2022年1月16日 ルカによる福音書24章36~43節 「命」
クリスマスと年末年始を跨いで、約一か月振りにルカによる福音書24章に戻ってきました。ルカによる福音書24章には、十字架の死のあと、三日目に復活された主イエスのことが語られています。クリスマスの前には、このルカによる福音書24章の今朝の前の部分をお読みして、「クリスチャンとは、死から復活して、今も生きておられるイエス・キリストに結び付いて、この方とひとつになって生きている人のことを言うのだ」と語りました。そしてクリスマスには、「私たちの時を満たすのは、つまりこの人生を満たすのは、この主イエス・キリストだ」と語りました。
今朝の話も、それらのことと本質的には同じことを語ることになります。そして特に、年末年始の時の移り変わりと、これで私もまた一つ年を取るのだなと、人生の有限性に思いを馳せる時間を過ごしてきた私たちが、今しっかりと見つめるべき、命についての根本が、今朝聖書から私たちに指し示されています。
主イエス・キリストが、十字架の上で死なれて、墓に葬られたということを、私たちはルカによる福音書を通して、これまで詳しく見てきました。しかし主イエス・キリストの歩みは、死では終わらず、主イエスは復活されました。これは何を意味しているのか?それは、命は死よりも強く大きいという事実を物語っています。
命は、死によっては終止符を打たれません。もともとこの聖書の始めの創世記の天地創造の場面には、死はありません。神様は、初めから、線香花火のように一瞬燃えては、死によって消えてしまうような、そんな儚く、やがて壊れる欠陥品のようなやわな命を人間に与えられたのはありませんでした。死は、初めからあったものではなく、命は死によって寸断される、死よりも弱い命では、もともとなかったのです。
人生50年、あるいは人生80年90年と言ったりしますし、多くの人はそれぐらいで人は死を迎えますが、しかしそれでいて、私たちは皆、命が死で完全に寸断されて、すべてが消えてなくなるとは考えていないのだと思います。復活を信じるキリスト教徒でなくても、そういう人々もキリスト教徒以上に、死者を弔い、お墓参りをし、死後の供養というものを熱心に行います。それは、肉体の命としての人の人生は死によって終わっても、それでその人のすべてが消去抹消されるわけではなくて、どこかでその人の存在は残り続けると信じているからです。
ですから、人生が50年や100年で終わって、本当にそこでその人のすべてが完全に終わりなのだとは、なかなか人は考えず、死によっても寸断されないものがある、亡くなられた方々の中にあった何者かが、何らかの形で依然として残り続けていると、多くの人は考えています。
そしてその部分は、聖書も同じです。死によっても寸断されない何かが残り続ける。その残り続けるものを、霊というのか、魂というのか、色々な見方考え方があるのだと思いますが、しかし聖書は、そこを変に神秘的に、分かりにくく深淵に考えることをせずに、極めて具体的に、物理的に考えます。なぜなら聖書は、死後の私たちの命と存在の在りようを、具体的な、死から復活した主イエス・キリストの姿によって考えるからです。
私には縁のない話ですが、新築のマンションを買う時のための、マンションと同じ間取りのモデルルームが、この板宿の周辺にもあちこちに作られていて、よくポストにモデルルーム内覧会の催し案内がポスティングされています。やはり新築分譲マンションともなると高価な買い物ですので、まだ実物は完成されていないとはいえ、図面を見せられただけでは決断できません。実際の間取りの大きさに合わせて作られたモデルルームに入ってみて、そこに実際に家具を置いてみて、見るだけでなくて手で触れて、居間のソファーに腰かけてみなければ、分からないものがありますし、逆に内覧すれば、本当に具体的に想像がつくのだと思います。
そして主イエスはいわば、モデルルーム内覧会に招くようにして、復活とは何か?死よりも大きく力強い、復活の命とはどんなものか?それを、今朝の御言葉で、目で見て、手で触れることができるかたちで、弟子たち皆に見せてくださいました。今朝の御言葉には、そのとても当たり前で、説得力のある、具体的なやり取りが語られています。
墓の中から復活された主イエスは、すぐに天に昇られたのではなく、40日の間、その間に何度も、弟子たちの前に姿を現してくださいました。そしてその最初がこの時でした。弟子たちが集まって話していると、突然主イエスが彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われます。
突然目に見えたり、消えたりする、その復活の体について、もちろんこの時が初見でしたので、弟子たちは驚いて、亡霊を見ているのだと思った。ごく自然な反応だと思います。死んだはずの人が突然目の前に現れた時に発する万国共通の言葉として、彼らは、お化けだ!幽霊だ!と言ったわけです。
ここで、私たちは自分を主イエスの立場において考えてみたいと思うのですが、もし自分が、幽霊ではないのに、人から幽霊だ!と言われたら、どうするでしょうか?そういう時には普通に、ホラッと足を見せて、体を見せて、「ほら、握手しよう、大丈夫でしょ?」と言って握手でもするのだと思います。そして本当にそのように、ここで主イエスも振舞っておられます。38節から43節を改めてお読みします。「24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」
