202212日 詩編37編 エフェソ2章14~22節 「神こそ頼みの綱」

 今朝まだ、2022年二日目の朝ですので、この日曜日は、この私たちの新しい一年を支える言葉を、聖書から聞き取りたいと思います。

 今朝は、少し長い御言葉でしたが、詩編37編の全体と、エフェソの信徒への手紙21422節をお読みいたしました。

 今朝は詩編の御言葉を中心にして目を留めたいと思いますが、エフェソの信徒への手紙で言われていることは、乱暴にも一言で言い表してしまいますならば、キリストがすべてということです。昨年天に召された、板宿教会前任牧師の山中雄一郎先生も、「人生の最後に残るものはキリスト」と語られ、御自身がそのように歩まれましたし、私たちもここでその言葉を聞いてきました。

 お読みしましたエフェソの信徒への手紙219節から22節も、そのことを結論付けるようにしてこう語っています。改めて、エフェソの信徒への手紙219節から22節をお読みいたします。2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」

 キリストというかなめ石によって、私たち神の家族は、そしてこの一人一人は、キリストにおいて建て上げられて、この板宿教会も、キリストの霊によって、共々に神の住まいとなる。これが、今年の私たちに、これから生じることであり、この教会で今年もこれから起こることです。

 そして、ではこれは、具体的にどうやって生じるのか?私たち一人一人が、教会員もまだ教会員でない方も、求道中も方も、もちろんオンラインで今つながっている一人一人も、皆が、今年、キリストによって成長して建て上げられるとは、もっと具体的にどういうことなのか?もちろんそれを、私は毎週の説教で語っていきますが、年始にあたって、今朝はそれを、詩編37編の御言葉から紡ぎ出してお伝えしたいと思います。

 

 詩編37編全体のテーマは、委ねるということ、委ねて生きるとは、具体的にはどんな生き方なのかということです。そしてそれを知ることが、新しい一年を歩み出す私たちにとって大切なことなのです。

 新年には、多かれ少なかれ、それぞれの方が心に不安を抱くのではないかと思います。ある人が、不安と心配事とは、同じように見えて違うことだ、と言っていました。心配事には特定の原因があるのだけれども、不安には、その不安の原因がはっきりと分からない状態があると。

 そして新年には、何が不安の原因であるか、はっきりとは分からないのだけれども、何かが不安だという感覚が、芽生えます。

沢山の人が列をなして初詣に行き、お賽銭をし、新しいお札やお守りを買いますが、このことも、何かに対する恐れや不安がそこにあることの表れと見ることもできます。

 

カレンダーを埋め尽くした2021年の日々が、一晩のうちに一気になくなって、まっさらの、まだ何の予定も書き込まれていないカレンダーに変わる時、私たちは、長い旅をまた新しくやり直すような感覚を覚えます。カレンダーはまっさらになることは、先の読めない大きな空白の時間が、突然目の前に現われてくるということであって、そこでは去年とは違う、また新しい、予測もしないような別のことがきっと起こってくるだろう、という事は、半ば確実です。

 しかし、賽銭を投げたから、高いお守りを買ったからといって、今年は絶対に大丈夫だとは、もちろん言い切れません。不安は不安のまま消えるものではないのだから、それを皆が誰しが、抱えて生きていくものなのだと、そういう風に考えて、諦めるべきなのか、あるいは、私たちの2022年に付きまとう不安が、本当に克服されるような方法があって、それが私たちの手に入る物なのか、新年に、この一年を真剣に生きようとするなら、どうしてもそれは考えてしまうことです。そして聖書は、この私たちの問いに、正面から答えてくれています。

 

 今朝のテーマの、委ねるとは、どういうことなのでしょうか?詩編37編が語っている結論から先に申し上げますと、委ねるということは、希望を絶やすことなく生きることです。意外かもしれませんが、委ねるということは、諦めるということとは違いますし、もうどうにでもなれと、身を投げて、ただいたずらに脱力することではないですし、自分の仕事を途中で放棄することでもありません。聖書が言う委ねるとは、もっと積極的な、信じるということと同義語であり、希望を根差していつも顔を前に上げて強く前進することです。

 

 詩編3745節に、こう語られています。37:4 主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。37:5 あなたの道を主にまかせよ。」

 主なる神に自らの歩みを委ねる時に、主が、私たちの願いを、完全なるものにしてくださるという言葉です。私が、私の願いを成就させるのではないというところがポイントです。

 仮に、私たちそれぞれの人生が、一枚のキャンパスに描かれる絵画だとしたら、私たちは、自分で、自分の人生のキャンパスの余白を、すべて埋めることはできません。いつ生まれ、いつ死ぬのかも自分ではわかりません。ということは、最初の一筆も、最後の仕上げの書き上げも、自分の筆ではできないということになります。

 

 

 そういう私たちの人生の真実を、この詩編37編は本当に豊かな言葉で、その全体を語っていますが、覚えやすいように、詩編37編の37節を詳しく見てみたいと思います。

 詩編3737節には、こうあります。「無垢であろうと務め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。」

