2021125日 ルカによる福音書24112節 「復活」

 今朝のテーマは復活です。主イエスは十字架の上で死なれて、葬られた後、今朝のこの御言葉のところで復活をされます。死からの復活。確かに復活とは、キリスト教の、この聖書の中でも選りすぐりのパワーワード、力のある強い言葉です。そのズバリ「復活」という、すごい説教題を今朝は掲げています。

 どんな力強い説教が語り出されるのだろうと身構えておられる方もいらっしゃるかもしれません。けれども今朝、そんな景気の良い説教題を掲げて、そんなパワーワードを口にしていながらも、そんなことを説教しているこの説教者自身の顔が、帯状疱疹の腫れた顔になっています。これで「復活」とは、笑わせるなと。その顔で、復活とは、リアリティーがないではないかと、口先だけでそんな景気の良いことを言ってる場合ではなく、まず説教者自身、ちゃんと復活しておけよと、そう思われて仕方ない状況に、今なってしまっています。

 

 けれども、聖書が語る復活とは、全てをバラ色に変えるようなことなのではありません。それをもってすべての状況が、あらゆるものがハッピーに様変わりするわけではありません。復活という、この決め台詞、水戸黄門が持っていたような、この復活という印籠が示されることによって、すべてが解決されて、一件落着で、全ての幕引きがここで為されるのではありません。聖書はそんな麻薬のような、私たちの現実感覚をある部分で麻痺させるような、そんな類の、非現実的で楽天的な救いを、復活によって、私たちに与えたいわけではありません。

 

 実際に主イエス・キリストが復活した朝、それを囲んでいた人々はどうなったかというと、逆に彼らはハッピーにはなりませんでした。むしろ、復活を語る今朝の御言葉に出て来るのは、こんな顔をした人たちなのです。それは4節から後に続く、ネガティブな動詞の連続によって、幸せとは反対の行動をとる人々の姿によって明らかにされています。登場人物のしぐさや行動に焦点を当てて4節以降を読んでいきますと、ここに出て来るのは、復活という事実に立ち会いながらも、途方に暮れる人、恐れて地に顔を伏せてただ下を向く人、混乱する人、復活の知らせを聞いてもそれはたわごとだとして信じない人、混乱してとにかく居ても立っていられずに走り回る人、理解ができず驚き怪しむ人、そしてそういう状態で、頭の中が整理できずにグルグル回ったまま、そのままの状態で帰っていく人です。

 

 主イエス・キリストの復活に立ち会って、ガッツポーズを作って喜ぶような人は、一人もいませんでした。そしてこのルカによる福音書の、復活が起きた日曜日の朝の描き方には、とてもリアリティーがあり、現実味があります。復活が起きた。やったー、万歳というような能天気さはここには欠けらもありません。喜びはおろか、十字架の死に立ち会った百人隊長でさえ表した、神様への賛美も、ここには何もありません。いたずらに、非現実的で楽天的な、景気の良い話がここで語られているのではありません。そうではなくて、本当にリアルな、生の現実が語られています。

 

 このルカによる福音書が語るのは、空想的な絵空事ではなく、常に、どこまでも、私たちのこの生活に根を下ろすような現実的な話です。先週の主イエスの葬りの御言葉もそうでしたが、そこにあるのは、私たちの普段の、普通の葬りの現場で起こるワンシーン、ワンシーンでした。そして今朝のこの御言葉もまた同じです。

 

 私は、今リジョイスの原稿を書きながら、ルカによる福音書を改めて始めから終わりまで読んでいるのですが、改めて、ルカによる福音書が神殿に始まり神殿に終わるということに気が付きました。ルカによる福音書の1章は、ザカリヤという一介の老人が、神殿で仕えている場面から始まります。そして、少し先取りをしてしましますが、ルカによる福音書の最終章のこの24章の、最後の53節は、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」という言葉で終わります。

 神殿とは今で言うこの教会のことですから、そしてこの教会の中心は日曜日のこの礼拝ですから、神殿に始まり神殿に終わるというこの書き方は、つまりこのルカによる福音書に書かれていることの全体が、この礼拝で起こることなのだということ、教会に集まって礼拝しているこの私たちの現実の中で、この私たちの現実と結びついて、この福音書に書かれていること全体が生起するのだということ。ルカによる福音書に書かれていることのすべては、この礼拝で、私たちの現実の中で起こり、それは聖書と同じく、これが私たちが今ここで体験することなのだ、ということを意味しています。今この教会で、この礼拝で起こることを述べるために、このルカによる福音書は書かれたということができるのです。

 

毎週礼拝で、主イエスの十字架の救いだとか、復活だとか、聖書の言葉が語られているけれども、それを語っているのは、所詮と言っては何ですが、所詮この人間なのです。海に漂っているプラスチックの方が人間の命より長く残りますし、その辺に落ちている木片の方が、この体より硬い。そういう意味ではプラスチックよりも儚く朽ち果ててしまう、木片よりももろく壊れやすい、生のこの体をもって、病気と闘いながらなんとか生きているこういう人間が、今朝の復活の出来事を知って、果たしてどうなるのか、ということが、今朝の御言葉で現実的に語られているのです。この復活が、私たちにとって、何の足しになるのでしょうか?

