20211031日 ルカによる福音書233034節「罪をかばう主イエス」

 今朝の御言葉は、なぜ教会に来るのか?なぜ教会に来て、礼拝を捧げて、聖書の言葉の説教を開くのか?それは、この言葉を耳から心に入れるためだ、と言い切れるほどの、私たちの寄る辺なき人生を、中心で支えるような、これを聞かずに、この言葉を知らずには、死んでも死に切れないと言えるほどの御言葉です。本当にこの言葉以上の言葉は、ないのではないかとさえ思います。

 それは、ルカによる福音書2334節の御言葉です。そこにはこうあります。「その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」

 今朝はこの御言葉を深く味わいたいと思いますけれども、まずはこの言葉を語ってくださった主イエスから溢れ出ている、愛に目を留めたいと思います。

 先程の34節の後半部分には、主イエスの言葉の後に、「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」とあります。既に十字架に架けられているこの時の主イエスと、その言葉の次に書かれている、くじを引いてイエスの服を分け合う人々、との間にある落差は、天と地の落差以上に大きい落差です。愛とは何か?その根本は、単純に考えれば、それは他者への関心です。

御自分が十字架に貼り付けにされて、激しい痛みと恥辱と渇きの中にありながらも、『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』と言われた、体全体で他者に目を向け、命のすべてを他者に注ぐ、その体全体から溢れ出るような主イエスの愛。けれども、父よ彼らをお赦しくださいと言われた、その彼らという言葉をそのまま身に受けている、十字架のたもとにいる人々は、すぐ目の前で起こっている主イエスの十字架と、そこから流れ出ている、熱い血が滴り落ちるような、愛に対して、全くの圏外にいます。「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」本当に血の気が引くようなレベルの無視。他者のことではなく、真心から、自分の自身のことだけしか考えていない、冷たさ。

 自分のことだけしか考えないということは、本当に恐ろしい暴力的なことなのだと分かりますし、目の前で繰り広げられている神の御子の十字架にさえ、心が向かず、動かないエゴイズム。そういう自己中心の罪に、この時代が、この社会が、何よりこの私たち、この自分が、どっぷりと浸かり切っている。そして、その上なおそれを反省することなく、このことに悪びれもせず、すまし顔をして生きているという、大変恥ずかしい、不遜な申し訳の無さを、改めて身に染みて覚えます。

 本当に私たちは、この主イエス・キリストに感謝し、また手をついて謝らなければならない。そういう自己中心だった私たちであることを、そして今も自己中心であり続けている自分を、こんなにされながらも愛を他者に与える主イエスを前にする時には、謝るほかありません。

 

 しかし主イエスが、十字架の上の、息を引き取る前の、この最終的な場面で、声を振り絞って語ってくださった言葉は、『父よ、彼らをお赦しください。』「Father, Forgive them!」「痛いなあ、謝れ!」という言葉ではなく、「赦してあげて」、という言葉でした。

 

 いくつかの聖書の写本、特にキリスト教初期の時代に書かれ、書き写されて世界中に流布した聖書には、この34節の言葉は載っていません。それゆえに、新共同訳聖書でも、34節は各個の中に入れられています。

 その理由は、主イエスを捕まえて、でたらめの裁判にかけて十字架に付けたユダヤ教徒たち、ユダヤ人当局者たちを、外国人たちを含めた初期キリスト教会の人々が、赦せなかったからです。マタイによる福音書2725節には、総督ピラトが、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言ったのに対して、「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』」と答えたと書かれています。

 これを杓子定規にユダヤ人たちの責任のゆえに主イエスが十字架に架けられたに違いないのだと理解するならば、今朝のルカによる福音書が語るように、父が彼らを赦してしまったら、ユダヤ人たちが主イエスを十字架に付けた責任を赦してしまうのなら、それでは元も子もないと初期のキリスト教会の中のある人たちは考えた。だからルカによる福音書34節を、聖書のコピーを作成する時に、これは赦し過ぎだ、言い過ぎだ、この言葉はありえないと、聖書の写本に書き写さなかった。

しかし、この事実を逆に捉えるならば、聖書の全文を間違いなく書き写すのが仕事である、聖書専門の写本家たちでさえ、理解することができず、その理解を超えた、そんな彼らが筆を進めるのを躊躇するほどの、大きな愛がここにある、ということです。この言葉が各個に入っているということは、今朝の言葉が、聖書全体から見ても段違いの、規格外だと言えるほどの、大きな救いと赦しを示している。主イエスの愛とは、それぐらいの、誰も考えられないような、常識外れの大きな愛なのだ、ということなのです。

「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』」確かにそうなのですけれども、十字架に架けたユダヤ人と、また彼らと同じ心を持っている、目の前に十字架がありながらも、それを見ずに、自分のことだけ考えて生きている、この社会、この世界、そして決してユダヤ人だけではない、この私たち一人一人の罪の責任も明らかなのです。

