議論を交わすことが、牧師たちの間でも度々起こります。力を尽くして議論をすることは、とても大事で必要なことなのですけれども、しかしそこで、一端、これが正しい、これが正義なのだと自分で思って主張したら、なかなか後に引けなくなるということも起こります。
けれども、そういうやり取りからしばらく時間を置いて、落ち着いてから改めて考えてみると、どんなことであっても、自分の考えや、自分の言い分だけが100%正しいということは、決してあり得ない。どちらの言い分にも分があるなと思いますし、自分のあの時の言い方も少し荒かったな、良くなかったなと、後になってから、いつも反省します。
正義感とは、あくまで、それが正義と自分で感じているというだけの話であって、私たちが正義感をもって語ったり行ったりすることが、正義そのものであるとは限りません。むしろ、私の場合は、自分のこれまでを振り返ってみて、私が強い正義感をもって、半ば躍起になって主張したり、行ってきたことのすべては、実はそれは、みんなのための正義というよりも、むしろ自分のための正義であり、自分自身のために、それが正義でなければ気が収まらない、そうでなければ面子が保てない、それを正義だと思いたいという、自分のエゴから来る正義感というものが、ほとんどだったような気もします。
今朝聖書に登場してくるそれぞれは、それは民衆たちのことであり、ポンテオ・ピラトであり、ヘロデ王のことなのですが、それらの人々は皆、それぞれなりの立場で、正義感をもって、決していい加減な、投げやりなことをしようとしたのではなく、それぞれにとっての正しいことをしようとしていました。しかしそれらはすべて、正義感に立つものではあったのかもしれませんが、しかし正義そのものではありませんでした。
今朝ここでは、それぞれの立場とそこにあった正義感を考えてみたいと思います。最初に23章1節です。「23:1 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。」
「全会衆が」という言葉が使われています。ここだけ取れば、これはユダヤ教の議会にいた議員全員が、と読むことができますが、この福音書はそれが言いたいわけではないと思います。この23章の13節には、「民衆」という、全人類とも訳せる、ラオスという言葉が置かれていて、さらに18節には「人々」という言葉があります。この18節の「人々」という言葉は、これもただの人々という言葉ではなくて、「莫大な数の群衆」という意味です。そういう深い意味を込めた、全会衆が、イエスをピラトのもとに連れて行った。
なぜピラトのもとに連れて行ったのでしょうか?ヨハネによる福音書には、この場面でピラトが人々に、「なぜイエスを連れてくるのか、あなたたちが自分たちで裁けばいいではないか」と問いかけて、ユダヤ人たちが「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答える場面があります。
ユダヤ人たちは、ただ主イエスを逮捕して裁き下そうとしていたのではなく、最初から死刑にして殺すつもりだったのです。そういう明確で強い殺意が既に全会衆の中にはあった。しかもその殺意は、私たちがニュースで、「死刑囚」と聞く時に思い浮かべるような、間違いなく危険で、世界と社会のために、生きていてはならない忌まわしい人物として、世界中が認める犯罪死刑囚として、最も残酷な、ローマ帝国の極刑である十字架刑に主イエスをかける、というものでした。しかもルカ福音書はその行為の責任を、ただのユダヤ人議会の議員だけのせいにはせずに、全人類の、すべての人の責任として書いています。
前回の22章71節にも「22:71 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。」という言葉がありますが、全く言質は取れていない、証言も何もない。ピラトもこの後、「この男に何の罪も見いだせない」と三回も繰り返します。そういう絶対無罪の主イエスを、絶対有罪の死刑囚に仕立てる。これも正義感と言えます。ピラトは気が乗らないようでしたが、彼らは彼らの正義を主張しました。5節です。「23:5 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。」もう十字架での死刑という結論が、最初から決まっている。証言があろうがなかろうが、総督ピラトが渋ろうがどう言おうが、関係ないのです。是が非でも、彼らは彼らの正義を押し通そうとしました。
次に総督ピラトですが、彼の正義は、ローマ帝国の地方総督としての、とにかく占領地の治安上のトラブルを回避しなければならない、自分が責任を持っているユダヤで、面倒臭いことが起きてはならない。それに加えて、自分は任期を、平穏無事に満了して、政治家としての有能さを示し、出世する。政治家として、有能な地方総督としての正解であり、彼の正義がそこにありました。当然、ユダヤ人のいいなりになどなりたくないし、物騒な十字架刑など執行したくないピラトは、今朝の御言葉のやり取りの中で、ある耳寄りな情報をキャッチします。6節7節です。「23:6 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、23:7 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。」
イエスは北のガリラヤの地方出身者で、しかも今は過越しの祭りであるため、ちょうどガリラヤ地方の地方領主のヘロデがエルサレムに上京している。だったらそちらに面倒な責任を押し付けてしまえと、ピラトは主イエスを、ヘロデに送りました。
そして地方領主ヘロデは、以前洗礼者ヨハネを投獄殺害し、そのヨハネの後継者のような形で、民衆の人気を集めていた、ヨハネの生まれ変わりとも言われてもてはやされた主イエスのことを、もちろんマークしていました。流れから言えば、主イエスも、洗礼者ヨハネのように殺されてしまってもおかしくありません。けれども主イエスは怯えず、何も答えず、「どうだ、お前の正義を語ってみよ」と煽っても、まるでヘロデを相手にしない。暴君であり、同時に臆病であったヘロデは、怒りを覚えたと同時に、そんな主イエスに恐れもいただいたのではないか?自分の方に正義があると信じて、どうだどうだと暴力も交えて相手を攻撃し、しかし、そこで相手の反撃がない場合、あれっ?もしかしたらこちらがやっていることが間違っているのかなと、逆に攻撃する側の気持ちが、ちょっと揺らぎます。ここで、ヨハネに対してやったように、主イエスの首もはねてしまわないところが、逆にヘロデの政治家としてのしたたかさだったのかもしれません。彼は、派手な衣を着せて、主イエスをピエロのように扱って、それによって、自分の不安や、自分の考える正義を主イエスに対して押し切れない弱さ臆病さを隠すようにして、ピラトに主イエスを送り返しました。
