2022年3月6日 ガラテヤの信徒への手紙2章1~10節 「一人の神、多様な使命」
今朝のこの御言葉で語られていることは、福音の素晴らしさです。福音の素晴らしさ。これを、何と伝えたらよいのでしょうか?思えばパウロも、この福音の素晴らしさを伝えるために、キリストの使徒となり、その生涯のすべてを福音を語り伝えることに捧げました。そしてこの私も、パウロと同じように、その福音の素晴らしさを、皆様に伝えるためにこの場所に立たされていますので、何とかしてそれを今朝皆様にお伝えできればと思います。
今朝の御言葉の中の、2章4節に、自由という言葉が出てきます。そしてその4節の自由という言葉を挟むようにして、奴隷という言葉が一度使われ、さらに強制という言葉が3回使われています。今朝の4節から6節の始めまでの御言葉を、また改めて朗読させていただきたいと思います。「2:4 潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。2:5 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。2:6 おもだった人たちからも強制されませんでした。」
私は教会が好きです。なぜ好きなのかには色々な理由がありますが、一つには、今朝の御言葉にある通り、教会には本当に何の強制もありませんので、教会が好きです。仕事場では仕事をしなければなりません。学校では勉強をしなければ、始まりません。お店に一旦入ったら、何かしら、買わなければなりません。では教会ではどうか?教会は強制されることは何もありません。自由になること。それこそがここでの仕事です。
お読みいたしました4節に、「彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来た」と言われています。私たちがキリスト・イエスによって得ている自由、という言葉があります。このガラテヤ書では、自由という言葉が9回も使われていて、さらにそれだけでなく、5章では、キリスト者の自由という表題が付けられている有名な段落がありますし、5章1節には、「5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と語られて、私たちは主イエス・キリストによって、皆が既に自由の身にされたのだということが、このガラテヤの信徒への手紙では殊更に強調して語られています。
キリストの福音の素晴らしさとは、とりもなおさず、まずこの自由です。私たちがそれによって自由になれるというところが、キリストの福音の素晴らしさなのだと言うことができます。ですから、日曜日の朝は、どんなに曇っていても、心は晴れやかです。神様を礼拝し、青い綺麗な水平線を見上げるような気持ちで、私たちは日曜日に、神様を見上げます。普段聞けない神様の新しい言葉を、新しい空気を吸い込むように心に吸い込んで、心が換気されて、心がスッとします。
神様以外の何者かの奴隷でいることは、良いことではありません。強制は嫌です。強制を受けると、私たちの内側の生命力が、知らず知らずのうちに減退してゆきます。
先週読んだ、『コロナ時代のパンセ』という辺見庸の本の前書きにこういう言葉がありました。「世界が徹底的に衛生的であり清潔であることが、思想を語り深めるより上位の原則とされ、手指の消毒やいわゆる社会的距離の保持、はたまたマスクの着用があるべき人倫になりかわり、あるいは人倫よりも重大な義務であると言わんばかりなのだ。人間は自由に思惟する動物であるより、もっぱら医学的ないし生物学的柵や檻の中にいつのまにか思考を完全に閉じ込められ、不潔な人、マスクをしない人、社会の衛生化に反抗する人を監視、摘発し排除したり、不潔と清潔のゾーニングに憂き身をやつしたりしている。」
確かに、生物学的に清潔さを増すことが私たちの至上目的であるはずはないわけで、日本では、ロックダウンという強制こそ行われていませんが、自粛の掛け声と圧力のもとに、半ば強制的な力を伴って、消毒、殺菌、滅菌が殊更重視されて、それよりも根本的な問題である、人間の人格、生き方、自由、喜びという、公衆衛生よりも前にまず考えられるべきことが、はなから隅に置かれて、後回しにされてしまっている現状があります。そして自粛や、コロナエチケットというような、明確な線引きを持たない雰囲気としての圧力の方が、ある意味でロックダウンよりも、強く根の深い強制力になり、自由をより強く奪うということが起こると思います。
