2022年3月20日 ガラテヤの信徒への手紙3章1~6章 「私にも起こる奇跡」
今朝の御言葉の語り出しには、およそ聖書らしからぬ言葉が置かれています。3章1節でいきなり、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と言われていますが、例えば英語の聖書を見てみますと、foolishとか、stupidという言葉が使われています。ストレートに翻訳すると、ガラテヤ人たちは馬鹿だ!ということです。私たちは今朝、この手紙を、それが送り付けられたガラテヤ教会の立場に身を置いて読みますので、その受け取り方で読むとするならば、この板宿教会に向けても、この手紙の3章からの、いよいよ手紙が重要な本論に入るという肝心要の語り出しで、今朝パウロは、「ああ、板宿教会の人たちは、馬鹿だ」と私たちに言っている。そういうことです。
なぜ、キリストを信じているキリスト教会が、ガラテヤ教会、そして板宿教会が、そんなに馬鹿呼ばわりされなければならないのでしょうか?そこにはどういう物分かりの悪さがあるのでしょうか?
そこで、今朝の御言葉を見てみると、ここで非難されている物分かりの悪さとは、それは視覚と聴覚に現れ出ている物分かりの悪さだということが見えてきます。改めて1節と2節を見てみます。「3:1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」
1節の後半には、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」という、確かに視覚に訴える、十字架に架かる主イエス・キリストの姿が語られていて、次の2節の最後には、「福音を聞いて信じたからですか」と書かれていて、ここでは、聞くという聴覚が問題とされています。
つまり、折角本物の主イエス・キリストに出会って、キリストの福音と信仰の言葉を聞いているのに、ガラテヤの人たちは、視覚聴覚が馬鹿になっていて、見る目がなく、聞く耳がない、そういう物分かりの悪さがどうしてもあなたにはある。一体どうしてしまったのかと。そしてパウロは、先週の終わりの言葉でも、今朝の4節でも、無駄とか無意味という言葉を繰り返して語りながら、あなたがたの視覚聴覚が馬鹿なままなら、見るべきものを見、聞くべき言葉がそこにあるのに、あなたがたはそれを全く無駄にしてしまうことになると、パウロは大きく頭を抱えています。
そこでパウロは言います。改めて今朝の2節です。「3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」
パウロが一つだけ確かめたいと言っていますので、今朝私たちも、この一つのことを、しっかりと確かめておきたいと思います。その確かめるべきこととは、「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」ということです。霊を受けた、という2節の言葉は、救われた、それによって神様と共に歩むクリスチャンになった、と置き換えて理解してよいと思います。
あなたがたが救われたのは、律法を行ったからですか?それとも、福音を聞いて信じたからですか?どっちなのですか?と。そして、律法を行ったから救われたと考えているのなら、その時あなたがたは、神の恵みを無駄にしてしまっている、キリストの死を無意味にしてしまっている。神様との出会い、そのことによってあなたの人生に起こった奇跡を、無駄にしてしまっていると。パウロはそう訴えます。
私は、この御言葉では、実感というものが重要な問題になっている。私たちそれぞれの中にある、救いの実感というものが問われているなと思いました。あなたに、主イエス・キリスト何をしたのか?あなたの中で、神様との出会いによって何が起こったのか?自分の胸に手を当てて、ちゃんと考えてみて欲しいと、だからこそパウロは、きつい言葉まで使いながら一生懸命ガラテヤの人々の心に訴えているのだと思います。キリストの恵みを無駄にしないで欲しい。あなたがそれを無にして生きるなら、本当に馬鹿としか言いようが無いぞと。
こんなにパウロが無駄にするな、無意味にしてはならないと訴えるのは、逆に考えれば、福音というものは無駄にされやすい。キリストの救いは、無駄になりやすいからだと言えるのではないかと思います。
「タダより怖いものはない」と、時々言われます。一般的にはそれは、最初はタダだけれども、無料を装っておいて、後々には結局高くつくという、「うまい話には裏がある」という意味の言葉かと思います。しかし、それとは別の意味での、「タダより怖いものはない」ということも、あるのかなと思います。
それは例えば、タダでポケットティッシュが配られている場合、私はポケットティッシュをあまり使わないので貰わないのですが、ティッシュを受け取らない時の私の頭の中には、ティッシュは私には必要ないという思いがあるのと同時に、誰に対してもタダで配られているようなものには価値がない、という気持ちもあります。もし板宿商店街で、iPhoneが無料で配られていたら、最初は、これは紐付きの、見せかけの無料配布なだけであって、あとで高額な契約料を払わされるのではないか、ということを疑いますが、しかし紐付きでもなく、本当にただの無料配布で、iPhoneが配られているということでしたら、その場合には、それはおもちゃじゃないかなとか、それこそiPhoneのかたちをした、実はポケットティッシュなのかなと、何万円もの価値あるものがタダであることを信じられず、きっと、必ず、これは安いやつだと、壊れたやつだと、あるいは偽物に違いないと、ついつい私は決めつけてしまうと思います。
