2022313日 ガラテヤの信徒への手紙21121節 「真の自由」 

今朝の御言葉には、ガラテヤ書と言えばこれだ、という、ガラテヤ書の中心的な御言葉が語られます。それが、220節の御言葉です。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 

この言葉を読む度に、ある方の姿を思い出します。それは、仙台で、まだ私が20代半ばの牧師を始めたての頃にお会いした老婦人で、その方は私が最初に牧師として葬儀をさせていただいた方でした。彼女は、93歳で召されるまで、何百回にも及ぶ家庭集会を自宅で開いて、多くの方々を信仰に導いてこられた方でした。彼女は、家庭集会などで分かち合い、お話しする機会があると、いつも、「もはや、我生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり。」と、文語体聖書の言葉で220節を語って聞かせてくださり、お祈りをする時にはいつも、「神様、なぜ私をまだ生かしておくのですか。早く天国に行かせてください。天国に行くことは、この襖を開けて、隣の部屋に行くようなものだから。」と祈っておられました。あんなに明るく、清々しく、主イエスと早く天国で顔を合わせたいと、それが心から楽しみで、待ちきれない、という期待を前面に出して、あんなにも、しゃがれていながらも健やかな声で、「早く天に召されたい!」と祈る方を、私は他に知りません。 彼女は、くも膜下出血で、私の目の前で倒れて召されるまで、いつも元気で、パワーが内側からいつもみなぎっているような、こうなりたいと皆に思わせる、魅力ある方だったのですが、そのパワーの源は、彼女の中に生きているキリストであり、その魅力の源は、その方の中に生きているイエス・キリストだったのだと、言うことができます。

 

 2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」この言葉を書き記したパウロは、ではどんな思いで、この言葉を語っているのでしょうか?今朝の11節の前に太字で書き記されている表題には、「パウロ、ペトロを非難する」とあり、今朝の15節以降はまた段落が区切られていて、別の話になっている形になっていますが、研究者によって諸説があるのですが、私は、今朝の11節から21節を、二つの段落に分けないで、ペトロへの批判からそのまま続いていくひと続きの話として理解したいと思います。パウロは、11節からの御言葉で、かつての、アンティオキアという異邦人の教会で起こった、ペトロとのやり取りを思い出しながらここに書き記しています。

パウロは、ペトロという、弟子の筆頭であり、これ以上の弟子はいない、弟子たちの重鎮の中の重鎮を、かつて臆することなく非難しました。先週の26節の御言葉でも、パウロは、「この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。」と既に語っていましたが、その言葉通りに、今朝の箇所でも振舞っています。つまりパウロは、人を分け隔てなさらない神様のものの見方で、神様ことだけを恐れ、敬い、高く掲げているがゆえに、人の顔や人の肩書や身分を恐れることから自由でした。

人を恐れることからの自由、と簡単に言いましたけれども、これは大変なことです。主イエスも、「人々を恐れてはならない。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と、強く語ってくださいましたが、いつも人の顔色を窺って、人の目を気にして、多くの場合にそれに生きている私たちには、神を恐れることによって人を恐れない、という自由が必要です。

パウロがかつてペトロを非難したのは、神を恐れることによって人を恐れない、という自由をペトロも知っていたにもかかわらず、ペトロが、エルサレムから来たユダヤ人たちを交えて食事をすることを控えた、ということに対してでした。パウロは、そんなペトロを、12節にあるには、「恐れてしり込みし、身を引こうとした」と断罪しました。

そして、これは単に、ペトロが人を恐れ、人から自分が非難されたり難癖をつけられるのを恐れているというペトロ個人の自己保身に対する批判であっただけでなく、ただ主イエス・キリストによってだけ結び付いてひとつとなるはずの、神の教会を壊してしまうという、教会を傷つけ、裏切る行為に対する批判でもありました。

パウロは14節で語っています。2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」」

パウロは、皆の前でケファに、すなわちペトロに向かってこう言った、と記しています。これは決してパウロの意地悪や、皆の前でパウロがペトロを見せしめにしようとしてやったことではなく、パウロはこの時、皆の前で、本当に次の大事なことを確認しなければならないと強く考えていたのだと思います。それは、14節の最後の言葉に表われている、「どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。それは違うでしょう。」というパウロの訴えです。

ペトロは、福音によって自由にされたはずだったのに、そう振舞わなかった。エルサレム教会からきたユダヤ人キリスト者たちにおもねって、エルサレムから来たユダヤ人が、アンティオキアで、異邦人のやり方に合わせるのではなくて、ペトロは結局、律法順守にこだわり続けて、それゆえに、汚れた生き物の肉や、ユダヤ人の調理方法と違う食事を食べてしまう恐れが生じるので、異邦人と食事をするのは、正直ちょっとまだ抵抗があるので遠慮したいという、エルサレムの本部から来たユダヤ人クリスチャンのやり方に異邦人クリスチャンの方が、合わせるべきだということを示してしまったのです。パウロはそれを見て、ペトロも、それを黙って見ている皆も、それでは福音の自由を放棄することになると、結局異邦人が、ユダヤ人のように生活しなければ、エルサレム教会から認められないのだと、結局それではキリストの教会は、律法を守るユダヤ人キリスト者と、律法を守れない、ちょっと疎んじられるべき異邦人キリスト者の教会という、二つに分かれた、一致できず、一つになれない教会になってしまう。これは教会を破壊し、何より主イエス・キリストの救いを裏切ることだと、パウロは敏感に感じ取った。だからこそ、ここで鋭く言い放っているのです。

