2022220日 ガラテヤの信徒への手紙11124節「イエス・キリストとの出会い」

 今朝、新しい長老と執事の任職・就職式が行われましたけれども、こういうことは本当によく起こることなのですが、不思議と、意図せず、その任職・就職式に相応しい御言葉が今朝読まれました。それは、このガラテヤの信徒への手紙の御言葉をこそ、神様が、今朝の板宿教会とそこに連なる私たちに必要な御言葉として、与えてくださったということなのだと思います。

 

 長老と執事の任職の誓約事項の四つめに、「④あなたは、神の恵みによってこの職務に召されたことを確信し、神とキリストの教会への愛によって、この職務を遂行することを誓約しますか。」という問いかけがありました。あなたは、神によってこの職務に召され、選ばれたことを確信しますか?という問いかけでした。また、教会員である皆様も、教会員の誓約事項の一つめで、「主は、あなたがたが選んだこの愛する姉妹を、今、あなたがたの〈治会長老・執事〉として遣わされることを受け入れますか。」と問われ、それに誓約されました。教会員のこの誓約も、会員総会の選挙で姉妹方を選んだのは私たちですが、そのことを通じて、主なる神が、お二人を召し上げて選んでくださったことを認めます、という誓約です。

 そして今朝のガラテヤの信徒への手紙で、神様の使徒とされた、使徒とは、神のメッセンジャーであり、アンバサダー、つまり神からの使者であり、特命大使であるという意味ですが、その特別な使徒とされたパウロも、この任職・就職式によってこの場所で露わにされたこと同じく、今の私は、神様による召しと選びによって、立たされて、使徒とされているのですと、今朝の御言葉で、殊更にはっきりと、高らかに宣言しています。

 

 しかし、なぜ、神様に召され、そして選ばれたということが、誓約事項で誓約され、パウロによって高からに宣言されなければならない程、大事なことなのでしょうか?

 先週も少し、そのさわりを解説いたしましたが、パウロがこの手紙を書き送っているガラテヤ地方の、今で言えばトルコ領の南部の地域にあたる諸教会は、ギリシャの隣であるゆえに、元々はギリシャ文化の中で育ち、ギリシャ神話の神々信仰しているような、ユダヤ・パレスチナ人から見れば異教徒の、異邦人によって組織された、ユダヤ人から見た時の外国人キリスト教会だったわけですが、しかし、そのキリスト教会としての教えが、パウロのいない間に、パウロも驚くほどの仕方で、十字架で死なれそこから復活された主イエス・キリストにのみ寄り頼むという、本来の教えから離れてしまったのです。

 その逸脱の原因となったのは、ユダヤ人的なキリスト教徒でした。ガラテヤの教会の中に、その人たち自身は必ずしもユダヤ人ではなかったと思いますが、しかし強くユダヤ教に回帰しようとする、つまり、主イエス・キリストが成し遂げてくださった救いだけではまだ足りないとして、それに、旧約聖書の時代から伝統的に救われた者のしるしだとされてきた割礼を救いに必須の条件として加えようとする、そういう信念に立つリーダーたちが、多数出現していたのです。そして彼らは、パウロが伝えた教えについてはもちろんのこと、パウロが教会に対して持っていた使徒としての権威をも否定し、パウロは本当に正しいのか?パウロはむしろ聖書に即していない、伝統に即していない異端者なのではないかと非難していたのです。

 先週の説教でも、また水曜礼拝でも語りましたので、内容が重複してくるのですが、私たちは、必ずしも悪気があってのことではなく、2千年来のユダヤ人としての伝統を重視する割礼にしても、また金の子牛にしても、ついつい自分から出て来るアイデアに従って、神様を変化させたり、補いたくなる、その方がより確かさを得られたり、安心感を得ることができるので、良かれと思って色々と補いたくなってしまうのです。しかし、パウロにとってそれは、ただ主イエス・キリストにだけ向けられるべき、絶対的な信頼と信仰を、半減させて、目減りさせてしまうことになる。恐ろしい逸脱でした。

 

 けれどもなぜ、ガラテヤ教会をパウロのあとに引き継いだリーダーたちは、強いユダヤ教的な、割礼を必須にする救いへの回帰という方向性を採ってしまったのでしょうか?