主イエスは体を見せて、触れさせてみせて、しまいには、恐らくかつて輪になって、弟子たちと釣った魚を、みんなで食べた時と寸分たがわぬ同じかたちで、主イエスは焼き魚を美味しそうに食べられたのだと思います。魚を食べたということも、主イエスが幽霊でないことの力強い証明ですけれども、弟子たちと一緒に食事を囲むというのは、これぞあの時の懐かしい体験の再現というか、多くの弟子たちは元々漁師でしたから、主イエスと初めて出会って弟子になった日も、こうして一緒に魚を食べたのだと思います。その時のそのままが、ここに再現されていたわけです。41節に「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」という言葉がありますが、弟子たちはきっと、「えっ、本当に!うっそ!ヤバい!」と、目の前の主イエスを見ながら半泣きで喜んだのだと思います。肉体的にも精神的にも、その場におられる雰囲気からも、これぞ主イエスだと、あの主イエスが本当に生き返って、戻ってきてくださったという、そのリアリティーと喜びがその場には溢れていたのだと思います。
主イエスは、復活されて、逃げも隠れもせず、変にごまかしたり、格好つけたり、もったいぶったりするようなところも全くない形で、日常的に食事を共にしてくれる、幽霊ではない正真正銘の主イエスとして、弟子たちの前に御自分のすべてを示してくださり、私は死から蘇って生きている。命は、今や御自分に、十字架に架かる前にも勝って、死に打ち勝ってそれを乗り越えた命として、輝くように満ちている、ということを示してくださいました。
そしてこれは、どうだすごいだろう!という話ではなく、弟子たちの未来のためにあたえられた、お手本であり、約束です。聖書には、こういう御言葉があります。ペトロの手紙Ⅱ1章14節の御言葉ですが、「1:14
わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。」
さらに、フィリピの信徒への手紙3章20~21節にも、「3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」
つまり、この世での命は、仮の宿であり、本番前の予行演習であり、今私たちは、借家に住んでいるような者なのであり、死を経て、私たちは、新築マンションどころではない、主イエスの栄光ある体と同じ形の、本宿であり天の本国に至るのです。あの主イエスの体と同じ復活の体で、私たちも生きるのです。命は、決して数十年で賞味期限が切れるようなものではなく、むしろ、この罪のある、病によって朽ちて傷つく卑しい体から、主イエスと同じ体に復活する時に至って、そこから初めて、本腰の入った命の本番が開始されるのです。
今朝の御言葉の始めの36節には、こう語られていました。「24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
主イエスは、恐らく当局者たちを恐れてアジトに隠れていた弟子たちの真ん中に、いきなり立たれました。主イエスはその場所に歩いて入って来られたのではありません。ということは、ずっとそこに立っておられたということです。その主イエスの姿が、この時にパッと見えた。
これは、今のこの私たちの状況と同じです。主イエスに従う弟子たちが集う時、復活して今も生きておられる主イエスは、時と場所と空間を超えて、一緒にいてくださり、この私たちの真ん中にも、主イエスは立っておられる。その事実が、今、この礼拝で、聖書の御言葉が語られることを通して、透かし絵が浮かび上がるように、御言葉から見えています。あるいは、聖餐式を通しても、目で見て、手で触れられることとして、主イエスは私たちの真ん中におられる御自分を表してくださいます。
そしてその主イエスは、開口一番、「あなたがたに平和があるように」と言われました。ここにこそ、平和の本質が実現しています。
聖書が平和と言う時、それは、ただの戦争がない状態、平穏無事な状態を意味しません。この平和には、それ以上の意味があります。いつも礼拝の終わりに、安心していきなさい。と祝祷をしますが、それは英語で言えば、go in peace!平和の中を行け!という言葉で、それは、主イエスがルカの7章で罪深い女を赦して、「安心して行きなさい」と言われた時の安心という言葉と、今朝の、「あなたがたに平和が」と語られた、平和と言う言葉とは、元のギリシャ語では全く同じ言葉です。
主イエスは言われました。「あなたがたに平和があるように。」「あなたがたに安心があるように。」どんな時に、私たちは、平和を感じ、心底安心できるのでしょうか?
それは、この今朝の聖書のこの主イエスの場面が実現された時です。つまり、死を克服した、死よりも大きく強い命に蘇られた主イエス・キリストが、私たちの真ん中に立って、平和があなたに。と言ってくださっている場面に居る時、そこが、最高の平和と安心の時なのです。
この人生の時が満ちる。この命が満ちるとは、いたずらな長生きとは違います。それは、死を克服して蘇られた主イエス・キリストとの出会いによって、私たちの人生が、私たちのこの命が、キリストから来る平和と安心で、いっぱいになることです。
先日の木曜日の聖書発見講座で、嵐に振り回されて沈みそうな舟の中で、ひとり静かに眠っておられる主イエスの話を、マルコによる福音書から皆で分かち合いました。聖書の中で舟という言葉が使われる時、それはこの教会のことを意味します。
この教会という舟は、いつも荒波にさいなまれています。今も、新型コロナの第六波という大波が押し寄せています。本当に毎日、朝から夜中まで、救急車の音がこの街には響いています。私たちも、舟から嵐に投げ出されそうになって、「危ない!今にも死にそうだ!」とわめき恐れた弟子たちと、ある意味同じ心境です。けれども、私たちのこの舟の中には、死にそうだ!どころではなく、死んで、しかし死に風穴を開けて、死さえも飲み込む命の力で蘇ってくださった主イエスがおられて、この方は、嵐の只中でも落ち着いて、嵐によりも強い平安の中で眠っておられる。あるいは、この今朝の御言葉を通して主イエスは、「死に打ち勝つ平和を、死んでも消えない安心を、あなたに」と、私たちの真ん中で語ってくださっています。私たちのこの舟は沈みません。いや、たとえ沈んでも、この主イエス・キリストが真ん中におられますので、決して負けません。決して負けません。ですから私たちは平和でいられます。今週も、色々な事が起こるでしょう。嵐が殴るように吹きつけてきます。今朝も津波が来たようです。しかし何が起こっても、命は、私たちから離れません。