 

パウロは15節以下で、最も大事なことは何かという話を改めて語りながら、今朝の最後の21節でも言われていますように、キリストの死を、どうか無意味にしてくれるなよと、訴えています。

15節以下で、色々な事が言われていますけれども、その核心部分は、16節にあります。2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」

もう20年以上前から、SASUKEというテレビ番組が時々放映されています。筋力とバランスと瞬発力を武器にして、アスレチックゲームを強化したような数々の難関を、この身一つで乗り越えていくという番組で、一つ一つの関門の下には、池があって、水が貼ってある。そこに落ちたらゲームオーバーという番組です。何百人も挑戦して、みんな脱落ということもよくあり、たまにゴールまで行けたとしても、そういう人は年に一人か二人ぐらいしかいません。

「律法の実行によっては、だれ一人義とされない」と言う時、SASUKEよりも厳しい世界がそこにあります。律法の実行によっては、数々の決まりをすべてクリアーする、どこからどう見ても正しい人間などはいませんので、誰もゴールできず、誰も救われず、水の中に落ちることになる。罪の報酬は死です。律法を守り損ねた失敗者には、死が待っています。

けれどもパウロは、教会にとって、律法が一番大事なのではないと、何より大事なのはイエス・キリストである。そして、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言いました。

さらに重ねてパウロは、冒頭で紹介しました20節の前の19節で、こう語っています。2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」パウロもかつてはSASUKEを戦っていたのです。しかし、屈強な律法主義者であったパウロでも、あっけなく池に落ちました。律法では人はだれ一人救われず、死に至ることを、実感を持ってパウロは知ったのですが、そこには、主イエス・キリストとの出会いがありました。

パウロが自分の生き死にを語る時、パウロの目の前には常に十字架が見えています。パウロは、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と言うことができました。つあり主イエス・キリストの十字架に、罪のゆえに死に至るはずの自分の死を、パウロは見ていました。キリストが十字架に付いたことは、もう既に自分が死んで、奈落に落ちるという、自分自身が背負うべき死と、死による罪の清算を意味している。ですからパウロは、もう本当に、自分の死は既に主イエスの十字架によって肩代わりされて、自分の死はその時主イエスによって死なれたと、キリストがその思いで、そのつもりで十字架に架かったと言ってくださいましたので、パウロはそれをその通り信じた。受け入れた。自分の死を丸ごと引き受けてくださった主イエス・キリストに信頼したのです。

そうしたらどうなるのか?もうパウロの死は、主イエスによって死なれましたので、もうパウロの先には死はなく、命しかないのです。肉体的な死は、もう死ではない。パウロが生涯の終わりで経験する死は、死ではなく、この心臓の鼓動の命を超えた、新し命が始まっていく瞬間へと、意味を変えた。

だからパウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言えたのです。私が生きているように見えて、もはや、そうではなく、キリストがわたしの内に、私の命よりももっと強く、今生きておられる。

パウロは、イエス・キリストを信じるということに、死を免れて生きる道を見出しました。信じるとは、相手を信頼して、身を任せることです。20節の後半でパウロは、「わたしが今生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです。」と言いました。十字架で私のために身を捧げてくださった主イエスの愛に、私も身を委ねる。わたしが今生きているのは、実にこんな様子です。ただ私のために十字架で死んでくださった主イエスの愛のおかげで、今の私のすべてはあるのですと。

義とするとは、「それで良し」ということです。パウロが過去に侵した数限りない罪、主イエス・キリストに対する反逆、人を分け隔てて、異邦人を軽蔑し、律法をリトマス試験紙のように使って、人を正しい正しくないという目線で選り分けてきた。過去は変えられるものではありません。しかし主イエスは、パウロのその取り返しのつかない過去の罪もすべて含めて、それで良し。神の御子の十字架によってそれで良し。あなたはそれだけ神に愛されているのだから、それで良しと、言ってくださる。

こんなことを言われて、こんなことをされたら、嬉しくて、生きる力しか湧いてきません。人の目からの自由、過去からの自由、死からの自由、自分のすべてを、神様から、それで良しと言っていただける自由。主イエス・キリストの福音だけから来る、真の自由。

若い日々にも、あるいは年老いて、体中痛くて、もうあとは死を迎えるだけという日が私たちそれぞれに来たとしても、私たちは、もはや生きているのは私ではない。これからもっと、明日からももっと、キリストがわたしの内に生きてくださるのだと、私たちは、私たちのこの口も、自由と喜びをもって、そう言えるのです。