20211212日 ルカによる福音書241335節 「心燃える時」

 今朝の御言葉は、私たち皆にとって、根本的に大切な御言葉だと思います。なぜならそれは、説教の題に掲げられているように、今朝の御言葉が、いつ、どんな時に、どうやったらこの私たちの心が燃えるのかということについて、語っている御言葉であるからです。

 心が燃えるということについて、今朝の32節に、こう語られています。24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」

 この32節の心という言葉は、カルディアというギリシャ語で、心という意味と共に、木の木目の中心にある芯とか、木の実や、骨の真ん中にある髄とか、海の底とか、そういう根本的な、体や心の髄、芯、底にあるものを示しています。その心の髄が、燃える。次のこの燃えていたという言葉は、ただ普通に燃えているという意味ではなくて、英語で言えばkindleという、きらめき輝きながら、メラメラと燃え立つという意味を持っています。

 この32節の、「わたしたちの心が燃えていた」という言葉は、そういう、心が芯から燃え立って、体が骨の髄から熱くなる、という言葉なのです。復活の主イエスに出会った弟子たちの体験に基づくこの言葉は、今朝の私たちにとって、とても大事な言葉です。

 

 冷え性の私は、時に心まで冷え性になってしまいます。病を患って時に不安になることがあります。私の帯状疱疹という、やがては治る病ならまだしも、不治の病を得ている方々もたくさんいらっしゃいます。そして誰もが、大きな病に至る可能性があります。そういう現実は、どうしても私たちの心を、燃えるというのは、逆の方へ逆の方へと冷やしていってしまう。それは辛いですし、ふと一人、今自分の心は冷え切って、冷たくしまっているなと気付く時、何ともやるせなく行き場のない、寂しい気持ちになってしまいます。

 どうやれば、この心が温まるのか?誰と居れば、どこに行けば、この心は安らうのか?甘いものを食べるのもいい。時にはアルコールを手に取ることもあるでしょうし、ぱあっと旅行に行くとか、好きなことをするのもいいと思います。でも私たちは、その心の温め方では、一時しか間が持たないということを知っています。

 もっと、絶えず、悪い譬えですけれども、いくら水をかけても消えない原子力の炉心のように、永続的に燃えている。そういう火が、この心に点っているならと思います。でもこの心はとても弱くて繊細で、もろいので、原子力の火のような暴力的で強い劇薬をもって着火させるやり方では、この心は壊れてしまいます。

毎日少しずつ、小さなろうそくの火を消さないような仕方で、小さく目を出した植物を、じっくり育てるようなかたちで、この心は育まれ、育てられ、薪を少しずつ火にくべるようにして、燃やされ続けなければならない。

 

今朝の御言葉で、この時道を歩いていた二人の弟子たちは、冷え切ってしまっていた心の髄が、しかし太陽に照らされるようにして温まり、心に温かみを回復させられるような体験をし、さらにそればかりかその心には、メラメラと燃えるような決して消えない優しく力強い火種を与えられました。ですから、この二人を見る時に、この心の燃やし方が分かる。この心の燃える時が、どんな時なのかが分かるのです。

 

聖書には、今朝の始めの13節で、この時二人の弟子が、エルサレムから、これは約11キロメートルの距離ですけれども、60スタディオン離れたエマオという村に向かって歩いていた。とあります。

その弟子の一人はクレオパという名前であることが、18節で分かりますが、もう一人の名前は分かりません。ある説教者は、もう一人はクレオパの妻ではないかと想像していますが、それはあまりにもつまらない想像で、聖書が匿名の人物を描く時は、それは聖書を読んでいるこの私たち一人一人を聖書の内側に招くためですので、クレオパと一緒に歩いているもう一人は、自分のことだと、私はそういう風に自分をここに当てはめて、この御言葉は読むことが許されていると思います。

そして、この二人の歩みは、本当に失望に満ちた歩みでした。小さい頃に見た紙芝居の印象ですと、何か牧歌的な二人の弟子たちがのんびり散歩をしているような絵柄が頭に浮かんできてしまうのですが、そういうゆとりはこの二人には全くなかったというのが、聖書が描く二人の事実です。

 時は主イエスが金曜日に十字架で死なれてから三日目の日曜日です。主イエスの弟子だった二人は、うなだれていました。ずっと信頼してエルサレムまでその背中を追いかけてきた主イエスは、既に死んでしまっていました。全ては終わってしまっていました。ですから二人は、言わば葬式からの帰り道、火葬場からの帰り道を、打ちのめされてとぼとぼ歩いていたという状態です。火葬場からの帰り道というのは、もう自分の足が地面を踏み締めて歩いているという感覚が無くなって、足が自動的に動いているような、もうあまり周りの音が耳に届かなくなって、耳も聞こえなくなっているような、抜け殻のようになって歩く帰り道です。そして、人生の空しさ、儚さを感じる。次は自分かもしれないなと、自分自身の人生のこれから先にも、死の影が及び、死臭が漂うのを感じるのが、葬儀の帰り道なのです。恐らく二人の住む家は、エルサレムから11キロのエマオの村にあったのでしょう。弟子も解散し、弟子としての生活ももう終わりです。ペトロたちとももう、会うこともないと思われます。そんな中、もうエルサレムにいてもしょうがないので、寂びれた故郷に力なく歩みを進めている。これは二人の、心砕かれてしまった元弟子たちなのです。

