2022年3月16日 エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節 ハイデルベルク信仰問答104 「人間関係と神」
今晩は十戒の第五戒、「あなたの父と母を敬え」という戒めの解説です。しかしこの戒めは、単純に親子関係のこと、さらに子どもが両親を敬うべきだという、局所的、限定的な場面についてだけ言われている戒めではなく、実はすべての人間関係において、相手を敬い大切にし、愛するべきことを語る戒めとして語られています。
そこで、今晩はそれを語るエフェソの信徒への手紙を読みました。エフェソの信徒への手紙は、すべての人間関係の基礎である夫婦関係について5章で語りだし、そのあと、親子関係、奴隷と主人の関係という風に、その原則をすべての人間関係に行き渡らせて語っています。
しかし私は、以前までは、エフェソの信徒への手紙というと、それはとても哲学的かつ深遠な手紙だという印象が強いので、この妻と夫というタイトルがついたこの部分が、そういうエフェソの信徒への手紙の中にあるのは、ちょっと不自然であり、かなり唐突だという気がしていました。とても高尚で深遠な予定論と、そして教会論を語るエフェソの信徒への手紙が、いきなりここで、妻と夫について語り出す。急に話題が、高度に神学的なことから、生活上のことへと一気に変わるという印象をもっていたのですが、しかし、今となっては、この展開は決して唐突なことではなく、パウロは全く筋違いな話題転換しているわけではないということが分かりました。
パウロは、教会について語ることをパタンとストップしてしまって、いきなり別の、妻と夫という違った話題を語り出しているのではなくて、パウロは、この手紙の後半部分に至っても、教会論を語ることを、全くやめていません。読んでいけば分かりますように、パウロは妻と夫という問題と、教会と何かという問題を、実は互い違いに、二つの論題を一色たにして、ここで語っています。つまり、主イェスと教会の関係と、人間関係とは、別々のことではなく、全く一つのことだ、というのがパウロの認識なのです。
そしてパウロは、団子に串を通すようにして、あらゆる人間関係を、主イエス・キリストと教会の関係によって、つまり救いの筋道によって、貫き通して考えているのです。
そもそも、私たちはなぜ、結婚したのか?その動機は何だったのか?結婚をしていなくても、それならそれで、夫とは、妻とは、かくあるべし、女とは、男とは、恋愛とは、これこれこういうものであるという、それぞれの中での定義があると思います。そしてそれに従って、男として、女として、夫として妻として、それぞれに生きているのだと思います。色々な夫婦像、男性観、女性観が巷に溢れていますし、芸能人たちの様子を見ても、本当に離婚が多くて、そういうニュースを聞かない日はないほどですけれども、エフェソの教会の人々も、それは同じだったのだと思います。色々な思いで結婚し、色々な理想をもって、夫婦での生活に、喜びを感じたり、逆にそれで疲れて苦労したり、他人の夫婦と自分の夫婦を比較して、羨ましがったり、優越感に浸ったりして生活していた。
その状況の中で、パウロは、改めて根本から、結婚、夫婦関係、男女の役割、そこにある人間関係の原則はこれなのだということを、示すのです。妻と夫の関係や立場は、親や友達のカップルが教えてくれるものではなく、夫婦ごとにそれぞれが独自に編み出していくようなものでもなく、それはキリストと教会を見れば分かると、それは教会というものの中に現れているとパウロは語り、そこから、妻と夫の関係を、新しく建て直すようにと、勧めています。そして、なぜ妻と夫の関係を建て直す必要があるのかというと、それは、私たちの夫婦を、私たちの家庭を、そして私たちの生活を、救うためです。
秩序がなく、混とんとし、混乱しているカオスの状態とは、救いのない状態です。しかしそこに秩序が与えられることは、救いです。ここでは、単純に言えば、主イエス・キリスト、イコール、夫。教会イコール妻という風に当てはめられて、夫婦関係が主イエスと教会によって秩序付けられていますが、こんなことは、それまでは誰も考えもしなかった、パウロ以前にはなかったことだったのではないかと思います。妻と夫の関係の中に、主イエスと教会が割って入ってくる。そして、そこから夫婦関係を建て上げ直すということは、夫婦関係に主イエスと教会にある、救いの恵みが流れ込んでくるとういことです。
本文に目を向けますと、22節から24節の部分に、妻たちへの呼びかけがあります。22節。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」。主に仕えるように、夫に仕えるなんて嫌だ、そんなことはまっぴらごめんだ、という思いが瞬間的に脳裏をよぎるかもしれません。
では普段、どういう理由と動機で、妻は夫を支えているのでしょうか?優しいから。カッコいいから。稼ぎがいいから。カッコよくも稼ぎが良くもないけれども、家族の維持のために渋々ながら等、色々な理由があると思いますが、パウロは、そこにスパッとメスを入れます。「5:22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」
パウロは、キリスト以外のすべての要素を切って捨てて、妻が夫に仕える動機は、ただあなたを救った主イエス・キリストから来る。だからこれからはこの考え方でやっていきなさいと指示します。教会は、主イエス・キリストなしには生きられません。十字架なしには教会はただの箱に成り下がってしまいます。キリスト無しには教会は死ぬ。それと同じように、妻にとっての夫は、教会にとっての十字架ほど本来的で大切な存在だと。
そして25節以降には、28節まで、妻に対する夫に仕えよという勧めの、二倍の分量が割かれて、夫は妻を愛せ、ということが語られています。25節。「5:25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」
キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、という言葉があります。もちろんこれはキリストの十字架を意味しています。十字架に架かり、痛みと恥を追い、傷付き、最後にはキリストは命を捨て、教会のために御自分のすべてを捨ててくださいました。夫はそのように妻を愛しなさい。
