2022年1月30日 ルカによる福音書24章50~53節 使徒言行録2章43~47節 「分かち合う教会」
コロナウィルスが渦巻く只中でではありますが、こうして今朝礼拝を捧げることができること、会員総会を実施して、新年度の教会の歩みを始めることを許されていますことを感謝します。
新年度の教会の目標として「祝福の源になる:分かち合う教会」という標語を掲げています。年報にも書きましたが、このことは、非常に具体的な意識付けです。それぞれが自分の権利と所有を主張し合い、隙を見ては人の利潤を奪い合うという、大変世知辛い社会的雰囲気が蔓延しています。実際に経済的格差もかつてない度合いに達しており、その状況は、この聖書の時代とも、とてもよく似ています。聖書の時代に歩み出した最初期のキリスト教会は、それぞれが互いに権利や力や財産を奪い合うような社会の中に、互いに奪い合うのではなく、与え合い、分かち合う共同体として誕生しました。そしてその姿が、周囲の社会との良い意味での違いを際立たせて、人々を惹きつけました。
その姿こそが、キリスト教会の原点であり、そこに、教会本来の姿があります。使徒言行録の2章46節47節には、「2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
2:47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とあります。
最初期のキリスト教というと、すぐに迫害ということを考えてしまいがちですし、もちろんこのあと、キリスト教が次第に社会に広まって行くに従って迫害が始まるのですが、最最初期の教会には、迫害ということはなく、むしろ人々全体からの好意と尊敬が寄せられていたと書かれています。
なぜでしょうか?その理由が、44節45節に語られています。「2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」
具体的に、そして全面的に、生活全体で助け合って生きる生き方が表されています。「財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」という言葉は。教会に属した人は、財産や持ち物をすべて売り払わなければならないということではなくて、今の私たちで言えば、教会に献金をして、お互いを支え合ったということです。来週から大会執事活動委員会に対外献金を献げますが、それによっても、盲人施設、障碍者施設、南アフリカのエイズを抱えている子どもたちの支援、中国の孤児たちの支援、災害支援など、私たちは集まった献金を、更に他の必要のあるところに捧げていきます。そしてもちろん、分かち合いには、そのようにお金を献げるだけでなく、奉仕や役割を担い合うこと、そのために時間を捧げること、そして祈りによって支え合うという側面も含まれています。
聖書の時代の教会には、様々な階層の人々を受け入れる多様性があったようです。そういう共同体は珍しいものでした。また特に、当時の教会は、女性と子どもたちとを大切に扱いました。今と違って、そういう場所も当時は珍しかったようです。
当時は、間引きと言われる嬰児殺しや、捨て子が合法的に行われていました。男尊女卑社会の中で、女性と、特に女性の幼児の存在が軽んじられていました。また、女性は十代でひと回り年上の男性と結婚させられることが日常的でした。ですから必然的に夫が早く召されて、多くの女性がは未亡人になってしまいます。そして男性の力が強い社会で、全く男性側の都合によって離婚させられることが多くありましたので、社会にはたくさんの寡婦がいました。しかし当時は女手一つだけでは、仕事に就くこともできず、生計を立てる手段がなく、そういう女性たちを囲む状況はとても厳しいものでした。しかし教会は、そういう女性や子どもたちを大切にし、皆で助け合って支え、さらに女性たちが守られるだけでなく、さらに活躍できるような共同体を作り上げていました。
使徒言行録の、最初の教会を描写するこの部分の御言葉は、教会に集う人々はこうこうしていたと、過去形で翻訳されていますけれども、しかし原文のギリシャ語では、未完了と現在形の動詞で、この部分すべてが語られていますので、実際は、皆が一つになり続け、物を共有し続け、分け合い続け、パンを裂いて一緒に食べ続け、礼拝し続け、神を賛美し続け、民衆全体から好意を受け続け、仲間の数が増え続けたという、これは過去の事でありながらも、ずっと継続的に教会がそうあり続けることを示す、未来に向けた言葉になっています。そしてここにこそ、私たちが今引き継いでいる、教会の本質的な、原点とも言うべき姿があります。
そして、この時代から続いている私たちのこのキリスト教会に、私たちが何たる者であるのかを示す、タイトルのような名前をもし付けるとするならば、この御言葉を通してここに現わされている教会とは、これは、「神の家族」なのだと思います。
具体的に、私たちがどうしたら、こうやってお互いのことを大切にし、支え合い、分け合って、神様を礼拝し賛美し続けながら、一緒に歩んでいくことができるのかというと、私たちをそうならしめるのは、「私たちは神の家族なんだ」という、自己意識であり、そういう「神の家族」表札なり看板なりを掲げながら、一致してそういう心で私たちが歩む時、その時にこそ、使徒言行録が語る教会が、この板宿教会に実現するのだと思います。