そして、そういう社会通念、同調圧力、そこからくる雰囲気が人を縛るということが、実にこの聖書の時代にも、律法主義と、そしてとりわけ割礼という問題を通して、表面化していました。
今朝開いていますこの2章1節からの場面は、諸説はあるのですが、これを、ルカが書いた使徒言行録の15章に出て来るエルサレム使徒会議で起こったことを、パウロがこのガラテヤ書を通して描写している部分として、ここでは理解していきたいと思います。
パウロは、異邦人に割礼が必須なのか否かという問題を決するためのエルサレム使徒会議に、3節にありますように、ギリシャ人でパウロと共に働いたテトスを同伴して向かいました。パウロは、テトスのような割礼を受けていない異邦人であっても、洗礼を受ければキリストの救いに、罪の赦しに与ることができると信じていましたから、割礼なしで救われた人間の生きたサンプルとして、パウロはテトスとエルサレムに同行したのです。
そしてパウロがそのエルサレム使徒会議で確認できたことは、自分の福音理解の正当性でした。2節でパウロは、もしかしたら自分が無駄に走っているのではないかと思ってエルサレムの本部に意見を求めたが、そこに居たヤコブ、ペトロ、ヨハネという主イエスの直弟子たちも同じ意見で、6節が語りますように、そういう主だった弟子たちから、テトスに割礼を強制されるようなことは起こらなかったと語っています。
4節にありますようにそのエルサレム使徒会議には、ガラテヤの信徒たちをその誤った教えで翻弄してしまっている偽の弟子たちも潜り込んで来ていて、自分たちの主張を通そうと色々と画策していたのだけれども、それにも拘らず、割礼の強制は断じて決議されなかったのだと、パウロは書いています。
パウロの反対者となっていた偽の弟子たちは、前回も語りましたが、悪意はなかったのだと思います。彼らは彼らなりの安心、安全な教会形成をしていくために、アブラハムの太古の時代から二千年以上も保全されてきた間違いのない割礼の実施に、今まで守られてきた決まりに基づくことが、より安全だと考えていた。そんな彼らから見て、パウロは秩序破壊者に見えた、この時代の社会通念や空気を読まない危険人物にどうしても見えた。無理もありません。十数年前のことだとは言え、パウロは昔滅茶苦茶をやっていましたし、これ以上ない教会の門外漢であり敵対者、ステファノ殺害に関わったかたきであった。
しかし、たとえ旧約聖書にも書いてあるアブラハムに由来することであっても、ただ決まりだから、長いことそれでやってきたから、という理由で変化を拒むということは、キリスト教的ではなく、聖書に適う判断でもありません。割礼はただ形式的には割礼であるだけであって、その背後にあるさらに大事な本質は、心に残って、神様に従うことを拒ませる、心の包皮を切り取ることです。
律法主義は、律法を強制することによる、律法への奴隷化を招きますが、残念ながらそれは、福音の自由とは真逆の事なのです。
主イエス・キリストは、何をしてくださったのかというと、主イエスは、律法の強制と、それによる奴隷化のあおりをすべて御自分で受け留めてくださり、それゆえ捕まって、牢に入って、十字架で死ぬまでしてくださった。それは、御自分が不自由と奴隷状態を引き受けることによって、私たちの壁となって、私たちを守ってくださり、私たちに自由と解放を与えてくださるためでした。ですから教会にある自由とは、ただの自由、生半可な自由ということではありません。律法的な強制はおろか、死という拘束からも解放し、死からの自由さえも与えられる、ここに宿るのはそういう強靭な自由です。
自由と解放、自由になれる場所、自由になれる時、私たちを自由にしてくださる主イエス・キリスト、これが本当に必要です。これがないと、私たちはおかしくなってしまいます。
ウクライナの諸都市の、地下鉄や地下シェルターに、降り注ぐ爆弾を避けるために、たくさんの人がこの朝も、寿司詰めで閉じ込められています。実に先の世界大戦では、ロシアの側にもウクライナの側にもこの身を置いたことのある、一見自由なように見えて、強い閉塞感の中に置かれている、この日本に生きる私たちには、ウクライナの人々の痛み苦しみが、かなりダイレクトに、深く同情できる事柄として感じられます。しかし同時に、この私の力では、何をどうすることもできないという私たちの無力があります。
