2021年11月21日 ルカによる福音書23章44~49節 「十字架がわたしに」
贖いという言葉があります。それは聖書の言語では、ルトロンというギリシャ語ですが、既にルカによる福音書には、2回出てきました。その言葉は2章で、救いと訳され、また21章では解放と訳されていました。ルトロンという言葉の基本的な意味は、人質が解放されるために支払われるための、身代金という言葉です。その身代金という言葉が、あるところでは、救いと翻訳され、あるところでは、解放と言い換えられる。なぜならそれは、その身代金が支払われることによって、解放される人がいる。救われる人がいるからです。
ルカによる福音書2章では、そのルトロンという言葉は、クリスマス記事の終わりに登場する、年老いた女預言者、アンナの口を通して語られました。アンナは、クリスマスに生まれられた幼子イエスに近づいて来て、主イエスを見て、神を賛美して、この幼子は、救いを待ち望む人々皆にとっての、ルトロンだ、救いの身代金だ、と語りました。
十字架に架かっておられる主イエスは、今朝の御言葉で息を引き取られます。そしてその瞬間に起こったことこそが、人々皆が救われるための、身代金の支払いです。
クリスマスの夜、主イエス・キリストがこの世の誕生した時、突然、天使の大軍が、羊飼いたちの前に、夜空に現れて、「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる、大きな喜びを告げる」と歌いました。アンナはこの幼子が人々の救いなのだと言いました。そしてそれから約33年間、この地上は、この地球上は、神の御子主イエス・キリストがそこに生まれ、そこに育ち、神の御子が踏みしめる大地になるという、光栄に与りました。
しかし、神の御子主イエス・キリストがこの地球上を歩まれた、この世界のとっての幸いな33年間に、ここでピリオドが打たれます。地球は、大地は、ここで暗闇の沈黙に包まれて、喪に服します。
今朝の44節から46節をお読みいたします。「23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。23:45
太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」
女預言アンナが、かつて赤ん坊の主イエスを見て口にしていたことが、ここで現実になります。主イエスは、最後に、大声で叫ばれて、御自分の十字架上での死が、どんな死であるのかを、この最後の叫びによって自らの意味付けられました。ただみんなからリンチを受けて、引きずりまわされて、意味なく不条理にも殺されてしまったという受け身の姿勢ではありません。もっと長く生きたかったけれども、こうなってしまって残念だ、死ぬのは嫌だ、助けてくれ、という叫びでもない。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」これはとても能動的な言葉であり、自分自身の命を、父なる神の手に委ねます!渡します!という、自分で自分の存在を丸ごと神様に手渡すという、これは非常に意図的で自覚的な主イエスの行為であり決断です。「わたしの霊」という言葉は、「わたしの命の息」という言葉です。命の息を手渡したら、自分はもう息ができなくなって死ぬ。でもそれでいい。それを、無理矢理やらされて、ではなく、自分から、自覚的に、大声での、天にまで届く、ちゃんとそこにおられる神様に聞こえる叫びとして、主イエスは強い決意と意志をもって、「父よ、わたしの霊を、わたしの命を、御手にゆだねます!あなたにお渡しします!」と言われて、息を引き取るというよりも、主イエスはここで、最後の息を上に向かって吐き切って、空っぽになられました。
最近電子マネーというものが登場して、コンビニで会計をする時に、携帯電話やカードをかざすと、ティリンティリンッ!と小気味良い音がして、その瞬間にお金の支払いが完了したと分かるようになっています。
段違いに次元の違うことではありますけれども、ここで、「父よ、わたしの命を、あなたにお渡しする!」と大声を上げられた主イエスのその最後の息が吐き切られた瞬間に、天の父なる神様に対して、支払いが完了したのです。人々皆を救うための身代金が、神様の御手の中に預けられ、あちらに振り込まれ、決済が済みました。
神の御子が、全ての人に加えられる筈だった神の罰と罪への裁きと引き換えに、その命を捧げて、この世を去った。この時には、太陽さえも光を失い、全世界とこの宇宙全体が、時間が止まるようにして完全に沈黙し、太陽の光さえない真っ暗闇の中で、すべてが喪に服しました。
私たちも、沈黙せざるを得ない。こんな大変なことが十字架で起こったと知る時、言葉が出ません。この沈黙の次に、果たして何と言ったらよいのか分かりません。
しかし突然、場違いに思えるような言葉が、場違いに思える人から、発せられました。この十字架を一番近くで見ていた、この死刑を執行した兵士である百人隊の隊長は、何といったと思いますか?
