2021年11月7日 ルカによる福音書23章35~43節 「天国への条件」
主イエスは十字架に架かられました。十字架刑という処刑方法は、致命傷を負わせずに、じわじわと死に至らしめる方法です。マルコによる福音書には、主イエスが十字架に付けられたのは、午前9時ごろとあり、主イエスが十字架の上で息を引き取られたのは午後3時という記述が、このルカによる福音書にも他の福音書にもありますので、実に主イエスは6時間、十字架に貼り付けになったまま過ごされたということになります。
そして、今朝の御言葉には、その間の、十字架に貼り付けにされた状態での、主イエスの対話が記されています。その対話の相手は、主イエスと一緒に十字架に付けられた、二人の犯罪人でした。
十字架は、実は3本立っていました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、全ての福音書が、主イエス以外に二人が十字架に付けられたと語っています。しかも、その三本の十字架の位置関係も、すべての福音書で、はっきりと語られています。マタイとマルコによる福音書には、「イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、もう一人は左に、十字架に付けられていた」と、このルカによる福音書23章33節と同じように語ります。そして、ヨハネによる福音書は、「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」と語っています。いずれの福音書の言葉によっても、3本の十字架の真ん中に立てられたのが、主イエスの十字架でした。
そして、このルカによる福音書だけが、十字架の上でのこの三人の間で交わされた対話を書き表しています。けれども、皆様はどう思われるでしょうか?その三人の対話を読みながら思うのは、この三人の対話がとても落ち着いていて、これは十字架に架けられている人が瀕死の状態で交わしている対話にはとても思えないということです。なぜこんな形で、ルカによる福音書のカメラはこの三人を極限までズームアップして、死に際の三人の人生最後の対話に、好感度マイクを向けて、その声を拾うのでしょうか?
好奇心からでしょうか?この十字架の極限状態の、ここが一番視聴率のとれる山場だから、その声を拾って聖書に書き記して全世界に拡散しようという、野次馬的なジャーナリズムがここに働いているのでしょうか?もちろん違います。これは私の自由な見解ですが、この対話がルカによる福音書に記されているということは、神様の耳がここにあるということではないか。神様の耳という、超高感度収音マイクが、ここに構えられている、ということなのではないかと思います。3本の十字架に架けられたこの三人が、こういう対話をお互いの間で大声で交わしたのかどうか、それができたのかどうか、分かりません。マタイ、マルコ、ヨハネの3福音書はそれを記しません。けれども、テレパシーではないですけれども、肉声の次元を超えた、互いに心の声を交わし合うような魂の対話をこの三人は行った。そしてその対話は、しっかりと天におられる父なる神様の耳にも届いていて、神様はそれをしっかりと聞き留めてくださっていた。そういうことではないかと思います。
そして、こういう瞬間は、すべての人にある時訪れるのではないかと想像します。死を前にした最後の最後に、聞こえてくる声がある。話しかけることのできる、神様という相手がいる。
死の淵のギリギリをなぞるような時、十字架の上での、激しい痛みや、気を失うような苦しみを、一瞬と通り越してしまうような瞬間、その先に、不思議と痛みが消え、周囲の雑音もなぜか聞こえなくなって、なぜか心に静けさが与えられる。そのほんのひと時の間に、今まで生きてきた人生の色々ば場面場面が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。そんな瞬間が全ての人にはある。そして今朝の御言葉が、まさにその時なのかもしれません。そして同じような死の淵を歩まされている、目の前にいる二人とも、その時ばかりは、不思議と対話が成立する。しかも、その人生最後の時間、そこで脳裏に浮かぶ、私たちの最後の思いと言葉を、神様は、決して聞き逃すことなく、それにしっかりと耳を傾けてくださる。
主イエスと一緒に十字架に付けられた二人は、果たしてどんな二人だったのでしょうか?聖書からは何も分かりませんが、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバでさえ、主イエスと入れ替わりに恩赦を受けて十字架を回避できたぐらいですから、その恩赦にも値しなかったこの二人は、バラバと同等か、もしかしたらそれより酷く激しい犯罪に手を染めた二人なのかもしれません。
しかし、主イエスと一緒に十字架に付けられたその二人は、ここである種の、静かな、澄んだ世界に辿り着いて、そこで、人生最後の6時間を過ごします。
この聖書に入らなかった、新約聖書の聖典ではない、番外編の外典に取り分けられているニコデモによる福音書という文書では、この二人の名前が明らかにされています。そこでは、主イエスを弁護した男がディスマス、そして主イエスを煽った男がゲスタスと名付けられています。
今朝その設定を採用するならば、まずゲスタスが、主イエスから見て左の十字架に架かり、39節で、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」言います。
すると反対に、主イエスの右側にいた、もう一人のディスマスが言いました。40節から42節です。「23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」
ディスマスは、ゲスタスをたしなめて、そして、「我々は、自分のやったことの報いを受けている。」と自らの罪深さを認めました。そして彼は、「この方は何も悪いことをしていない。」と、自分とは反対に、主イエスの無罪性を認めて、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、良ければ、いつかでいいので、誰かの後で、後回しで十分ですので、できたら私を思い出してくださいと、大変控えめに願いました。
