2022123日 ルカによる福音書244449節 「イエス・キリストこそ」

 「イエス・キリストこそ」という説教題を掲げましたが、今朝お伝えしたいことは、「イエス・キリストこそ、すべてのすべてである」ということです。ルカによる福音2018年の10月から、もう3年以上もルカによる福音書をずっと読んできて、それが来週で終わりますが、この長い福音書の終わりに、主イエスが自らの言葉で最後に語られるのが、御自分自身の事、つまり、イエス・キリストこそすべて、という結論です。その意味で、主イエス・キリストが自分で自分のことを、「わたしこそが、すべてのすべて」と語られるのですから、今朝の御言葉こそ、聖書の中の聖書であり、正しく神の言葉です。

 すでに何度かお話ししていることですが、教会で毎週語られていることは、単なる、一般的な神様についてのことではありません。イエス・キリストのこと、そしてそのイエス・キリストが私の父と呼ばれる神のことこそが、教会で語られていることです。

 そんなに何でもかんでもイエス・キリストなのか、ちょっとこじつけのようだし、論理が飛んでいるように聞こえるし、話が乱暴すぎやしないかと思われるかもしれませんが、しかし実際、その通りなのです。言ってしまえば、何でもかんでも主イエス・キリストなのです。しかし論理が飛んでいるわけではありません。キリストがすべてのすべて、というこの福音書の結論は、これまでのルカ福音書の言葉を総合するかたちで、極めて論理的に、筋が通った話になっています。それを、ルカによる福音書は、最後に非常に強く訴えるばかりか、主イエス御自身の口で語らせています。

 さらに、私たちの前に開かれているこの聖書全体に書き記されていることも、同じく、イエス・キリストこそ、聖書のすべてであり、聖書の内容のすべては、イエス・キリストについて書かれていることなのだと、今朝の御言葉で言われています。ある意味驚くべき主張です。この点において、ここで、同じ旧約聖書によって立つキリスト教とユダヤ教は、決定的に袂を分かつことになります。そのことを、主イエスは今朝の44節で語られました。24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」」

 「モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」と44節で言われていますが、この律法と預言者の書と詩編という言い方は、分厚い旧約聖書の全体を三つ分割して呼ぶ時の呼び方ですので、この言葉で、主イエスは旧約聖書の全体を指し示しておられます。そしてその、旧約聖書の全体が、主イエスの生涯のあとに作成された新約聖書は当然のこととして、そのすべてが、「わたしについて書いている」と。つまり、少なくとも紀元前1700年以上前の時代に実在したアブラハムの記事や、さらにそれ以前の天地創造、ノアの箱舟、そういったすべての旧約聖書の言葉は、「わたしについて書いている」。イエス・キリストについて書かれている。そして、そのすべては必ず実現すると主イエスは言われました。

 今、たくさんの方々インマヌエル会という聖書の通読に参加してくださって、旧約聖書を一日3章、新約聖書を一日1章、毎日読んでおられますけれども、一見主イエスと関係の無いような旧約聖書の言葉も、そのすべてが主イエス・キリストを実際に指し示して、語っています。ですから当然、どんな旧約聖書の言葉を通しても、主イエス・キリストを語ることができ、そのすべての言葉によって、主イエス・キリストの姿が見えます。

 旧約聖書には、単に天地創造の世界の成り立ちや、紀元前の考古学的な歴史だけが書かれているのではありません。もちろんそのようなことも含まれますが、聖書が伝えるのは人間の救いであり、救いとは、人間の罪と、罪が導く人間の死という大きな問題から、いかに人が罪の赦しと、それゆえの死を克服する命に至ることができて、罪と死を克服できるのか、という、救いの筋道です。

 そしてその救いの筋道は、ただ聖書に書かれて提示されているだけではない。必ず実現する。必ず現実のものとなって、人を死から救い出すと主イエスは言われます。いくら滝に打たれて、修行荒行をしても、いくら神に近づくような修練や隠遁生活、修道生活を送っても、その救いは、与えられるものではありません。しかし逆に、去年のクリスマスに加藤頌栄君が、皆様の前でひと言、大きな声て「アーメン!」と言ってくれたようにして、「主イエス・キリストを信じます」という一言の信仰告白で、その救いは与えられます。つまり私たちの救いは、排他的に、決定的に、この主イエス・キリストにこそかかっています。主イエス・キリストを置いて他に、人が罪を赦され死を免れて命に至る道はありません。

ですから、これはルカによる福音書ではなく、ヨハネによる福音書に頻繁に出て来る主イエスの自分語りですけれども、「わたしは道である。」「わたしは真理である。」「わたしは命である。」「わたしは命のパンである」「わたしは世の光である」という風に、繰り返し主イエスは語られました。そしてその言葉は、言い換えれば、主イエスはこの私たちのためになら、何にでもなってくださるという宣言です。私たちが必要とする、光、道、真理、命、命を与えるパン、そのどれにでも、何にでも、この方はなってくださって、救いを喘ぎ求める私たちを、すべての面からあらゆる手段で助けて、救ってくださるのです。正しく、オールマイティーな、完全に何でもできる全知全能の主イエス・キリストが、その力のすべてで、なりふり構わず、この私を、私たちを、この世を、救ってくださるのです。だからこそ、キリストこそすべてなのです。この方以上に頼れる方、これ以上に大きい方、これ以上の救い主は、存在しません。

