2022213日 ガラテヤの信徒への手紙1610節 「新しいレール」

 「新しいレール」という説教題を今朝つけました。これは、鉄道のレールのイメージです。鉄でできた、研磨されて眩しく光る、まっすぐに伸びたレール。そしてもちろん、これから私は鉄道の話をするのではなく、人生の話、生き方の話をしますので、そのレールの上を進むのは、この私たち一人一人です。そして、私たちが一直線にその上を進んで行くべきレールとは、先週もお話ししましたように、福音書で書き表されている、「わたしは道である」と仰られた主イエス・キリストの福音です。主イエス・キリストの福音とは、主イエス・キリストが十字架で苦しみを受けて死なれ、しかしそこから復活された。その主イエス・キリストが為されたことのすべてが、この私たちが、罪に死んで、新しい命に生きるために為されたことだったという、喜ばしい知らせです。それが、主イエス・キリストの福音です。

 パウロは、このガラテヤの信徒への手紙全体を通して、その主イエス・キリストの福音という新しい生き方が、新しい、すべての人がそこを進むべき人生のレールが敷かれたのだから、私たち皆は、とりわけ主イエス・キリストの福音を受け取ったキリスト教会は、このレールの上を真っ直ぐに、逸れることなく進んで行こう。それが、この私たち自身の救いのためでもあり、また、同時にそれは、私たちを通して主イエス・キリストの福音を聞き、その救いにこれから招かれるすべての人のためでもあるのだ、と訴えています。

 

 しかしなぜ、パウロがそれを、ガラテヤの信徒たちに向けてこの手紙を出して訴えるのかというと、そうなっていない現実が、ガラテヤ地方の、今でいうトルコ領にパウロがスタートさせた諸教会には起こっていたからです。

 

 先週もお話をしましたけれども、彼が書き送ったそのほとんどすべての手紙で、感謝します、とパウロがひと言述べてから本題に入るという、そういう決まり文句が語られるはずのところで、このガラテヤの信徒への手紙では、パウロはちょうど今朝の始めの6節の先頭の言葉を、「驚愕している」という言葉で始めています。日本語の翻訳では、6節の終わりのところに「あきれ果てています」という言葉で翻訳されています。これは嬉しい驚きではなくて、まさかそんなことが起こるなんて、という、悪い意味での驚きでした。

 この手紙がいつ頃書かれたのかということについては諸説ありますが、ここでは紀元後54年頃を想定したいと思います。そして、そこから遡ること1年半ほど前に、パウロはガラテヤ地方の各地で教会を建て上げていたと考えたいと思います。そうすると、パウロがガラテヤ地方を離れてから1年半程経ったある時に、ガラテヤ地方の諸教会についての悪い報告がパウロの耳に入ったことになります。その報告に対するパウロの反応が、今朝の6節の驚愕でした。1章の67節を改めてお読みいたします。

1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」

 パウロがそこで教会を建てて間もないガラテヤ地方で、他の福音への乗り換えが、いや、乗り換えということ以上の、そこではキリストの福音の転覆が、途方もない脱線事故が起こったことに、私は呆れ果てているという、パウロの強い懸念が表されています。

 

 鉄道のレールは繊細です。レールが少しでも歪んだり、ひびが入ったり、レールの上に石が積まれているだけでも、列車が脱線して大事故につながる恐れがあります。少しの狂いが、大幅な脱線と転覆を生じさせる。これが、同じくキリストの福音においても起こると言われています。そしてパウロは、あなたたちはびっくりするぐらい危ないぞと、このままではすべてが台無しになるぞと、緊急の手紙を出して警告しているのです。

 

 しかし私たちは今朝、このパウロの鬼気迫る訴えを、どう受け止めるべきでしょうか?ここにあるパウロの警告は、この今の時代の私たちには、関係のないことなのでしょうか?それとも、これは今の私たちにも当てはまる警告の声なのでしょうか?

