2021年10月10日 ルカによる福音書23章13~25節 「狂気」
先週、真実の正義とは相いれない、私たちの歪んだ正義感という話をしましたが、今朝の御言葉では、それがさらに暴走して、狂気の沙汰を演じてしまいます。
正義感が狂気へと暴走していく、その最たるものは、聖書が最もしてはならない愚かな誤りだと断じている、戦争です。戦争は、それを行う者たちにとってはそれぞれの側の正義に基づく者なのだと思いますが、しかしそこで繰り広げられることは、神のかたちに造られた尊い人間同士がその命を取り合うという、最悪の狂気の沙汰です。
けれども人類史上、世界のどこにおいても戦争が行われていない瞬間は、これまで、ひと時もないそうです。そして、未だに私たちがそこから抜け出せずにいる人類の罪の暴走としての狂気が、この2000年前の主イエス・キリストの十字架の前で、改めて色濃く浮かび上がっています。
十字架を前にした時に突き付けられるのは、神の深い愛と同時に、この私たちの加害者性だと、先週お話ししましたが、本当にここにあることは、綺麗ごとではなく、血しぶきの飛ぶ殺し合いであり、命懸けの肉弾戦です。
先週の御言葉によってヘロデ王から突き返されてきた主イエスの身柄の取り扱いについて、明らかにピラトは消極的で、自分はこの一件とは関わり合いたくない、責任を取りたくないという、責任回避の態度を示しています。
前回の御言葉に続いて、ピラトは今朝の御言葉でも、「犯罪はこの男には何も見つからなかった。」「この男は死刑に当たるようなことは何もしてない。だから鞭で懲らしめて釈放しよう。」22節でも、「ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから鞭で懲らしめて釈放しよう。』」と。こうやって何度も何度も、これは主イエスの安全を思って、主イエスを逃がしたいから言っているのではなくて、ピラトは、彼の自己保身のために、死刑はやめよう、釈放しようと繰り返しました。
そしてピラトは、その自分の筋を通すために、とても良い方法があると、思い付いたのでした。一年に一回の過越しの祭りの時に、毎年、民衆の願う囚人を特別な恩赦によって釈放するという慣習でした。その恩赦を使って主イエスを釈放してしまえば、ピラトにとってそれは、一石三鳥でした。主イエスを恩赦にして釈放してしまえば、ひとつは、自分が総督として、ユダヤ人たちの言いなりにはならないという、自分の権力を誇示できる。二つには、民衆の希望を聞くことで、民衆に寄り添う、民主的な政治家であることをアピールできる。そして三つめには、どうしても奇妙に思えるあのイエスという男との関係をここで切ってしまえば、自分はこの問題の責任を取ることから、からうまく逃げられるという、一石三鳥でした。
そしてピラトは、このルカによる福音書が、今朝の19節と25節で、二度も「暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバ」と名指しするバラバ・イエスという悪名高い囚人を引っ張り出してきて、主イエスと横並びにさせて、さあ、どっちを釈放するというのだ?どっちが悪者なのか?恩赦はどちらに与えられるべきなのか?と、民衆に問うたわけです。答えは、火を見るよりも明らかです。ここで、主イエスを釈放するという以外の答えは、どう考えてもありえません。
ところが、今朝の18節。①「23:18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。」まさかの答えです。人々は一斉に、と訳されている言葉は、大群衆の全体は、という言葉です。先週も少しお話ししましたが、ルカによる福音書は、この人々という言葉に、ただこの場にいた人々というだけでなく、全時代の全人類という意味合いを注ぎ込んでいます。この全ての人々という言葉の中には、私もあなたも皆が入る。その全人類が、「殺せ、彼を。私たちは、バラバを解き放つ、」と叫んだのです。殺せ、という言葉は、吊るせという言葉です。ただの殺せではない。ただ殺すだけではなく、ここでは十字架が見えている。十字架の上に吊し上げろ!という叫びです。
嘘だろう?と、ありえない答えで、訳が分からない。これは聞き間違いか?と、ピラトは改めて群衆に呼びかけます。しかし、21節②「23:21
しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。」
ピラトは、思わず、why?と、なぜだ?と問いました。
22節23節も続けて読みます。②「23:22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。」
この23節は、「人々は大声で、押しつぶすような強さで要求し続けた。そして、その叫びが勝った。」という言葉です。その声がますます強くなっただけでなく、人々の要求がピラトに勝ったのです。
そしてこれが、この時の総督ピラトによる、主イエスの十字架刑を決する公開裁判の結論でした。しかしこんなもの、裁判ではないです。ただの暴動です。被告人である主イエスは一言も発しませんし、弁護人もいません。裁判長の役回りのピラトも、事柄を正しく裁くことができず、最後には判断を放棄して、自分の身を守ることを優先しました。
24節25節③「23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」
最後の、好きなようにさせた、と訳されている言葉は、「イエスを彼らの正義に任せた」と訳すことができます。
ピラトも悪名高い暴君でしたが、しかしあのピラトでさえ目を丸くして、呆れてしまうような、恐ろしい狂気の沙汰、恐ろしく的外れなことがここで為されました。罪とは、ギリシャ語で、ハマルティアという、的外れという言葉ですが、まさしくこの時の民衆全体の姿が、偽りの正義、的を外すとはどういうことか、罪とはどういうことなのかを表しています。
そして聖書は、その罪の所在、的外れの責任の所在を、ピラトではなく、最終的には、人々に、人類一般を指す言葉としての「全ての人々」に帰しています。