 この37節の言葉ですが、翻訳の下となっているヘブライ語聖書の原文は、もっとシンプルで強烈な言葉になっています。原文では命令形のとても強い言葉が、37節の先頭に二つ連続して語られています。その命令形の言葉は、Keep, Look!という二つの言葉で、翻訳するならば、保て!見よ!そして、その次にくる言葉が、まっすぐに。です。ですので37節全体を訳し直しますと、「保て!見よ!まっすぐに。その人の未来は完璧になる」

この、未来という言葉も、これは特別な言葉で、150編もある長い詩編のなかに、この未来という言葉はこの37節と次の38節にしか出てきません。

 まっすぐさをキープして、まっすぐに見る時、完璧な未来が来る。つまり、委ねるということは、未来に結び付いている。だからこそ新年にこの御言葉を読む必然性があります。

 ではどんな真っ直ぐさを保ち、何を真っ直ぐに見ればいいのでしょうか?その答えは、34節の冒頭にあります。34節。「主に望みをおき、主の道を守れ。」

 主に望みを置くという言葉は、主を待ち構える、待ち伏せするという言葉です。つまりこれも未来のことです。神様が、私たちの未来に、これから訪れてくださる。これからの未来において、神様が私たちの人生に、タッチしてくださる。それを待ち構えていること。それが、主に望みを置くということです。そして、主の道を守れ、と続きます。この守れと訳されている言葉が、先程でてきた、Keepという、保て!という言葉とまったく同じです。ですから、何を保ち、キープすればいいのかというと、それは主の道なのです。

 神様が考えておられること、神様の御計画、その道を、まっすぐにキープせよ!そこから逸れないように!そしてまっすぐに神様を見よ!そして、神様を心待ちにせよ!主に望みを置け!そうすればどうなるか、完璧な未来が必ず来る。これは、いい未来が来るかもしれないとか、イイことあるかもねとか、そういう言葉ではなくて、その人の未来が反映し、完成し、必ず堅固なものとして築き上げられるという言葉です。これは説教の始めでお読みしたエフェソの信徒への手紙にあった、人生が成長し建て上げられるということと同じことです。

 

 委ねることとは、定年を見据えて、仕事を整理して若手に譲るというような、ただ自分が後ろに退いていくということではありません。ある翻訳者は、最初にお読みした375節の「あなたの道を主にまかせよ。」という言葉を、「後ろにあるものに捕らわれずに、神の前に心を開け」と訳していました。委ねるとは、自分の人生のキャンパスにある余白を、神様が、素晴らしい色彩とタッチで埋めてくださり、完成させてくださるということに希望を置くこと。委ねるとは、そういう姿勢で、神様をまっすぐに見つめて、神様の道を真っ直ぐ逸れずに進むことです。

 

 そして37編の最後には、そうやって、まっすぐ神様に委ねて生きる時、そのまっすぐさによって、その人は、今年やってくるかもしれない災いから、しかししっかりと守られ救われると約束されています。3940節をお読みします。37:39 主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。37:40 主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

 40節にも、神様を主語とした「逃れさせてくださる」という同じ言葉が、原文では、ドンドンと二個続けて置かれています。打ち勝つとか、打ち滅ぼすとか、そういう勇ましい攻撃的な言葉はここにはないのですけれども、どれだけ私たちを逃がそうとされるのかと目を見張ってしまうほどの強さで、今年も神様は、まさかの時には救助を与え、私たちを逃がして逃がして逃がし通すという言葉で、詩編の最後を締めくくってくださっています。

 

 これだけ神様が、私を最後の頼みの綱として良いと、必ず守り、救い、逃がすからと約束してくださっていますので、その言葉に任せ、本当に委ねてみればいいのだと思います。そして、そういう風にまっすぐ御自分に身を委ね、人生の道を委ね、2022年の歩みを委ねて、神様がこれからこの年に為してくださることに望みをかけて、それを心待ちにして歩むなら、神様はそういう私たちを、この詩編37編が様々に語っていますように、「災いがふりかかっても、うろたえることなく、飢饉が起こっても飽き足らせ」(19)、「たとえ倒れても、主なる神がその手をとらえていてくださり」(24)、「見捨てることなくとこしえに守り」(28)、「素晴らしい未来への道を備えてくださいます。」(2337)

 

実は昨日、生まれて初めて初日の出を見ました。須磨海岸にものすごくたくさんの人が集まっていましたけれども、しかしあの初日の出を、水平線から昇らせたのは、人間ではなく、神様です。そして今年もあと363回朝日を昇らせてくださる神様が、私たちの明日を作ってくださいます。私たちの2022年を、そこにある膨大な余白を、神様に描いていただきたいと思います。

「風は思いのままに吹き、それがどこから来て、どこに行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりだ」と主イエスは言われました。霊から生まれた者とは、霊の働きによって神の住まいとされて歩む、この私たちのことです。どこから来て、どこに行くかを知らないということは決して不安なことではなくて、神様の思いのままに導かれるなら、それは不安というよりもむしろ、私たちがこの頭の中にある計画以上の、無限の良き可能性の中に、いつも置かれているということです。

改めて、本当に、まっすぐ神様を見上げて、そこに私たちの今年の道を見出して行きましょう。