 

 このガラテヤの信徒への手紙は、500年前にプロテスタント宗教改革の発端となったルターが、「これは自分の妻だ」とまで言って、終生愛読した書簡です。ルターと言えば信仰義認であり、彼は、それまでのカトリック教会にて信じられてきた、善い行いによる、善行による救いではなく、ただ神様の恵みによって人は救われるのだ、という恵みの教理を主張して、それが、私たちプロテスタント教会の発祥となったわけですが、ルターが、行いによる救いか、信仰による救いなのかという問いに答えるために根拠としたのが、ローマの信徒への手紙とこのガラテヤの信徒への手紙でした。

そこでプロテスタント教会は、伝統的にはルターに倣った読み方で、信仰義認の教えを読み取るという読み方でこの信徒への手紙をこれまで解釈してきたのですが、しかし、聖書についての歴史研究が進む中で、このガラテヤの信徒への手紙が訴えていることは、ただ信仰義認だけではないこと、また、この手紙が書かれた当時の時代状況が明らかになるにつれて、その時代状況も考え合わせて、この手紙を解釈するという読み方に、現代においては変わってきました。

そして、そういう目でこの手紙を見て、ガラテヤの信徒たちが当時置かれていた状況を考える時、そこに浮かび上がってくるのは、現代のこの日本に生きる私たちと、とてもよく似た状況に置かれている、ガラテヤの信徒たちの姿なのです。

そこにいるのは、キリスト教発祥の地であるイスラエルに生まれたユダヤ人ではない異邦人の人々です。そしてその人たちは、これまで聖書に慣れ親しんで生きてきたような人たちではなく、当然、イスラエルのユダヤ人の文化とは違う、それとは全く縁の遠い、今のトルコの地域の文化、特にこの時代には、トルコの左隣にあるギリシャ神話の神々を奉ずる多神教のギリシャ文明に大きく影響を受けていた、そういう世俗的で、かつ当時の世界で随一の、先進的な文化の中で生まれ育って、そこで生きている人々、それがガラテヤの信徒たちの生きた世界でした。

そして、ここがちょっとややこしいのですけれども、パウロは具体的には、そういう社会で生きるギリシャ文化的な異邦人を、ユダヤ人の教えに染め上げて、ユダヤ的な原理に当てはめて指導しているガラテヤ教会の指導者たちに向かって、警告を発しました。ですが、しかし恐らく、これを言われている側のガラテヤ諸教会の指導者たちは、「自分たちのやり方のどこが悪いの?何がおかしいの?」という感じで、パウロが「全然それは福音から外れてしまっている」と呆れ返っている理由が、よく分からなかった、ピンと来ていなかったのではないかと思います。

本当にこれは、今ちょうど水曜礼拝で学んでいる十戒の第一戒、第二戒の学びとも重なってくるのですけれども、パウロは、ただ主イエス・キリストの福音こそがすべてだと言いたいわけで、ギリシャ文明的なやり方にせよ、逆にユダヤ人的な、割礼を受けることなくしては救い無しという旧約聖書の戒律を重視するやり方にせよ、とにかく何も、イエス・キリストの福音に付け足したり、差し引いたりしてくれるなと、そのレールを曲げたり、そのレールの上に何かの異物を置くようなことはするなと、言いたいわけです。

今朝お読みしました出エジプト記32章の金の子牛事件で起こったことも、それはガラテヤ教会で起こっていたことと、本質的に同じでした。金の小牛を作って神様の酷い怒りを招いてしまった祭司アロンは、神様から他の信仰へと逸れて、主なる神様の代わりに、違う神様を仕立て上げようとしたわけではありませんでした。モーセがシナイ山に登って、雲の中に入ってしまって、ずっとそこから帰って来ないため、それで不安になった民たちのために、いつでも神様がそこに見える形で一緒に居てくださるのだよという、安心感を得たいがために、それを確かに示すために、アロンは良かれと思って、金の子牛を作ったのです。けれどもそれは、「あなたは刻んだ像を造ってはならない」という十戒の第二戒に反する、神様からの恐ろしい逸脱でした。しかしアロンには、またイスラエルの民にも、全く悪気はありませんでした。そしてしかも、彼らの周りの色々な神々を奉ずる色々な民族たちも、当時全く同じことをやっていたわけです。当時は他の民族も皆、牛や、カバや、人間よりも力が強く、また繁殖力や生命力の強い動物の像を作って、それを神に見立てて礼拝をしていました。だからイスラエルの民も、他のみんながやっていることを真似て、皆もやっているからと、同じようにやったわけです。しかしそれが実は、とても大きな過ちでした。