そうしたら、全く想定だしていなかった、破格の答えが主イエスから与えられました。43節です。「23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」
人が天国に入るための条件は、ただ単純に、これだけです。すなわち、天国に値しない自分の罪を認め、そして主イエス・キリストを信頼して、この方に救いを願うこと。それだけです。そうしたら主イエスは、いつかどこかでということではなく、今日ここで、ディスマスに救いを与えてくださいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
天国とはいかなるところなのか?それは、何でも食べ放題飲み放題で遊んで暮らせる常夏の楽園ではなく、それは、主イエス・キリストと共にいることができる場所。主イエスと一致、それが実現する場所です。そこで私たちは、あらゆる孤独と寂しさ悲しみから解放されて、神様と共にいる。そのことによって、この私の心と体と魂の、すべてにおける、欠けたところと不足と空洞が、完全に満たされる。それを聖書は天国と言います。
ディスマスの、その生涯の最後の最後の、他の人の耳には入らない、うわごとのような言葉であったのかもしれない一言二言を、神様はしっかりと聞き取ってくださって、主イエス・キリストは、彼と一緒に十字架に架かってくださって、その、誰も寄り添えない最後のところにまでしっかりと一緒にいてくださって、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という、最後の結論を、ディスマスに与えてくださいました。
ここに希望を垣間見ることができます。人を傷つけ殺めたことはあるかもしれないが、教会には一度も言ったことがないような、聖書も開いたことのないような、一度も祈ったことがないような、もちろん洗礼も受けていない、死刑囚の彼が、死に際で天国を約束された。
戦争中、満洲で戦っていた祖父の死に際を思い出します。自分の罪を家族の誰にも告白できなかった。満州で何があったのか、何をしたのか、誰も知らない。いつも手にしていた手帳には主の祈りが書きつけてありましたが、ほとんど教会にも行きませんでしたし、牧師とも話さなかった。けれども、意識がなく、息も絶え絶えの最後の最後、体全体をのけぞらせて最後の呼吸をしていたあの時に、イエス・キリストとの対話がそこにあったならば、それだけで、十分に、主イエスは天国を開いてくださいます。
しかし一方で、主イエスの左にいたゲスタスの方は、残念ながら救われないと見なされています。しかし彼は、救われて天国には行けなかったのだと、本当に言い切ることができるのでしょうか?これは今朝、考えてみる価値のあることです。この主イエスは、先週の御言葉で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、全ての罪人を庇ってくださった主イエスです。ゲスタスとディスマスもその言葉を聞いていたはずです。
そしてその主イエスが、今朝の御言葉では、ゲスタスとディスマスの真ん中に入って、彼ら、最悪の死刑囚二人と十字架を最後まで一緒に耐え抜いて、一緒に死んでくださいました。
ゲスタスは、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言ったと書かれていて、とても挑発的な言葉を発したように翻訳されていますけれども、しかし原文を見てみると、「あなたはメシアですよね?でしたら、あなた自身と私たちを救ってください」と、そうやって懇願しているようにも訳すことができます。ゲスタスには、罪の自覚やそれについての後悔は見られませんけれども、でも彼も、このままで死んでしまって良いとは思っていない。Save yourself and usと、彼は彼なりに、救いを願っています。そしてその願いを、今まで何をやってもうまくいかなかった。荒れ狂って生きてきた。それがこういう十字架という最悪の結果を生んだ。しかし、あなたが本当にメシアなら、救ってよと、この窮地から救い出してよと、彼はその願いを、直接主イエスにぶつけました。この願いはキリストに届いたはずです。
全ての福音書が、主イエスがゲスタスとディスマスの間に、その真ん中で主イエスが十字架につけられたと、声を揃えて語っていることには、意味があると思います。主イエスは、悔い改めたディスマスの側にだけ寄り添って、右側に、右寄りにおられる方なのではなく、ゲスタスとディスマスの真ん中におられる方です。
十字架の上での6時間のうちに、彼らの間で交わされた言葉は、きっとここに記されているだけではなかっただろうと想像します。主エスが二人の真ん中からディスマスに語られた、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉は、ゲスタスにも聞こえたはずです。この後時計は正午を指して、さらに十字架刑は午後3時まで続きます。このあとの長い時間の間にも、三人の間には対話が生まれたのではないでしょうか?そしてその間にもずっと主イエスは、真ん中にいてくださる。苦しむ者たち、救いを願う者たち、かたや悔い改めて天国を見上げ、かたや神がいるならなぜ、神がいるなら救ってみよと、救いを叫ぶ。二人がやり合う間も、主イエスはその対話の真ん中に常にいて、その言葉を聞き留めてくだり、その言葉で、そのしぐさで、行動で、しっかりと答えてくださり、そうやって、いつの間にか、バラバラの、正反対の左右の十字架を、御自分の十字架に繋ぎとめて、一つの十字架にまとめてくださる。ある本に、Three crosses make a
church.とありました。本当にその通りだと思いました。
死すべき私たち、折り合いのつかない罪人としての私たち、神を信じたり、呪ったり、疑ったり、神に叫んだりしながら、最後には神に救いを求めている私たち。誘われても教会に来ることができない知人、教会には来ても玄関から会堂の中には入ってこない家族。その人の声、その存在にも、主イエスは耳を傾けてくださいます。いかなる時にも、そしていかなる者に対しても、主イエス・キリストは隣に居てくださり、その全ての人たちのも含めて、私たちを、大きく豊かな、キリストの教会にしてくださるのです。