 そして、私を救うために、私たちを救うために、この世界を救うために、何にでもなれる力をお持ちの救い主主イエス・キリストは、何をしてくださったのか?それは、この聖書全体が人間とこの世界を救うための究極の方法として、指差していることなのですが、それが、45節から47節に語られています。

 「24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」

 主イエスが色々な事をここで並べ立てて語られているように見えますが、この部分の主イエスの言葉に使われている動詞は、三つです。その三つの動詞とは、一つは、46節の「苦しみを受け」という言葉。二つめは、同じ46節の復活するという言葉。そして三つめは47節の「宣べ伝えられる」という言葉です。

 つまり、主イエスが、十字架で苦しみを受け、死者の中から復活し、その罪の赦しの十字架と、死から命への復活ということへの悔い改め、方向転換が、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。何によってこの世界と、そこに生きる全世界の国々の人々が、罪と死から救われるのか?というと、それは、十字架に架かり死から復活された、主イエス・キリストという、すべてのすべてであられる方の名前、つまりその存在が、宣べ伝えられ、伝播していくことによって、そこで、このキリストを証しする聖書の言葉が、人の耳から入って、人の心を燃やして、主イエスを信じます。アーメンと。つまり、私はこの主イエス・キリスト無しでは罪人です。この方に、すべてを託しますと、一言告白できるまでに人の心を変える。

 それによって人が変わり、人々が変わり、あらゆる国々の人々の心が変われば、その世界全体が変わり、救われる。主イエス・キリストの父なる神は、こういう救い方で、私と、私たちと、この世界を救おうとされているのです。

 

 頭がついて行かないような大きな話ですが、2000年前に、本気で主イエス・キリストはその救いを、この世にもたらしてくださいましたし、ただそれをもたらすだけでなく、主イエスがそれをスタートさせてくださいました。主イエスは復活して、今から2000年前に天に昇られて、そのあとにはもう何もされないのでは全くなくて、その後も、主イエスは極めて活動的に、最後の宣べ伝える、という動詞を、キリストの教会を用いて実行し続けてくださっています。

つまり主イエスは、聖霊を送り、主イエス・キリストに救われたキリストの分身たち、即ちクリスチャンたちを証人として用いて、その救いの証人の集まりである教会を用いて、キリストの名をあらゆる国の人々に宣べ伝えるという、世界再生計画をスタートさせてくださいました。

 4849節です。24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 父が約束されたものをあなたがたに送るとは、聖霊を送ってくださるという約束です。聖霊は、神様が働かれる時の、いわばエンジンです。ルカによる福音書では、既にその始めから、聖霊が活躍していました。主イエスの母マリアは聖霊によって主イエスを身ごもり、シメオンやエリザベトも聖霊に満たされて語り、主イエスも鳩が天から羽ばたいて降りてくるかのようにして聖霊を受け取られて、そこから救い主としての働きを始められました。そして主イエスはいつも聖霊に満たされて歩まれ、最後の十字架の上では、父よ私の霊を御手に委ねますと言って、命の息を吐き出されました。その聖霊が、今や、高いところからの力として、一人一人の心に宿って、一人一人を主イエス・キリストと、その父なる神に結び付けて、私たち一人一人に力を得させて、死をも突き破る復活の命を約束されて生きる、新しい、救われた人間にしてくださいます。

 

 ですから、キリストこそがすべてのすべてという状態は、今も昔も変わりません。今はキリストが、天から聖霊を一人一人に送って、私たちを、下からの私たち自身の乏しく、限界のある力によってではなくて、逆に高いところからの力、この高いという言葉は冠とか、山の頂上という言葉ですが、そういう天からの神様からの尽きない力で私たちを覆って、包み込むことによって、私たちを変えて、この心を燃やして、力強く歩ませてくださる。

 

 八木重吉という詩人が、「私のそばに、イエスがいるように思えるときは、ちからづよい。部屋の中に、イエスがいるように思えるときほど、ちからづよい時はない。」という、短い詩を詠みましたが、

 3年間読んできましたルカによる福音書のこの最後で、主イエスはそこで語られてきた、私たちの現実を変える力のある言葉のすべてを、一つにまとめて凝縮して、聖霊というエンジンのような、第二の心臓ともいえる動力源にパッケージしてくださって、それを天から、の力として、私たち一人一人に注入し、この心に装填してくださるのです。

 それは、私たちが主イエスのすべてを受け取って、力強く生きるため。主イエスゆえに、死にさえも怯えなくて良いような、太い生き方ができるため。部屋の中に独りでいても、傍にこのキリストがいる。その高いところからの力が、聖霊が、私の中にある、という事実に支えられて、力強くなれるためです。

 

 神様は、こうやって、何よりもどんなことよりも、この私たちを支えたい、守りたい、救いたいと願っておられて、そのためなら主イエス・キリストは、どんなことでもなりふり構わずにしてくださるのです。神様のなさりたいことは、すべて主イエス・キリストに表われています。それは、あなたを救いたいということです。