けれどもパウロは、福音の素晴らしさを語るために、ローマの信徒への手紙のほうでは、以下のような言葉を残しました。「1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」読み慣れた御言葉ですけれども、これは、大変に大きな約束の言葉です。福音は、日本人にも、ウクライナ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ、という読み替えも可能です。そして本当に今、福音は、日本人にも、ウクライナ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力なのだという、この福音の力を、私たちは信じて、それに寄り頼み、恥ともせずにそれを頼みの綱として、福音の力を誇り、福音の力に支えられて生きるということを、今本当にすべき時なのではないかと思います。
今週金曜日には、11年目の3・11が来ます。あの日、気仙沼港から数百メートルの所にあった教会が津波に飲まれて、しかしそこに、礼拝堂の床と、十字架だけが残るということが起こりました。そのことを思い出す時、死という最大の強制力と力を持って迫って来る敵からも、私たちを救い出し、自由にしてくださるために、11年前に津波に飲み込まれたすべての人たちと共に、主イエス・キリストは、その先頭に立って死に飲み込まれてくださったのであり、そして今、ウクライナでの生死の境の狭間にも、そこにも主イエスの十字架は立っていて、本当に、死の痛み苦しみ恐怖を、最後に主イエスがそこで、引き受けてくださるのだと。人の力ではできないけれども、日本人にもウクライナ人にも、信じるものすべてに救いをもたらす、神の福音の力ならば、それができると、その神の自由が、死からの自由が、救いが、その場所にもあると、私たちは、この御言葉に寄りすがってそれを信じ、ただ単に無力にさいなまれるだけではなく、今、その福音の自由なる救いを、それをしてくださる主イエス・キリストの力を、誇りたいと思います。
本当に主イエス・キリストが、私たちを自由にするために、奴隷になって、捕まって、牢に入って、十字架で死ぬまでしてくださいましたので、こういう神の御子が命懸けで建て上げてくださった神の力が福音ですので、私たちは、これを無駄にしてはいけない。
私たちが何かを変に律法的に強制したり、最終的には私たち自身がそれを決めて、人間の力をもって実行していく割礼のような余計なものは、一切要らないのだと、そうパウロが繰り返しますように、キリストがその命を懸けて決めてくださった救いなら、それを恥とせず、恥も外聞も捨てて、私たちはそれに寄りかかり、その救いに与ればよいのです。
私たちは、福音によって、狭い、自由の利かないところに、強制されて押し込まれるのではありません。主イエス・キリストの福音は、下から私たちを支え、後ろから、私たちの背中を押して、私たちを縛るのは無くて逆に自由に歩み出させてくれる力です。
最後に、7節8節をお読みします。「7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」
7節の知りましたと言う言葉は、実際には見た、という言葉です。そして8節で「働きかけた」と二回出て来る言葉は、エネルギーの語源となっているエネルゲオーという言葉です。パウロは本当に背中から福音のエネルギーによって、ゴーっと押されるようにして、それをリアルに感じ、また見ましたので、その主イエス・キリストのエネルギーによって歩んでいきます。
その歩みは、ちょうど、修養会の案内の背景の一本道のように、神様の福音を宣べ伝えるという、一人の神様に従う一本道なのですが、しかしそれは同時に、狭いところに押し込まれる歩みではなくて、自由に広がっていく歩みです。一本道の先に、白いバツ印があります。これが、遠近法で絵を描く時に必ず必要な、一点、Vanishing point、無限消失点です。キリストの福音に導かれて私たちが向かう先は、一点です。そこは逸れません。しかしここにある×点は、道を進んで行ったらそこの道の路上に×印が書いてあるわけでも、道が狭くなるわけでもなく、そこまで進んで行けば、またその先には広い道が続いていて、その先に新たな消失点がまた見えてくる。
そうやって、神様に背中を押されながら、皆で一つとなって、一つの道を、しかし一人一人がそれぞれの自由な使命に生かされながら、死からも自由とされている約束の力の中を、神様からの光が差し込む道を進んで行く。これが、私たちの歩みです。