2021年12月19日 クリスマス礼拝 ガラテヤの信徒への手紙445節 「時が満ちる瞬間」

 メリークリスマス!クリスマス、おめでとうございます!普通誰かの誕生日では、誕生日を迎えた人自身が、おめでとう!と祝ってもらうのですが、クリスマスでは、生まれられた主イエス・キリストではなくて、そのクリスマスを迎えた私たちが、主イエス・キリストの誕生の周りに集まる人々が、逆におめでとうと祝いの言葉を向けられます。それは、このクリスマスに起こった主イエス・キリストの誕生が、徹頭徹尾、この私たちのための誕生だったからです。クリスマスが私たち一人一人にとっての、「おめでとう」と言われてしまうぐらいの、祝いだからです。

 

 今朝、聖書の中からお読みさせていただいた言葉には、こうあります。4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

 ここには「時が満ちる」と書いてあります。そして、その時が満ちる瞬間というのが、その次に書いてあります。その次の言葉には、「神は、御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。」とあります。これは、クリスマスのことです。主イエス・キリストの誕生のことをこれは指しています。つまり、クリスマスに時が満ちると。

 

 時が満ちるとは、どういうことなのでしょうか?潮の満ち引きのように、時も満ちるのでしょうか?聖書は、何を言わんとしているのでしょうか?

 もうあと一週間半で年末ですので、一年の中でもとりわけ、私たちが時間というものに敏感になるこの時に、改めて時というものについて、今朝御一緒に少し考えてみたいと思いました。時とは、私たちそれぞれにとって何でしょうか?

 先週読んだ時間についての本に、時間の進む速度は、エネルギーを使えば使うほど早くなると書いてありました。子どもはエネルギーを沢山発散しながら生きているので、体感的には、高齢の大人の3倍の凝縮された時間を生きていて、大人にとっての1年間でも子どもにとっては3年ぐらいに感じられるのだそうです。その考えで行くと、年をとるごとに発散するエネルギー量が減りますし、新陳代謝も遅くなりますから、歳を取るとどうしても時間の密度が減っていき、時間の進みが遅くなり、さらに中身もスカスカになっていく。中身が詰まっていないから、時間が早く過ぎ去るように感じる。やはり1年を3年分の濃さで生きていた子どもの頃とは、やはり違うわけです。

 けれども私たちは、その時間を何とか満たそう、埋めようとあくせくしてしまいます。時計を見るたびに、どうしよう、こんな時間だ、これじゃ間に合わない、来週までには何とかしなきゃとか、クリスマスが終われば一瞬で正月ですから、クリスマスプレゼントやら、年賀状やらで、いつも気持ちが急かされる。車、新幹線、パソコン、オンライン会議と、文明の利器が進んでいますので、それらで時間短縮をして時を稼ぐことができますが、しかし、時間に余裕ができたなら、またすぐにそこにやらなければならない仕事が入り込んできます。

 何か、詰め放題の買い物袋に、モノをギュウギュウに押し込んで、袋がはち切れそうになるような、私たちはそんなことをいつも時間に対してしているような気がします。そしてそれは、時間を自分で管理し操っているというよりも、反対に時間に追い立てられて、時間に操られている。はい1時間、はい2時間、3時間、はい残り30分、という風に、時間の流れに私たちの側が翻弄されていて、時間という止まらない電車に、いつも飛び乗っては、同時に詰め込まれ、ギュウギュウに詰めの中を目的地に強制連行されていく。そんなことでくたびれ果てて、もう年末。あるいは、コロナで全てを制限されて、無為な、空虚な時間を過ごして、過ごして、それで疲れ切って、もう年末。というところが私たちの実際かもしれません。

 そこには、とてもではないですけれども、時が満ちるという感覚はありません。時が絶えず手から零れ落ちるので、時計を見る時、私たちは満たされるのではなく、追い立てられて、焦ります。

 

 こんな私たちに、聖書は、こういう私たちの時間が、日常が、満ちると語るのです。時間をテーマにした、『モモ』という作品の中で、作者のミヒャエル・エンデは、「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのと同じに、人間には時間を感じ取るために心というものがある」という言葉を残しています。あるいは、アウグスティヌスという4世紀に生きたキリスト教の大家は、時間を「魂の延長」と呼んでいます。

 つまり、時間が満ちるということは、心が満ち、魂が満ちるというこことつながっているというのです。本当にそうだと思います。そして時間は、そのまま私たちの寿命ということにも結び付いて、人生を決定付けるものでもありますから、私たちのこの心と、この人生と、時間は、つながっていることであると言えるのです。