百人隊長の驚くべき反応が、47節に記されています。「23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」
百人隊長は、十字架からの返り血を浴びるほど、誰よりも近くで主イエスの十字架を見ていました。そして主イエスの最後は、今まで見てきたどんな人とも違う最後でした。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という叫びと共に神の御子がこの地上から失われた。この瞬間、主イエスを失ったこの世界は、真っ暗な闇に包まれた。そこで、死刑を執行した百人隊長が、「やれやれ、やっと終わった。」とも言わず、「まずいことをしてしまった、殺してはならない方を殺してしまった」とも言わず、イエス・キリストというその人について、「正しい人だった」と述べて、そして、神を賛美する。なぜここで神を賛美するのでしょうか?
オークションの様子をたまにニュースが映しています。先月、バンクシーの絵が、28億円で落札されたというニュースを見ました。バンクシーとは、世界の紛争地域などでゲリラ的に作品を残す謎のアーティストです。東京の防潮堤の壁に作品を残したり、淡路島の洲本にも来て、公園の壁に絵を描いたのではないかとも言われています。その作品は、一見、スプレーで壁に吹き付けた、誰でも描けるようなただの落書きなのですが、そういうものがオークションにかけて、何十億という値が付くことで、それがただの落書きではなく、どんな絵よりも高価な、価値ある芸術となっています。
そして、次元の違う話ですが、主イエス・キリストの十字架の死で起こったことも、これにある意味似ているのではないかと思います。十字架の死によって、世界は神の御子イエス・キリストを失いましたけれども、それは悲しみであると同時に、この世界と、そこに住む私たち一人一人の命の落札額の確定でもあります。この世界と私たちは、神の御子主イエス・キリストが、その命を身代金として神様に捧げて、初めて折り合いがつくという、それ程の、イエス・キリストの命と等しい、お金をいくら積んでも買い取ることの不可能な、果てしなく高い価値を持つ。私たちとこの世界の無限の価値が、この主イエス・キリストが最後の息まで捧げ尽くした、この十字架で、その身代金の、落札額の高さによって、確定した、立証されたのです。ですから十字架を見る時、悲しいのですけれども、でも同時に、嬉しい。有難いのです。この贖い、ルトロン、買い戻しが為されたことで、私たちとこの世界の無限の価値が示され、主イエスという身代金の支払いによって、裁きや罰ではなく、救いと解放が、神様から私たちに、もたらされることとなったのです。
百人隊長は、そこを感じ取り、見出したのではないか?そうでなければ、6時間かけて主イエスを惨殺しながら、その場面を見ながら、そこで神を賛美することなどできないからです。
百人隊長は、「本当にこの人は、正しい人だった」と言いました。正しいという言葉は、信仰義認の、義という言葉ですが、義という、正しさという言葉が持つ第一の意味は、イコールだということ、均衡していて、バランスがよく取れている状態になっているという、そういう意味を、実は義、また正しさという言葉は持っています。
そして、イコール、バランスが取れているという、この言葉の意味は、今朝の私たちが知りました、ルトロンという、身代金の支払いによる救いということを考える際にも、助けになります。つまり、百人隊長は十字架で死なれた主イエスを見て、主イエスが十字架に架かることで、神様と、人類の、会計収支がバランスする、この主イエスの良き愛の業によって、人類の神様への負債は完済され、神様の怒りは沈められ、なだめられ、両者の関係が均衡し、私たち人間は、そのことによって神様との間に救いを得て、平和を得て、和解を得て、今私たちが礼拝をしているように、堂々と神様の前に出ることができるように、私たちは、そこで初めて神様の前に自由になることができる。
百人隊長は、他の福音書では、「本当にこの人は正しい人」という言葉ではなく、「本当にこの人は神の子だった」と呟いたとされています。「本当に主イエス・キリストは神の子だ」ということが、どこで本当に分かるのかというと、それはまさにここで、主イエスの十字架の死のたもとでこそ、それは分かるのです。