 

 呆然と歩いていた二人は、きっと何度も同じ話を繰り返していたのだと思います。繰り返したところで、全ては無に帰していて、もう何も変わりませんが。そんな二人に、15節から21節を改めてお読みします。24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」

 主イエスは、二人が気付いていない段階で二人と共に歩いてくださり、二度も、やり取りしているその話は何のことですか?どんなことですか?と、二人の話に耳を傾けてくださり、何も言わず、二人の嘆き節に、まず耳を傾けてくださいました。まずこうやって、二人の気持ちを共に味わい、その気持ちに寄り添っていくことなしには、冷えてしまった心は、息を吹き返しません。

 

 彼らの嘆きを聞いてくださったあと、主イエスは何を話されたでしょうか?死は終わりではないのだと、何か哲学的なことを話されたのでしょうか?そうことではなくて、彼らに主イエスが話されたことは、聖書全体のこと、そして、聖書全体にわたって書かれている、主イエス・キリスト御自身のことでした。

 25節から27節をお読みいたします。24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」

 「預言者たちの言ったことすべて」とは、具体的にはこの当時皆の手元にあった旧約聖書のことが言われています。「その聖書全体をしっかり読んで信じるならば、今私が救い主として十字架で死に、しかし十字架の死は無意味な幕切れなのではなく、救いと栄光への道だということが分かる。そうすれば、その救いを打ち立てた、救い主主イエス・キリストのことが、つまり私のことが分かるのだ。」と、主はおっしゃいました。

 

 そして主は、弟子たちと共に食事の席についてくださいました。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」十字架の前の日に行われた最後の晩餐は、実は最後ではなかった。主イエスは復活して、弟子たちの食卓の席について、今も弟子たちと食事の席を共にしてくださいます。主イエスとの晩餐の食卓は閉じられていません。それはこの教会で行われる聖餐式にも続いている。ここにも主イエスは同じようにして共にいてくださいます。そして二人の弟子は、ここで、復活し、生きておられる主イエスと出会いました。その時、死の嘆きや恐れはどこかに吹き飛ばされ、この方は主イエス・キリストだと、二人に分かった。確かにあの主イエスだと分かりました。31節です。24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」しかしその瞬間、主イエスの姿が見えなくなった。聖餐式のパンを渡された瞬間、主イエスの姿が見えなくなったということは、これは、主イエスが消え去ったということではなくて、聖餐式に私たちが与ることによって、目に見える一人の人の肉体としての主イエスの存在が、必要でなくなったということです。主イエスは今や、この私たちの間に、この私たちの中に、私たちの心臓よりも近く、深いところに、心の髄に、共に生きていてくださる。その証拠に、主イエスが見えなくなって、二人の心がまた冷めたのではなく、かえってそこで燃やされたことを、聖書は物語っています。続く32節、24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」もう冷めない。心の髄が、全然冷たくならない。

 なぜか?主イエス・キリストが、私たちの命の炉心となって、目には見えないけれども、今確かに、共に私たちと生きてくださっているからです。その熱い現実が、聖書を読む度に、みるみる鮮やかに分かるからです。

 

 しょんぼり歩いていた弟子たちは、今度はもと来た道を引き返して、11キロを一気に走り抜いて、一目散にエルサレムに戻ります。主イエスの姿が見えないことは、この方に限っては、そこに存在しないということを意味しません。見えないということは、逆に、見える形を取らずに共にいるということであり、主イエスは見えないかたちで、霊において、居ないのではなくて、息を吸えばいつも鼻に入って来る空気のように、いつでもどこにでも共にいてくださり、今も、益々力強く、私たちと一緒に生きてくださいます。そのことを二人の弟子は知りました。そしてエルサレムに戻ってみると、他にもそのようにして復活の主と出会った弟子たちがそこにいて、彼ら弟子たちの証言は、復活して、生きておられる主イエスというその一点で、ひとつに溶け合っていきます。

 

クリスチャン、キリスト者とは、あるキリスト教という理念に迎合した人の集まりではありません。キリストの考え方やキリスト教思想というような主義主張を、単に愛好して、それを、もっともだと思いながら生きている人のことを言うのではありません。クリスチャンとは、今も生きている一人のお方。死から復活して、今も生きておられるイエス・キリストに、結び付いて、この方とひとつになって生きている人、そしてこれからも主と共に生き続ける人のことを言う。クリスチャンとは復活の主イエス・キリストと結び合うことによって、もう死によっては殺されることのない人々のことを言うのです。

 

 人間の心が、芯から輝くように燃え盛るのは、死さえも克服してくださった主イエス・キリストが、このように私たちに寄り添って、共に歩いてくださること。見えないかたちで、しかし誰よりも近く、共に生きてくださること。それを知ってその命に生きること。聖書からその主イエスを語る福音を読み、また聞くこと。その時にこそ、この心は芯から、燃えるのです。