12節には、「23:12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」とあります。なんだこれは?と思いますけれども、これぞ、私たちが先週まで自民党総裁選で見せられてきた、政局だと思います。平気でコロコロ変わって一貫性がない。しかしただ、自己保身、選挙に勝てばいい、そういう意味でのエゴ、そう意味での策士であるという点においてだけ、そこには一貫性がある。これが正義であるはずがないのですけれども、彼らの間の正義は、結局自分が生き残れば正義、必要なら相手を出し抜いて、支配者として勝ち抜けるならば、それが正義なのです。
正義とは何か、誰が尋問され、誰が何の罪に問われ、誰がそれを裁くのか?彼らは、それを決するのは我らであり、正義はわが手の中にあると思い、疑わない。しかしこの後、彼らの正義は、その上を行く民衆の強い叫びと憎悪によってかき消されます。
最後に主イエスを見ましょう。主イエスは黙して、何も語られませんでした。御自分の正義を、御自分の無罪を主張されませんでした。されるがままになられました。では、この主イエスを見て、私たちも主イエスのように、主張をせずに沈黙しておくべきだ、というのが今朝のメッセージでしょうか?もちろんそんな陳腐で簡単な話ではありません。
神の御子として、天使の大軍を天国から呼び寄せて、私たち人間を簡単に握り潰す力をお持ちの主イエスが、私たちが自分を守りたいがために振りかざす勝手な正義感に振り回されてくださる。そして、黙して十字架に架かる。それは何のためか?それは、私たちを悔い改めさせて、救うためです。
ルカによる福音書の続編である、同じルカが書いた使徒言行録には、主イエスの十字架の意味を語った、ペトロの説教が語られています。ペトロは使徒言行録3章でこう語りました。「3:13 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。3:17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。3:18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。3:19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」
反撃して相手を打ちのめすことができる人が、反撃しないのは、それほど相手を大切に思っているからです。相手を殺し返すことが十分にできるのに、それをせずに、ただ自分が殺されてしまうのは、相手を殺して自分が生きることよりも、自分が死んで相手を生かす方が良いと、心に決めているからです。主イエスは十字架に架けられて、死なれました。それは私たちが生きるためであり、そして、殺した側の私たちが、主イエスの血しぶきで汚れた自分の手を見て、自分が何をしてしまったのかを知り、心から、私が悪かったと、悔い改めるため。自分の正義を脇にどけて、そんな小さな正義感を飲みつくして覆い隠すほどの、主イエスの、私のために流された血のように温かい愛を知り、その愛を私たちが受けるためです。
あまり夢を見ることのない私ですが、何度か既に話した話ですが、18歳の時に、十字架に架かっている主イエスの脇腹を、私が槍で突き刺して、そこから噴き出す返り血を浴びながら、私はそれを心地よく感じて、笑い狂っているという、強烈な夢を見たことがあります。その主イエスの脇腹を槍で刺した時の感触や、返り血を全身に浴びた時の生暖かさを、私は今でも覚えています。
私たちは神様さえ殺してしまうのですけれども、しかし主イエスは何と、私たちが主イエスを突き刺す、その時に私たちに降りかかってくる熱い返り血で、私たちを温め、血を流すほどに私はあなたを、痛いほどに溢れるほどに愛している。この血は、あなたに与える私の命だ。分かるか?と、言葉を超えて、その十字架の死を通して、私たちに語り、教えてくださるのです。
正義とは名ばかりの、罪を孕んだ私たちの正義感を前にして、しかし主イエスは、まるで旧約聖書でずっと捧げられてきたいけにえの動物のように、ただ沈黙して、そして人の罪をその身に引き受けて、正しく私たちの罪のいけにえとして、十字架に架かられました。
それによって主イエスは、これが正義だなどと言いながら、いかに私たちが加害者であるかを、見せてくだいました。そして、こんな加害者が、しかしそれでも愛されていて、大事にされている。さらに赦されるという、主イエスと出会うまで私たちが知らなかった血潮のたぎるような熱い愛を、示してくださいました。
主イエスのこの姿から、ヨハネによる福音書のあの有名な御言葉が聞こえてきます。「3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
世という言葉を、それぞれの「わたし」に置き換えて読みたい。「神は、その独り子をお与えになったほどに、わたしを愛された。神が御子をわたしに遣わされたのは、わたしを裁くためではなく、御子によってわたしが救われるためである。」これが主イエスのなさりたいこと、これが主イエスの沈黙の目指すところです。
神は静かに、今週の私たちを見守ってくださいます。イザヤ書にもありました。主の手が短くて、救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのではない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちの間を隔て、罪が神の御顔を隠させている。そうです。ですから神に立ち帰りたい。今週、私たちが、一人静けさを感じる時、その時私たちは、たった一人で孤独でいるのではなくて、ただ私たちがそれに今まで気づかなかっただけで、しかしそこには確かに、沈黙して、わたしを赦して、大切にして、愛してくださっている主イエス・キリストの神が、静かに共におられます。