なぜ、御自身は正しいことをなさっている主イエスの道理が、これ程までにも通らないのでしょうか?主イエスは主イエスの筋を通すことができた。しかし、こちらの、人間の側の、罪の、的外れな正義と道理を通してくださり、それをその身に被って、犠牲となってくださるというところに、本当に、主イエスの愛があります。
主イエスは、御自分の正しい筋を通さない。しかし正しい主イエスが、その筋を曲げて、曲がっている罪の筋に、黙って、御自分の歩みを沿わせてくださった。人が間違っているからこそ、人が道を外しているからこそ、主イエスはその罪を十字架刑でそのままご自分の身に引き受けて、罪を罰して正すためではなく、罪を赦し、罪人である私たち人間を救うために来られた。
私たちは今朝、「救いとは何か」という、この大事なことを、改めて見出したいと思うのです。救いとは何か?正しい者が、それを認められてお褒めに与る、恵みを賜るということを、聖書は救いと言いません。逆に救いとは、当たり前でないことが起こること。当然の帰結が思っても見ない良い方向に覆されることを言います。私たちは的を外しています。狂っています。今も昔も、人はキリストの正義を受け入れません。全ての人は、聖く義しい神様の前に、罪人としてしか立つことができません。けれども、その間違っているすべての人間が、間違っている、狂っているこの世の中が、けしからんと断罪されて、それ相応の罰を受けて、滅ぼされて、結局誰も居なくなるのなら、それは救いではありません。
そんな、悪者を成敗する、勧善懲悪の世直しが、主イエスのなさりたいことでは、神様のなさりたいことでは、断じてありません。本当だったら、滅ぼされて当たり前の、人間の狂気の沙汰、この腐った世界を、これを滅ぼすのではなくして、それにもかかわらず赦し、罪の泥沼から引き揚げて蘇生させること。それが救いです。
それは、死刑の判決を受けた、あとは死を待つだけの死刑囚が、しかし突然赦されて釈放されるようなことです。そしてそれは、まさにバラバに起こったことです。死刑囚が、突然無罪放免されるという、そのまさかというような解放と、ありえない救いが、主イエス・キリストによって救われて、罪赦されるということなのです。
正しい者が勝ち、間違った者が負けるというのが世の道理だとするならば、主イエスは勝つべき方であられたのに、勝利を放棄されました。上に立つ者、強いもの、正しい方が、無抵抗の小羊のようにして、十字架に吊るし上げられ、悪者と入れ替わってくださった。救われない罪人が救われる道は、これしかありません。その強盗バラバと共に私たちもそこを通って行かなければならなかった、死刑囚の死への道を、主イエスは私たちの代わりに歩んでくださいました。本当にこの方によってだけ、罪人の救いの道があるのです。
キリスト教の救いとは、実体の伴わない、ただ精神的なものや、魂の安寧の次元にとどまりません。キリスト教とは、実は非常に具体的で、ある意味グロテスクな祭儀宗教だと言うことができます。旧約聖書を紐解けば、すぐにいけにえとか、神様への捧げ物というものが目について、そこでは動物の血が流されて、犠牲が献げられているのですが、罪ある人間が、神様の断罪を免れて生きるためには、旧約聖書の時代から、血の犠牲が、命の犠牲が常に必要でした。
今朝の御言葉に並行する、ヨハネによる福音書には、「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。」と、わざわざピラトが十字架刑の判決を下した時間が記されています。そしてその時間は、出エジプトの際に、イスラエルの民が小羊を殺して、その血をそれぞれの家の扉に塗って、そのことによって死を過ぎこされて、死を免れたという、あの過越しの救いを記念するいけにえを、祭司たちが毎年神殿の庭で捧げる時間だったのです。本来は、過越祭の準備の日の正午のその時間は、祭司たちにとっては、いけにえの羊を屠らなければならない忙しい時間のはずなのですけれども、しかしここで祭司たちは、羊を屠る仕事を放り出して、寄ってたかって、主イエスを殺せ殺せと、十字架につけろと、わめきたてたのでした。つまり、主イエス・キリストこそが、私たちの罪を取り除いて、死から救ってくださる、過越しの小羊に他ならなかったのです。
先週の御言葉で、ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と主イエスを尋問しましたけれども、ピラトが総督として、王として、権力者として振る舞う世界は、本当の正しさが通らない世界、正しいか否かということよりも、力が正しさを形作る世界です。だからピラトは、それでも王なのかと主イエスを侮辱したのですけれども、しかし主イエスは、力ではなく、その自らの血と命と愛によって私たちを守り、生かしてくださる方です。その意味での王としての権威と力が、主イエスにはあるのです。
私の子ども達がまだ小さかった頃、両親が二人で楽しそうにしていると、子ども達はそれ見つけては、両親の間に割って入ってきていたのを思い出します。今は、子ども達は来なくて、犬だけが寄って来るのですけれども、主イエスの力は、無理やり力づくで引っ張ってきて従わせるという権威ではなくて、それは、愛の中へ、居心地の良さの中へ、自然と招き入れるような、人がそこに自ら入って行きたいと願うような権威であり、主イエスはそうやって私たちを御自身に従わせてくださる、王です。主イエスは、そういう愛と命と、居心地の良さが溢れる場所を、御自分の主イエスは十字架によって造り上げてくださいました。入り口の広い、誰でも入れる、赦しと愛の場所を、そこに主イエスが王としておられる場所、過越しの小羊の血によって、その中にいるものの命が救われ守られる家こそ、十字架が立っているこの教会です。そしてここから救いを持ち帰るこの私たち一人一人の家にもまた、主イエスが愛と赦しの王として、君臨してくださいます。この方に招かれて、この方の救いに触れた時に、この方の救い十字架が、他ならないこの私のためであったと悟った時、私たちは狂気から醒めて、新しくなるのです。