 

 天使が出て来て、人の子は復活なさったのだと天使に言われても、怖いですし、ピンとこない。それを他の人に伝えても、たわごとだと、つまり嘘だと思われて、信じてもらえない。十字架の主イエスの決死の場面でも出ていかず、主イエスの体がいたずらに見知らぬ人によって葬られた時にも顔さえ出さなかった薄情で弱虫な弟子のペトロが、しかし、何だかよく分からないけれども、思い立って、墓に走り出した。人の死は、人をこうさせます。もう事は終わってしまったのに、無性に叫びたくなり、ある時どうしようもなく、髪を掻きむしる。整理されていない、散らかったままのその思い。ペトロが墓に行って中をのぞくと、亜麻布がそれだけ置いてあった。

この亜麻布についてはヨハネによる福音書がもっと詳しく書いておりますけれども、遺体泥棒だったら主イエスの遺体から、血潮で部分的に湿っていたであろう亜麻布をわざわざ剥ぎ取ることはしません。古代エジプト展のミイラを見ても、遺体を巻く布は、遺体と一体化して剥ぎ取れなくなっている。女性たちは金曜日にその様子を凝視したわけですけれども、しかしこの時には、まるで遺体が生き返って、パジャマを脱いで畳んでベッドの隅に置いておくようにして、もう死から蘇って生きておられる主イエスにもはや不要となった死体を巻く亜麻布は、墓の隅に整然と畳んで置かれていた。ペトロはそれを見て、驚きながら帰途に就いた。

 

 私たちにもこういう日曜がある。教会に来ても、これに何の意味があるのかと、首をかしげながら帰る日がある。礼拝に来ても、ここで、直接死からの復活した主イエス・キリストの姿を見て、その体に触れることはできない。亜麻布しかない。

 主イエスは、バアーッと、ほらっとは、現れられません。主イエスは、この復活の日の朝、ここで墓から復活されながらも、そこを訪ねてきた婦人たちや、走って墓までやってきたペトロに、その姿をお見せになることはなく、皆、主イエスの姿を見ることができませんでした。しかし、ルカによる福音書で、主イエスが復活された後、初めてその姿を現されたのはどこだったでしょうか?

 それは、これもちょっと先取りますが、24章の3031節です。24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

 主イエスが初めてその復活の姿を現してくださったのは、賛美の祈りを唱え、パンを裂いた時、つまり、礼拝の時、さらに聖餐式の時でした。聖餐式をしている場面に、復活して生きておられる主イエスの姿が瞬間的に現れて、そして消える。これも、今の私たちの、この状況そのものを示す、私たちの間で起こっている現実です。

 

 今朝改めて覚えたいのは、主イエス・キリストの現実性であり、私たちと共なる者になり、同じ立場に立ってくださるという、その生活感とでもいうべき共通性です。主イエス・キリストは、無敵の超人的なスーパーマンであられたのではなく、私たちと同じく、このもろく壊れやすい、生の体で生きてくださり、十字架で、おかしくなるぐらい痛んでくださり、死なれた。そして、何の変哲もない、私たちが入るような普通の墓に入られた。さらに、主イエスはそれだけでなく、この生の体で、生き返られた。主イエスの生と、死と、復活は、そのすべては、御自分のためのものではなくて、私たちの足りないところを生き切り、私たちの死を身代わりに死に切り、私たちの復活の先駆けとしての復活を生身の体で主イエスは成し遂げてくださった。そういう風にして、まさに主イエスのすべては、今のこの私たち生と死とその後の命に対して向けられたものだった。

 主イエス・キリストという、生身の体で生きて死んで復活なさった神の御子は、私たちの痛みを知っておられますし、私たちの病も、手術台に上る時の気持ちも、体を裂かれる痛みも、横たわるしかない無力も、墓の中の臭いも、全部知っておられます。主イエスは遠くへ、私たちを置いて遠くへは決して行かれません。この方は、今この礼拝に共におられます。とりわけ聖餐式で、その姿を私たちに見せてパンとぶどう酒を通して私たちに御自身を味わわせてくださいます。そして主イエス・キリストは、この礼拝から始まる一週間にも、常に、全ての瞬間において共にいてくださいます。

 復活の主イエスを見失ったり、そこで恐れたり、焦ったり、信じられなかったり、モヤモヤとした気持ちで帰途に就くのはこの私たちのことだけで、しかし主イエス・キリストは、しっかりと今も生きて、この私たちのことをしっかりと見止めて、一緒に歩んでくださいます。

 復活とは、今日私たちがどんな状況にあろうとも、私たちがどんな私たちであろうとも、主イエス・キリストが生きて、この私たちそれぞれと共にいてくださるということです。