 

パウロは、この手紙で敵対者たちを名指しで追及したりはせず、それがどこの誰であるのかについては、問題にしていません。それはパウロが、自分自身にも、誰にでも、さらには主のみ使いである天使にさえ、この過ちに陥る危険性がことを、よく知っていたからであると思います。それぐらい、福音をすべて覆してしまう恐ろしい逸脱は、私たちのごくごく身近にあるのです。その危機感を、パウロは89節で語ります。

1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」

 

この人生を生き抜くために、私たちは、この身一つでは不安ですので、色々な武器が必要だと、あるいは失敗した時のために、色々な保険も備えておきたいと考えるのだと思うのです。貯金も、できればなるべく多く必要、生命保険も必要、資格も、人から一目置かれる業績も、困らないぐらいのそれなりの地位も、学位も必要だと。そういうものがないと、不安で心細くて、何かあった時に大変だから。そして他の皆も、そうやって自分の武器を携え備えて生きているので、自分もそうした方が良い。子どもにもそうさせた方が良い、将来役に立つ資格を取らせておいた方が絶対にいいからと、ついつい、教会そっちのけで、日曜日のことをそっちのけにして、そちら優先で考えたりしてしまいます。

そしてさらには、このキリスト教会といえども、ついつい自ら、福音に混ぜ物をしてしまうのです。一般の人々もそれを求めてきますし、それを前面に出した方が分かり易いですし、人集めもし易かったりするので、イエス・キリストの福音のみならず、神様を信じれば、人生が成功へと導かれますよ!あなたも立身出世できますよ!逆に、神様を信じなければうまく行きませんよ!と、ただ「主イエス・キリストが良いお方です」と語ることだけでは満足できずに、イエス・キリストに従えば、これこれこういう良いことも付いてきますよと、他のことを付け足したり、それで人を吊ったり、あるいは、福音ではない、人間を自由にせず逆に縛るような言葉で、人をコントロールしようとさえする。そういう、危険は、実はこの説教壇にこそ強く根を張っている。そんな、イエス・キリスト一本に頼り切れず、そこに身を委ね切れない、半端な私たちに、今朝パウロは、改めて問うわけです。

では聞きますが、あなたにとって、あなたのために自分のすべてを投げ打って明け渡してくださった主イエス・キリストは、何なのですか?じゃあキリストの福音も、イエス・キリストがあなたのために十字架に架かって死んで、復活してくださったということも、あなたにとっては、自分を支えるための数ある手駒の一つに過ぎないということなのですか?ではキリスト教会とは、キリスト者とは、キリストによって新しく創造された者たちとは、キリストを知らない人たちとほとんど変わらない道を行く、そんな程度の人々なのですか?と。

主イエス・キリストの福音のレールの上を生きていくということは、小手先の処世術ではなく、人生を成功に導くテクニックでもありません。それは単に知識を得ることでもなく、それは、私という人格と、主イエス・キリストという人格との深い出会いです。その時、主イエス・キリストの十字架と復活が、私の人生の一部になる。古い自分の死んで、主イエス・キリストに全幅の信頼を置く人生に生まれ変わる。何もなかったところに天地創造が起こるに等しい、新しいことが、この身に生じる。そして、このキリストの洗礼を受けたということが、私の人生の中で一番大事な支えになり、永遠に消えない記念碑となり、それが何よりの、自分の持つIDになる。その時は、パウロがこの手紙の2章で「キリストがわたしのうちに生きておられる」言ったように、もう自分が生きているのか、キリストが生きているのか、復活のキリストの溢れる命が自分の中に溢れ過ぎて、もうどっちの命で生きているのか区別がつかなくなる。そういう人間に、根底から変えられるということが、主イエス・キリストの福音に生きるということです。昨日オリンピックのラージヒル決勝をやっていましたけれども、スキージャンプの滑走レールを真っ直ぐに滑り降りて、勢い良く中空に飛び立つかのように、私たちは、キリストと共に、ただ主イエス・キリストをこそ、この人生の力にして、明日へとここからまっすぐに飛び立つのです。