 その原因を考えるうえでのヒントが、パウロが繰り返して語る、「人」という言葉にあります。先週の御言葉の最後の110節の言葉が、内容的には今朝の11節以降の言葉の導入部分となっていますので、その110節から12節までをお読みしたいと思います。1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」

 パウロは、ガラテヤ教会のリーダーたちのことを、人に取り入ろうとしている。何とかして人の気に入ろうとあくせくしている。と非難しています。そしてパウロは、昔はそうだったとしても、今はもう、自分自身は、人の気に入ろうとあくせくはしていません、と言うのです。

 つまり、ユダヤ教的な、伝統的な枠組みへの回帰ということと、人に媚びを売り、人におもねるということとが、パウロから見れば、ひとつに結び付いた事になっていると言われています。そしてさらにこの後の言葉では、ユダヤ教的な回帰と、人に媚びを売るということと、エルサレムに行くということが、三つセットになって、ここでは捉えられています。

これはどういうことかというと、ガラテヤ教会のあったトルコではなく、イスラエルの、首都エルサレムにある、エルサレム教会こそが、キリスト教会の発祥の地であり、エルサレム教会こそが、当時のキリスト教会の大元であり、見紛う事なき総本山でした。そしてそこにこそ、主イエス・キリストに従ったペトロや、ヤコブなどの、主イエスの直弟子である12使徒たちが、初代キリスト教会を建て上げた創始者、ユダヤ人幹部として、エルサレム教会に鎮座していたわけです。

もちろんエルサレム教会の本部の方でも、この時から数えて、まだほんの三、四年ほど前のことでしたけれども、激しくぶつかり合う議論の末に、使徒言行録15章に書かれているエルサレム使徒会議という大会議によって、割礼がない異邦人でも、イエス・キリストの福音からくる洗礼によって、割礼なしに救われることが可能だという、パウロが教えたものと同じ教えが公式に決議されました。しかしながらそれでも、ガラテヤ教会のリーダーたちは、本部の重鎮たちの目を気にして、昔からの古式ゆかしい伝統というものを重視したのです。神様よりも、エルサレムの方を向いて、神に気に入られることももちろんそうだったと思うのですが、しかしそれ以上に、それ以前に、本部に気に入られたい、認められたい、間違いのないことをやりたい、よくやっていると評価されて、あわよくば立身出世、そういう思いが彼らにあった。そして彼らは、自分たちの身勝手な判断に基づいて、勝手に本部に気を遣って、キリストの福音に、伝統的な割礼というエッセンスを加えたのです。

 

 しかしパウロは逆に、14節からのところで、かつては、先祖からの伝統を守るのに人一倍熱心だったけれども、キリストに出会ってから後は、そのエルサレムの本部には、行くことさえしなかったと言っています。14節から17節まで、改めてお読みします。1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」

 17節に、アラビアに退いて、という言葉があります。この手紙の425節にチラッと書いてありますが、アラビアとは、パウロのこの時の地理感覚によれば、モーセが神様から十戒を与えられたシナイ山のことを指しています。つまりパウロは、主イエス・キリストに出会うや否や、エルサレムの教会本部に行って上司に挨拶するなどのことはせずに、アラビアに行き、人間とではなく、シナイ山で、何よりも神様と話をした。そしてすぐに、異邦人が住む、自分の出身地ダマスコに帰って、さんざん自分が迫害し、攻撃して苦しめて来たキリスト者たちの面前に自分を晒して、そうやって、まだパウロを恨んでいる人たちの前に自分の身を晒して、イエス・キリストに出会って、180度変わった自分を恥ずかしげもなく見せて、命を懸けて、人のためでなく、自分のためにでもなく、ただ神様のために、自分の罪や恥をもダシにして、ただ神様の素晴らしさを宣べ伝えたのです。

 

 パウロは10節の終わりで言いました。「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」パウロが、「人の気に入ろうとしている」という時、彼が「人」という時、そこに他人が入ることはもちろんですが、もう一つ、「人」という言葉の中の大部分を占める大きさで、パウロその人自身という意味での自分の存在も、その中に入っています。

 