誰が自分の家族か?誰を自分の家族とするのか?どんな家族と一緒に生きるのか?家族が自分に居るのか居ないのか?それが数少ない家族なのか?あるいは大家族なのか?ということで、私たちの一生は、人生は、具体的に決まってきますし、変わってきます。
それはなぜか?なぜなら、人生の喜びも、悲しみも、色々な経験も、もちろんお金も、食べ物も、持ち物も、時間も、それを分かち合うのが、家族だから。それらの人生の内容と質量が、誰を家族とし、どんな家族と生きるかで、決定的に決まって来るからです。
そういう家族が沢山いたらいいなと思いますが、家族というものは、普通、そう簡単には増やせません。けれども、キリスト教会に結び付く時に、私の家族が、指数関数的に、足し算のレベルではなく、掛け算で累積的に増え広がっていくのです。私が実際に訪れたことがある、神の家族の教会は、韓国、アメリカ、オランダ、カンボジアに、世界各国に確かにそんざいしていましたが、もちろんそれだけでなく、まだ見ぬ、世界中に広がる「神の家族」の拡がりに、この私が、今この場所にあって迎え入れられるということが、キリスト教会では起こります。これは本当に素晴らしい奇跡であり、恵みであり、これは教会にこそある喜びです。
今朝は、使徒言行録に加えて、ルカによる福音書の一番最後の御言葉を読みましたが、そこには、他のどの福音書もそれを記していない、主イエスが天に昇られる場面が描かれています。主イエスは、私が礼拝の終わりの祝祷でそれをするように、主イエスは手を挙げて、弟子たちを祝福されて、そして、そのまま彼らを祝福されながら、天に上げられて行きました。その祝福を受けた弟子たちは、52節53節にありますように、「24:52
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とあります。そしてこの最後の、彼らは「神をほめたたえていた」と訳されている言葉は、その前の、主イエスが弟子たちを祝福して、「手を挙げて祝福しながら彼らを離れた」と書かれて繰り返されている、「祝福する」という言葉と同じ言葉です。つまり、天に昇られる主イエスと弟子たちとが、互いに祝福を与え合い、分かち合うという状態でルカによる福音書は閉じられています。そして、この最後の「神をほめたたえていた」と訳されている、「神を祝福する」という最後の言葉も、これも「神を祝福し続ける」という現在形の、継続的な言葉です。
この弟子たちと主イエスが互いに祝福を与え合う場所は、エルサレムの神殿でした。それはすなわち、今で言えばこの教会の礼拝堂のことです。「祝福の源になる:分かち合う教会」。
主イエスは、弟子たちを祝福しながら天に昇られて、弟子たちからは離れて行かれたのですが、しかしそれにもかかわらず、弟子たちはその場で主イエスを惜しんで悲しんだのではなく、逆に大喜びでエルサレムに帰りって行きました。日本列島の中で、富士山は、北は福島県から、南は和歌山県から見ることができるのだそうですけれども、主イエスは、もちろん富士山よりもはるかに高く昇られて、そこで絶えず手を挙げて、今も現在形で神の家族を祝福し続けてくださいますから、私たちが空を見上げる時、世界のどこからでも、私たちを祝福してくださる主イエスが見える。私たちを始め、全世界の教会は、その祝福を受け取って、分け合って、与え合う、祝福の源になることができます。
私たちが、分かち合うための資源に事欠くことはありません。教会には主イエス・キリストの祝福が豊かにあります。財産や持ち物だけでなく、教会にしかない主イエス・キリストと御言葉の恵みを、私たちはいつも神様から頂くことができますし、それを分け合い与え合うことができます。
ルカによる福音書の終わりに、弟子たちが大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえ続けた、つまり神を祝福し続けていたと書いてあって、ここで、大いに喜ぶことと、相手に祝福を与えることとがひとまとまりにされていることは、重要なことだと思います。
家族は、他にはない居場所自分に用意してくれ、大切な所属を自分を与えてくれます。家族は自分を支えてくれます。家族に支えられて、守られて、自分は養われることができます。しかし同時に、家族は、支え養うものでもあります。相手が家族だからこそ、私たちは喜んで自分のものを与え、分かち合うことができます。そして自分の家族の存在を祝福し、良きものとして祝う時にこそ、家族から受け取るだけでなく、大事な家族に与え捧げる時にこそ、自分自身に大きな喜びが増し加わるのです。
そういう祝福の与え合い、満たし合いが、教会では起こります。教会とは、その祝福の分かち合いを皆が本気でやる場所です。そしてそうすればそうする程、教会はキリストの教会らしくなります。そうやって家族を支え、神の家族を祝福する。そのことは、それだけで生涯の生きがいとするに足る、教会につながって生きる人皆にとっての大きな喜びです。
「祝福の源になる:分かち合う教会」私たちは今年、皆が一つの神の家族になって、恵みを与え合い、それぞれがそれぞれの必要を満たし合い、分かち合い続けるという、使徒言行録に現わされたキリスト教会の原型を、世の中とは良い意味で違う空間を、この板宿教会に実現させたいと願います。