2022年2月6日 ガラテヤの信徒への手紙1章1~5節 「神の教会へ」
今朝からガラテヤの信徒への手紙に入りますが、ルカによる福音書を読み終えた私たちにとって、このタイミングで新しくガラテヤの信徒への手紙を読んでいくということは、これ以上ないぐらいに良い流れで、聖書の内容がスムーズに結び付くのだということが、ガラテヤの信徒への手紙を読み始めて、初めて分かりました。
ルカによる福音書の終わりのところで、私たちは、「イエス・キリストこそ、すべてのすべである」という主題を扱いました。主イエス・キリストは、ルカによる福音書の終わりの24章44節から47節で、ルカ福音書の結論として、自らの口で語っておられます。
「24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」
聖書の内容のすべては、「わたしについて書いている」ことなのだと、主イエス・キリストは自ら断言されました。つまり、主イエスが、十字架で苦しみを受け、死者の中から復活された。それが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。このイエス・キリストによって成し遂げられる救いの御業こそが、聖書のメッセージのすべてなのであると。
そして、ガラテヤの信徒への手紙が全体を通して訴えていることも、そのまま同じことです。イエス・キリストこそ、すべてのすべてである。そして、この指針から、決して逸れてしまってはならない。この教えから少しでも逸れて外れたら、キリスト教会は、キリスト教会ではなくなってしまう。
そいう強い思いから、パウロはこの手紙を書きました。そして、キリストから逸れてはならないという強い思いをパウロが持っていたということは、パウロがかつてその建て上げのために尽力し、心血を注いできたガラテヤ地方の、今のトルコ領にあたる地域にあったいくつもの教会は、「イエス・キリストをこそすべてのすべてとする」という、その純粋性から逸れてしまっていた。そういう逸脱の危機に陥ってしまっていたのだ、と言うことができます。
私たち板宿教会も、昨年伝道開始100周年を迎えて、その時に作った「伝道開始100周年にあたって」という文書の中で、特に教会の土台という項目を挙げて、板宿教会の土台は伝統的な諸信条と、日本キリスト改革派教会の諸宣言に表われる、福音的な改革派神学であると謳っています。そして、歴史的な諸信条と福音的な改革派神学も、もちろん、「ただイエス・キリストの恵みの上に立つ」ことを、明確に表明しています。そもそも信条や神学は、イエス・キリストから教会が逸れないようにするために、教会のイエス・キリストとのパイプを太く強くするために、教会がこの身に携え歩んでいるものに他なりません。
ですから、今朝から始まるこのガラテヤの信徒への手紙に書かれていることは、私たちキリスト教会にとって、ただイエス・キリストをこそその中心に据えて歩もうとしているこの板宿教会にとって、とても具体的な道しるべになる、そういう、とてもリアリティーのある内容です。
そしてこれはいわば実践編です。今までの福音書では、どちらかというと、具体的な実践ということ以前の、料理に例えるならば、調理される以前の原材料、採れたての生の野菜のような、主イエス・キリストの十字架と復活という、救いの原点が語られてきました。しかし、ガラテヤの信徒への手紙には、そのイエス・キリストによる救いという具材を用いて、どんな教会を作り上げ建て上げるのかという、実践が問題となります。
このガラテヤの信徒への手紙の言葉は、主イエス・キリストの肉声ではなくて、パウロの言葉なのですけれども、だからと言って私たちは、ここでただパウロという人が素晴らしい、ただパウロが語ることに倣っていこうということではなく、パウロという人の中に働いた、イエス・キリストを見ていきたいのです。そしてそこから、イエス・キリストの十字架と復活に現わされた救いの原材料を受け取って救われた人間は、果たして、どういう風に具体的に生きるようになるのか?イエス・キリストという具材をちゃんと用いて、そこで本当に建てられていく教会とは、果たしてどんな教会となるのか?このことを、御一緒に読み取っていきたいと思います。
さて、そこで今朝は、この手紙の始めの挨拶の部分の御言葉をお読みいたしましたけれども、この短い挨拶の中に既に、パウロがこのガラテヤの信徒への手紙を通して言わんとしていることが表現されています。
この聖書の中に納められているパウロの他の手紙を、皆様は既にお読みになったことがあるのではないかと思います。パウロが書いたすべての手紙には、決まって始めの挨拶が添えられて、そのあいさつの後に手紙の本題が語られていきます。そして、その時の挨拶で、パウロは、いつも決まって感謝の言葉を述べます。
例えば、ローマの信徒への手紙でしたら、「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について、わたしの神に感謝します。」と言っていますし、コリントの信徒への手紙Ⅰでしたら、「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」と語ります。しかしながら、このガラテヤの信徒への手紙は、パウロの手紙の中に決まり文句のように必ず入る感謝の言葉が、唯一ありません。そしてその代わりに、他の手紙では感謝の言葉が入るべき部分に、このガラテヤの信徒への手紙では、1章の6節にある、「あきれ果てています。」という言葉や、そのあとの8節にも9節にも繰り返される「呪われよ」という、批判や懸念を表す言葉が語られます。
多くの解釈者は、パウロはここで、イエス・キリストから逸れてしまっているガラテヤ教会に腹を立てて、この手紙を書き殴っているだと解釈しています。確かにそのような怒りに似た感情がこの手紙の中に込められていると言うことは否定できないことだと思います。しかし、この感謝のない冒頭の挨拶でパウロが本当に言いたかったことは、決して、ガラテヤの信徒たちは、感謝お言葉に値しないということではなくて、この手紙でパウロは、感謝よりなどの決まりきった前置きよりも、もっと本質的で、より結論的な、この手紙の要点を、初めに宣言する。高らかにまず宣告する、ということだったのではないかと思います。
その宣告とは、あなたがたは今、既に、イエス・キリストによって、完全に救われたのだ、という宣言であり宣告です。パウロはいきなり、始めから直球でそれを語るわけです。