これも、妻が、何をしたか、どういう妻か、ということを全く問いません。妻が自分によく仕えてくれるから、夫もそのお返しに妻を愛してあげるということではありません。キリストが教会を愛し、教会に御自分をお与えになったという事実が、そのキリストの愛への感謝が、妻への愛の動機です。夫は妻を見るより、それにも増してキリストを見るのです。26節27節には、教会での洗礼の実践のが示唆されています。「5:26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、5:27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」
主イエスは、私たちを日々きよめて、シミやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く存在に、御自身の教会を清め、守り、大事にケアして、綺麗に、しわのない美しさで、栄光の輝きで、装ってくださる。
そして夫も、それと全く同じように、妻を愛し、妻を自分の体のように大事にいわたり、妻がますます美しく、綺麗であり続けられるようにケアをしなければならない。その理由として、パウロは、なぜなら主イエスがそうしたからだ、という根拠に加えて、ここでもう一つの根拠を加えています。
それが、28節の後半からの御言葉です。「妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。5:29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。5:30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。5:31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」」
エバは、アダムの体の一部、そのあばら骨から作られました。あばら骨は一番大切な心臓という臓器を保護する骨であり、あばら骨がなかったら、少し転んだりしただけで致命傷になります。妻は、あばら骨という一番男性の心臓に近い、命に近い位置で、夫を守る存在です。そして、同時に夫は、自分の命を守ってくれる何よりも大事な存在として、あばら骨のある懐に妻を迎え入れて、まさに自分の体の一部として、大切にしなければならない。このように、妻と夫が、相手を愛し、相手を大切にすることは、互いが生きていくうえでも決して欠かすことのできない、それは相手にとっても自分にとっても、この上なく良い。
32節に、「この神秘は偉大です。」という言葉があります。それは、ギリシャ語では、メガ・ミステリオンという言葉ですけれども、この文節は、32節のそのあとの言葉、「キリストと教会について」という言葉にかかっています。パウロはここで、キリストと教会についてのことが、言語で言い尽くすのことのできないような、偉大な神秘と言うよりほかない、生命的な愛の関係の中にあるのだと語り、だから、33節で、「5:33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」と語るのです。
この妻と夫という関係は、一番身近な人間関係であり、そしてこれは、あらゆる人間関係の基礎です。このあと6章の1~4節には、第五戒が直接語っている親子関係のことが、さらにそのあとには奴隷と主人という、つまりあらゆる人間関係に話が広がっていきます。にそしてその関係性の軸が古い生き方から、キリストと教会の間にある神秘に基づく新しい生き方にすげ代わる時、6章の19節の御言葉にあるように、そこで、その夫婦関係の中で、その家族の中で、私たちの生活によって、福音の神秘が、大胆に示されることになるのです。
神学校時代のことを思い出しました。あの時には冗談半分で、神学生同士でいろいろなことを話していたのですが、ある時、もしカテキズムを作るとしたら、どの問いから始めて、どんな問答で最後を締めるかということを、冗談めかしながら話したのを思い出いました。カテキズムの始め方についてはいろいろ意見が分かれたのですが、しかし一番最後の答えについては、意見が一致しました。 最後の問いの答えの一番最後の言葉は、「すべては、キリストによってチャラです。」これで行こうと。結局はそうなるよねと、学生同士で笑い合ったのを覚えています。言葉はとても粗雑ですが、結局パウロがここで言いたいことも、そういうことではないかと、すべてはeven accounts、キリストによってすべての帳尻は合うのだから、それですべてを貫けということではないかと思うのです。
もう私たちは、キリストに贖われて、古い生き方を捨てたのだから、夫婦で、親子で、その他の人間関係で、色々あったとしても、それらすべてを良い意味でチャラにできて有り余るほど、恵みを赦しを既にキリストからいただいているのですから、だから、どんなに腑に落ちなくても、納得がいかなくても、それは私たちの理解を越えたキリストの不思議な神秘によって、チャラにしよう。キリストの十字架の救いによってチャラにできないことなど、それによってチャラにできない人間関係など、何もないのだから。
もちろんそれは自然に任せておけば簡単にできるようになることではありません。放っておいたらすぐに、捨てたはずの旧い生き方が頭をもたげてきて、許せない、倍返しすべきだ、このままでいいのかと騒ぎ立てますので、これは6章10節以下にも語られていますように、信仰という武具を用いなければ決して勝つことのできない、私たちの中の悪との激しい戦いです。しかし、同時に、キリストによって、色々あっても、そのすべてを不問に付すにでき、良い意味で神様に委ね任せることができるということは、慰めであり解放であり、理解を越えた、奥義に満ちた力、そして希望です。
福音を学び、語るのみならず、それを生き方で示す。夫婦で、親子で、あらゆる人間関係で、そして何よりも教会で、この福音を生きる。どこまでも広く深く、キリストに固着する生き方によって、福音の神秘を私たちが大胆に示す。福音を知らなかったときのあの古い生き方は、もう私たちは捨てたのです。私たち主を知る者たちにしかできない、新しい突き抜けた生き方で、今日からのちも、改めて、共に生きようと、パウロは、聖書は、第五戒は、私たちを招いています。