そして、ここで、一つ大事なことをお伝えしたいと思います。それは、この世界の存在するのは、天におられる神様と、この私たちという二者だけではないということです。もし、神様と私、神様と人という、二つの極だけを考えて、その捉え方の下で皆さんがここにおられるのだとしたら、残念ながらそれは、大きな誤解のある捉え方で、神様と人間とを捉えてしまっていると言わざるを得ません。神と私、神様と人ではありません。実はその間に、もう一人の主イエス・キリスト方が、欠けてはならない大きな存在として、そこにおられます。御自分を、全ての人のための救いの身代金としてくださった、百人隊長がルカによる福音書で語っている、「全ての人々の代表としての本当に正しい人間」であり、かつ、他の福音書で百人隊長が語っている、「本当の神の子、主イエス・キリスト」。この主イエス・キリストが、神様と私たちの間におられます。そしてその主イエスは、45節にありますように、神の聖域と人間の住む場所を分け隔てる境界線の役割をしていた神殿の垂れ幕を、ど真ん中からぶち抜いて、神と人との間にある隔てを取り払ってくださいました。
神様と私たち、ではないのです。神様と、イエス・キリストと、私たちです。そしてキリストがなければ、救いはない、和解はない。神様と私たちの間の関係など、このキリスト無しには、何もないのです。
だからこそ逆に、この主イエス・キリストに、「本当に、この人は正しい人だった」と言えたら、「本当に、この人は神の子だった」と言えたら、神と私ではなくて、神と、神の御子、主イエス・キリストと、私。ということが本当に分かって、ああそういうことなのかと、この百人隊長のように、本当に発見できたら、その真実がこの口をついて言葉として出てきたなら、その時に私たちは変わる。その時私たちは神様と本当に繋がる。その時私たちに、本当に喜びがあふれる。私たちは本当にそこでこそ救われて、私は、神を賛美する私に、そこで本当に、なる。
十字架の周辺には、様々な人々が呼び寄せられました。聖書の世界の西の果てから突然舞台の上に立たされて十字架を背負わされて救われた、異邦人のキレネ人シモン。主イエスの左側の十字架に架けられ、主イエスをののしりながらも、救いを間近で見て、死の瞬間まで、しっかりと主イエスに隣り合っていただいたゲスタス。けれども、今朝の百人隊長はその中でも最も酷い主イエスの敵対者であり、彼は、十字架刑の執行者でありイエス殺しの実行犯です。けれども、彼の目が、この6時間にわたる主イエス・キリストの十字架を捉えた時、その口から、「本当に、この人は正しい人だった」と言葉が漏れた。こんな百人隊長が、しかし主イエス・キリストを見出し、神を賛美した。
48節49節。「23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」
では、果たして、2021年11月21日に板宿教会に集まった、また、この御言葉をオンラインを通して聞いた私たちは、どうするべきでしょうか?御言葉を通して、信仰の目をもって、十字架での主イエスと、百人隊長の姿を今見た私たちは、どうするべきでしょうか?胸を打ちながら帰っていくのでしょうか?遠くに立って見ているのでしょうか?いや、そうじゃないと思います。私たちは帰れないし、ただ遠くから、立って見ているだけでいるべきではありません。このような死刑執行人の百人隊長でさえ、彼は、見物に来ていたどんな群衆よりも、そしてイエスを知っていたすべての人たちや、ガリラヤから主イエスに従ってきた誰よりも、この時、神様に、主イエス・キリストを通して、結び付くことができました。
なぜならそこには、完全な身代金の支払いがあるからです。どんな取り返しのつかない大きな罪からも、どんなに大きな負債からも解放し、救う力が十字架の主イエスにはあるからです。それゆえ、この百人隊長は、誰よりも深く大きく、救いの中に入っていくことができました。今朝私たちが招かれている場所は、そして、私たちがその場所に立つことを、神様から願われているのは、百人隊長が立っていた、十字架の真下です。