 先週、『教会を必要としない人への福音』という、ちょっと斜め上なタイトルの、ウィリアム・ウィリモンという有名なアメリカ人神学者の書いた本を読みました。その本の中に、「多くの人々が教会を好まないのは、教会が教会と呼ばれるのにふさわしい姿になっていないことへの失望によるのではなく、むしろ、教会が教会と呼ばれるにふさわしい姿になりえていて、それが彼らに居心地の悪さを感じさせているせいである。」と書かれていました。そこはアメリカも日本も同じですけれども、今の世の中、この社会は、人々が徹底的な個人主義と、自己中心主義の中を疑いもなく生きています。そしてそこには、個人主義と自己中心主義に基づくキリスト教という現代における最大の異端が存在するとウィリモンは語ります。そこでは主イエスが、ただ優しいだけの親友に仕立て上げられ、私たちを戒め、叱咤激励してくれる本当の友としての主イエス・キリストは無視される。そこでは教会は、自分が好きなように生きることを支援してくれるだけの、そういう意味での、自分のための、本当の自分探しをする自己啓発グループになってしまう。けれども教会は、そういう子どもじみた思い違いを繰り返す私たちに、異議を唱え続ける。そしてそのことによって、自分ばかり、人ばかりを見ている私たちを不愉快に直面させ続ける。自分が愛している偶像を踏みつけられたり、拝んでいる偽りの神々を暴かれたり、そうやって自分の虚偽が真理の鋭い光に照らされる時には、痛みが生じる。教会は、長いものに巻かれろとは言わず、逆に、あなた自身とあなたの賜物を捧げなさいと、あなたの時間も、あなたのお金も、あなたの愛も、あなたの命さえをも、教会はしつこく要求してくる。神がそうされるゆえに、教会はあなたに献身と応答を求めてくる。

まさしくウィリモンの言う通り、今朝の私たちにもパウロは、「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」と、僕とは奴隷という意味の言葉ですから、あなたがたも、私と同じキリストの奴隷でしょ?と、今だに人の気に入ろうとしているのですか?と、もしそうだったら、あなたはキリストの福音から外れていますよと、あなたはその時、キリストの僕ではなくなるのですよと、痛い言葉を投げかけてくるのです。

 今朝の御言葉曰く、神様の反対は「人」です。そして「人」という言葉の中心を占めているのは、人たる自分のエゴイズム、自分だけという個人主義、自分を守りたいという自己中心、すなわち罪です。

 

 けれども、今朝長老になられ、また執事になられたお二人は、今朝の誓約を通して、とてもはっきりと信仰を表明されました。そして私たち皆も、それに挙手をもって答えて同意することによって、ひとつの教会としてその信仰の表明を共にいたしました。その信仰とは、つまり、今私がここに立っているのは、根本的に自分の力や、自分の決断や、自分の計画に基づくことではない。それは神様が、私を選び、私をここに立たせ、今朝のパウロの言葉を借りれば、単なる一時の思い付きや偶然ということでは全くなく、遥か自分が生まれる前の、母の胎内にある時から私を選び分け、恵みによって召し出し、御心のままに、私に御子イエス・キリストを示し、その主イエスと出会わせ、福音によって救いに与らせ、さらに、長老・執事に任じて、この板宿教会を通して、この福音を、まだそれに与っていない異邦人に、教会の外にいる多くの人々に、告げ知らせていくように、お二人は、そして二人を通じてこの私たち皆も、そのためのキリストの僕に召され、任じられた。

 

 人の奴隷にされてしまうのは嫌なことであり、自分の欲望やエゴイズムの奴隷になるのも、果てしなく悲惨なことです。しかし反対に、キリストの奴隷として召し上げられること以上に、幸せな道はありません。キリストの奴隷になるとは、違う言い方をすれば、すべてをキリストに託して生きるということです。そうやってキリストの奴隷となる時、その時には、イエス・キリストが主人ですので、この主人は御自分の僕のためにその命さえも、躊躇なく、喜んで投げ出してくださる方ですので、実は、この主イエス・キリストに、召し入れられて、自分の将来も身も心も、この命も全て預けて、すべてを預かっていただいてついて行くということほど、安心安全で、これ以上に自分が守られる、祝福された良き道は他にないのです。

 すぐにエゴに引き戻されたり、すぐに他のものの奴隷になってしまう、弱い私たちです。だからこそ、教会が必要です。教会で、先陣を切って私たちを導いてくださる長老さんたち執事さんたちが必要です。そういう意味で、今日は本当に喜ばしい日です。このような私たちを、キリストの僕たちが互いに手を取り合って共に歩む、神の教会として、今日ここに立たせてくださっている私たちの主イエス・キリストの父なる神に、感謝いたします。