パウロは1章1節で、ことさらに、自分が、人にではなく、復活の主イエス・キリストに出会うことによって立てられた、キリスト直系の使徒だ、弟子なんだと語ります。そして3節で、Grace and Peace to you.と、「1:3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と語った後、次の4節の言葉を語ります。そしてこの4節が、ガラテヤの使徒たちに主イエス・キリストから与えられた、深いアイデンティティーを表す、宣言と宣告の言葉になっています。
「1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」
この4節に出て来る動詞は、いずれもアオリストという、確定的、断定的な形で過去に起こったことを強調して言い表す言葉になっています。それを意識して訳し直すと、4節は「キリストは、自分自身を、私たちの罪のために与えた。それは、今のこの悪の世界、あるいは時代から、私たちを救い出すためだった。」となります。
ルカによる福音書が語っていたように、主イエス・キリストの救いは、もう既に与えられた。主イエス・キリストの十字架は、もう既に、私たちの罪のために与えられた。これはこの手紙の次のページで出てくることですが、これを書いているパウロも、相当悲惨な、私たちの誰もやらないような大きな罪を犯した人です。けれども、そのパウロの罪も、私たち皆の罪についても、その罪のすべてが、イエス・キリストによって赦され、罪の報酬である死を免除され、私たち皆は救われた。そして、ガラテヤの使徒たちと、この私たちは、既に主イエス・キリストによって、今のこの悪の世界から救い出されたのだと御言葉は語っています。この世界という言葉は、ギリシャ語のアイオーンという広い意味を持つ特別な言葉で、それは、時代とか、時空、あるいは時空間というような、長い時間と広い空間でできた一つの大きな完結した世界を意味する言葉です。そういう、この悪の世界という、目の前に見える、私たちの住むアイオーンから、イエス・キリストによって、私たちは既に救い出された!この悪の世界から、私たちは既に救いへと引っ張り出された、その世界を脱却したのだと、パウロはここで宣言をしているのです。
そしてこのことは、改めてこのガラテヤの信徒への手紙の結論で繰り返されています。パウロはこの手紙で、結局これが言いたいのだ、という言い方で、6章15節16節を語っています。一気に結論に飛びますが、ガラテヤの信徒への手紙の6章15節16節をお読みしたいと思います。「6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」
ここに、「大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に」とあります。新しく創造されること。New Creation、新しい創設、新しい作品、新しく生み出された存在。あなたがたは、そういう原理に従って生きていく人たちなのだと。その意味で、あなたがたこそが新しい人類なのだと。もう古い人類とは、イエス・キリストを知る前のあなたとは、天地創造の前と後ほどに、全く別物なのだと。本当にこれが、この手紙が結論的に伝えたい、本当に大切なことなのです。
パウロは今朝の手紙の冒頭から語るのです。「1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった。」だから、私たちは、New Creationなのだと。私たちはイエス・キリストによって新しく創造された新人類であり、この世界の時空を超えた存在なのです。SFの話のようですけれども、実際にイエス・キリストは私たちを、新しく創造された者たちに、その新しい原理に従って生きる、悪のこの世界に生きるものとは全く違う者に、作り変えてくださったのです。
だから、新しい人類らしく、そういう人間の集まりであるキリストの教会らしく、世の中の他の団体とは、ガラテヤ教会は、別次元の生き方で行く以外にないのだと。自由に、神に選ばれ救われた者として、1章5節にあるように、「1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。」と、父なる神様を真っ直ぐに見上げて歩まれた主イエス・キリストと同じ目標を持って、自分自身に栄光と栄誉を、ではなく、神様に栄光を帰するために生きるという、そういうイエス・キリストと同じ、愛の生き方で、そこから逸れずに、その原理で生きていく。もうあなたがたは、そう生きるように決まっています!アーメン!と、パウロはもうのっけから言い切ってしまうのです。
キリストから逸れたから戻れ、という話では、もはやありません。そうではなくて、あなたがたは悪の世からイエス・キリストによって救い出された、新しい人類なのだから、それに気づいてくれ!という話です。パウロ自身も、かつてはキリストから大幅に逸れていましたが、New Creationとされて、新しく創造されて、別の人間になったのです。だからこそパウロはこの手紙の2章でも、新しく創造された人として、敢えて古い翻訳の勢いのある言葉で読みますが、「もはや、我生くるにあらず、キリスト、我が内にありて生くるなり」とまで言うことができました。私たちは、自分で自分がこれだと考え見ている、その物の見方、その考え方に従って、実際に、自然と、そうなるように生きていきます。ですから、何を考え何を見ていて、自分が何者なのかということを、私たちがどう捉えるのかということが大切です。
そして私たちが、復活されたイエス・キリストに、私の内側にて生きていただける人間へと、新しく創造されたのであれば、もう、私が神様との関係を失うという意味で死んだり、私の内側からのエネルギーが枯渇することは、決して起こりえません。イエス・キリストから逸れることも起こりません。そういう突き抜けた命と強靭さで、イエス・キリストをエンジンにして、すべての罪を赦された自由さと軽さと明るさで、別次元の存在として、別の原理で人生を生きる。。そして、教会とは、このイエス・キリストこそ、私のすべてだと知っている人の、この世の中の範疇を超えた集まりです。今後ますます、新しく創造された者たちらしい、私たちになるべく、その実践編を、ガラテヤ書から学びたいと思います。