しかし、そのうえで主イエスは、「父よ彼らお赦しください。どうぞ彼らを赦して、その犯した罪から解放してください。どうか彼らを自由にしてあげてください。なぜなら、彼らは自分が何をしているのか、知らないからです。」と、言ってくださった。これは主イエスが私たちをかばうために語ってくださっている、言うなればこれは嘘です。私たちが何をして、どんな罪を犯しているか、決して知らないとは、言えない。罪の責任は私たち人間すべてにあり、現に私たち人間の手が、私たち人間の社会が、ポンテオ・ピラトやヘロデに代表される政治が、そして、大祭司カイアファや、律法学者やファリサイ派に代表される、この人間による、神をあがめるための宗教が、旧約聖書の時代から連綿と恵みと救いを与えられて、神様から支えられ守られてきた主の民たちが、こぞって、これこそが間違いのない正義で、これこそが政治的にも宗教的にも倫理的にも社会的にも正しいことなのだと、そのことについては、社会も政治も宗教も、すべて皆が知って、納得済みの上で、私たち人間の政治が、司法が、宗教が、主イエスを十字架に付けている。

彼らが何をしているのか知らないなんて、こんな言葉は、真っ赤な嘘なのですけれども、しかし主イエスは、そういうものすごく苦しい言い訳をして、聖書の写本家たちですらもこれは無理筋だと思うようなかばい方で、「彼らは知らないんだ。知らないんだよ。だから、父よ!赦して!彼らを!」と、十字架に架かりながら言われました。

それが、大声の叫びだったのか、もう声も出せないぐらいに疲弊される中での、小さなかすれた呟きだったのかは分からないのですが、この言葉を、主イエスが、確かに私たち一人一人のために言ってくださった。いや主イエスは、これを言うために。罪の身代わりとして架けられた十字架のうえから、「彼らを赦して」と、これを言うために、この瞬間のために、生まれれられて、ここまで生きられて、そして「父よ、彼らを赦せ」としっかり言ってくださって、その赦しのために、ここで死んでくださったのです。

 

 私たちの生きる原動力は何でしょうか?何のために頑張るのでしょうか?何を理由に私たちは生きるのでしょうか?自分のためでしょうか?人のためでしょうか?人に喜んでもらうために私たちは頑張るのでしょうか?私たちが頑張って生きて、勉強して、進学して、就職して、働いて、それによって人は、ちゃんと期待していた通りに喜んでくれるでしょうか?もしかしたら、自分がいくら頑張っても、誰も喜んでくれないかもしれません。じゃあ何のために生きるのしょうか?若い時にも年老いて何もできなくなった時にも通用するような、いつ何時も失われない、生きる理由はどこにあるのか、生きる根拠と、年老いても挫折しても、消えるのことのない、変わることのない生きる原動力というものは、はあるのでしょうか?

 どんな時にも変わらない生きる原動力が、ひとつだけあります。それが、今朝の言葉です。この言葉から湧いてくるのは、イエス・キリストの愛です。この十字架の上の主イエス・キリストの言葉に、しっかり後押しされるなら、一生、死ぬまで前進できます。どんな時にも、最後にはここから必ず力をもらえて、立ち上がることができます。そして人生の終わりに死ぬ時にも、私たちの耳は、これは来週の御言葉ですが、「言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」という十字架上で語られた主イエスの最後の言葉を、私たちも最後に聞くことができます。

 死ぬまで、そして死ぬ時にも、死んだ後にもしっかり進める、そこまでやっていける、変わらない、尽きることのない原動力、それが、十字架の上で、父の裁きと怒りの鉄槌を全身に受けて、血まみれになりながら、息も絶え絶えに、その背中で私たちを庇い、傷つかないように守り、愛してくださる主イエスの言葉です。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです。」

すべての人が、神様から自分へと向けられた言葉として受け取って、そこから主イエスの愛と力を受けて、どんな時にも、一生涯をこれで、これを力の源にして歩んでいく。この言葉こそ、そのための、消えない力の源です。

 

祈り

 神様、私たちはいつも、自己中心の自分だけ、自分のためにだけという思いに、凝り固まって、閉じてしまいます。それだけに、他者のために、愛のために生きられ死なれて、そのすべてを捧げ尽くしてくださった主イエス・キリストの姿が眩しく、その姿からあまりにも遠い自分自身を覚えます。けれども、そんな主イエス・キリストが、こんな私を、庇ってくださる。彼らは知らないだけなのだ、彼らはまだ愛を知らないだけなのだと、盾になってくださることに、本当に感謝いたします。神様、ありがとうございます。あなたの愛を教えてください。その愛を生きられるように、十字架からのこの言葉によって、私たちの心を作り変えてください。愛し合うべき、仲間、教会の家族が、私たちに与えられています。愛を学び、愛に生きようとするこの教会という家族を祝福し、さらに新しい、多くの方々をも、この神の家に招いてください。ここに、そして私たち一人一人の心の真ん中に、主イエス・キリストの十字架が立っているということに、感謝いたします。主の御名によって祈ります。アーメン。