 だとしたら、時が満ちる時には、同時に心も満ち、また人生も満ちるのではないでしょうか。そしてその時の、時の満ちる仕方というものは、時間がぎっしりとスケジュールで満ちて一部の隙間もないということではなくて、時間の意味が満たされるという満ち方です。

 時間の意味が満たされるとは、何のために生きているのか?何のためのこの時間、何のためのこの人生なのか?自分は誰で、どこに属し、何のために今日も頑張って生きているのか?その問いに対して、満足いく答えが得られるようになることです。

 

先程のガラテヤの信徒への手紙44節の後半から5節の御言葉には、「しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

 とありました。律法の下に生まれたとか、律法の支配下にある者、という言葉に出て来る律法の下とは、一言で言えば制限がかかっていて、縛りがかかっている状態ということです。コロナウィルス禍による制限、不便さ、制約の中を私たちも歩んでいますけれども、そういう人間の、コロナ以外もある、いかんともし難い縛りや制限のある、息の詰まる現実の中に、イエス・キリストも誕生されました。そして主イエス・キリストも、私たちの経験する、いかんともし難さを御自分も経験されました。さらに主イエスは、私たちをそこから助け出してくだるのですが、では、どうやってこの私たちを救って、時を満たすのでしょうか?それが、5節に書いてあります。4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

 私たちが神の子となる。これがここに示されている救い方です。これは。この上ない所属であり、この上ない保護と保障を意味します。どんな火災保険よりも、どんなホームセキュリティーよりも、これには力があります。結局は、しっかりとした父親がいるかどうかということに、この人生と、この心の、安定、安心も関わってきます。クリスマスは、「わたしたちを神の子にする」です。誰もこの自分を見て、「私は神の子だ」などと言えるものではありません。しかしこういう、神の子とは程遠い私であり、私たちが、神様を父と呼び、神様を信頼して、神様の方を向いて生きる、神の子どもとされる。その時、時間に振り回されていた私たちが、本当のこの心の落ち着き先を見つけることができるのです。そして、その時にこそ、私たちは時計と仲直りできるようになる。時間の経過を焦るのではなく、それを受け入れ、それに感謝することができる余裕を得ることができる。なぜなら、時間は、神様が作ったものであり、時間は、神様の手の中にあるものだからです。

 

50年前のことですが、コンツェルマンという新約聖書学者が「時の中心」という歴史に残る名著を出版しました。今日その内容を説明はしませんが、その本の「時の中心」というタイトルそれ自体が、重要なものの見方を示しています「時の中心」とは、全世界の歴史の中心という意味です。そしてこの「時の中心」にあるのが、クリスマスの誕生から十字架という、主イエス・キリストの生涯なのです。聖書が、クリスマスに時が満ちたという時も、同じ、この図と同じ見方をしています。クリスマスに時の中心があり、時の満ちる瞬間がある。

 

今この時を、主イエス・キリストの生誕から数えて2021年と呼ぶのは、なぜでしょうか?それは、今と、2021年前に起こったクリスマスとの間に、切っても切れない関係があるということです。今から2021年前の最初のクリスマスに、歴史上の類を見ない決定的なことが起こったので、そこを基準に年を数えているのです。そして、その時が満ちた瞬間から数えて20211219日と、今日のことを呼ぶということは、2021年前の主イエス・キリストの誕生と、今のこの私は、無関係ではないということをも意味しています。そして聖書は、今日のこの私たちの時間が、2021年前の主イエス・キリストの誕生と、しっかり繋がることによって、満ちる、と言うのです。時間はその時、主イエス・キリストの誕生と今日の私たちを結び付ける、まっすぐなレールになる。その時、時間は、クリスマスに起こった救いが、2021年の今日にまで届くための、救いの手綱になる。

そして加藤頌栄君が、今朝まさに、そのつながりをアーメンという言葉によって、打ち立てたのです。頌栄君は、アーメンという言葉によって、私は神の子どもである。私の、生物学的な意味を超えた、本当に父は、本当の保護者は、導き手は、この神様であることを彼は言い表しました。加藤頌栄君の時は、満ちました。

もう頌栄君は、根無し草のような、糸の切れた凧のような、どこから来て、どこへ行くのか分からないような時間を過ごしません。自分は何者で、自分にとって最も大切な存在は何で、今この時代に、誰を一番の頼りにして生きるのか、頌栄君はそれを示し、今朝私たちにそれを教えてくれたのです。

そして、今朝頌栄君に起こったことは、ここに居る私たち皆にもまた、起こることです。私たちも皆、神の子どもになるように、主イエス・キリストと共に、天の神を父と見上げることへと、今、主イエス・キリストによって招かれています。時が満ちる。ほかのところでは到底起こりそうもない、そのことが、ここで起こります。