神の恵みは無駄にされやすい。なぜならそれは、律法の行いによる救いではないからです。神の恵みは、恵みですから、それは恵みの雨のごとく、天からの恩恵なのであり、無料なのです。しかし、それに対して律法の行いによる救いというのは、いわば有料で買い取る救いです。そして有料の方が、その価値が分かり易いのです。
ガラテヤの信徒たちに、律法の行いによる救いを教えていたパウロの敵対者たちは、具体的には、救われるためには、男性は皆、割礼を受けてユダヤ人のようにならなければならないとしていました。有料でモノを買い取る方が、その時のモノの価値は、値札にしっかりと表われるので、分かり易いのです。割礼という、身体的に激しい痛みを伴う、従って、大きな代償と、しかし目に見える徴と手ごたえと実感とを伴うことを救いの条件にすれば、しっかりと救われたという達成感があって、その価値は分かり易くなります。しかしながらその価値は同時に、支払われた代償に依存しますし、それで得られたものは、支払われたモノと同等の価値しか持ちえません。
しかし福音は、神の恵みであるので、タダなのですけれども、「ははっ、そうなのか!タダだから、0円の価値しかないんだな!」と思って、ポケットティッシュのように、差し出されている福音を見過ごしてしまったら、それがまさに、モノを見る目のない馬鹿なのです。主イエス・キリストの救いは、価値がないからタダなのではなく、どんなお金にも換算できない無限の価値を持っているから、あまりにも価値が高すぎて、そもそも値札がつけられないからこそのタダなのです。その意味では、「タダより怖いものはない」のです。タダだから価値がないのではなくて、その真逆なのが神の恵みの福音ですので、もしこれを見過ごして、見誤ってしまったら、大変怖い結果になってしまいます。
ある時、私の仙台時代に、ある御夫人が突然教会にいらっしゃって、聖書の救いについて尋ねてくださいましたので、行いによらず、恵みにより、信仰によって救われる。過去の罪も全て赦されるという、この話をしました。その後、その方は引っ越しをして隣の仙台教会でクリスチャンになられたのですが、その最初の時には、それではあまりに都合の良い話過ぎて信じられない、聞いていられないと、鼻で笑って帰って行かれました。都合が良過ぎる。その通り。それで結構。それでこそ福音であり、恵みです。
そしてパウロは、改めて2節と同じように、5節でも繰り返して問います。「3:5 あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。」実は、2節の終わりと同じ言葉ですが、この5節後半の「それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。」という言葉には、福音という言葉は実際には使われていません。原文では、ここはもっとシンプルに、「信仰を聞いたからですか」となっています。行いによるのではなく、信仰を聞けば、救いを受けられるのです。信仰を聞くとは、どういうことでしょうか?
パウロはそこで、アブラハムを指差しています。パウロが6節で引用しているのは、今朝お読みしました、旧約聖書の創世記15章に記されている、神様の言葉です。
創世記15章の場面でのアブラハムは、非常に高齢でした。聖書はそのアブラハムの年齢を執拗に強調して語っていますが、聖書がこれをもって何を言いたいかが、年を追う度に、切実に響いてくるようになります。創世記12章では、アブラハムは75歳だったと書かれており、16章では86歳でした。ですので、その間にあるこの15章では少なくとも80歳にはなっていたと思われます。15章の始めで、主なる神の言葉が、アブラハムを「恐れるな」と叱咤激励しますので、およそ80歳のアブラハムは、この時恐れていたのです。
教会には80歳でも元気な方がたくさんおられますが、しかしやはり、当然のこととしてしんどいわけです。決して恐れることなく、これからあなたは、祝福の源となる!出発せよ!新しく踏み出して、どんどんと始めてゆくのだ!と、神様の方は、いつもアブラハムをせっつくのですが、実際には、人間の常識的には、もうアブラハムは、終わりかけています。ヨロヨロ疲れ果てていて、何をするにも精一杯で、彼に特段何ができるというわけでも、もう既にないのです。「もう無理です。できません。」と彼は繰り返しますが、しかしそこで、パウロも引用した15章4節から6節の神様の言葉が、天から降り注ぐようにしてアブラハムに語られました。
「15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
見よ、主の言葉があった。アブラハムは天の星を仰ぎ見て、「あなたの子孫はこのようになる。」との神様の約束の言葉を聞いて、それを信じた。そうしたら、彼は救われた。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
アブラハムは何の行いもしていないし、何もできない。でも主なる神はそれを彼の義と認められた。割礼を行ったから救われたのでもありません。事実、アブラハムが割礼を自らに施したのは、このとき義とされてから、さらにずっと後の、99歳の時のことです。
そしてパウロは、このアブラハムを指差しながら、あなたがたは何を聞いてきたんだ?あなたがたは、聖書からアブラハムの武勇伝を聞いてきたのではなく、この明らかな、アブラハムの信仰を、今まで聞いてきたのではないのか?さらに私たちは、十字架につけられた主イエス・キリストを見たのではなかったか?あの主イエスの姿が、目の前にはっきり示されたではないか?
一人の老人で、心も怯え、恐れ、自分にはできないと挫けていたアブラハムに、神様は、空に満ちる星々を見せて、その星々があなたの子孫なのだという、新しい視野を与え、彼に約束の言葉を聞かせて、その言葉で、アブラハムの内側にあった、恐れや怯えを、ひっくり返してくださり、アブラハムを祝福の源としてくださいました。これは奇跡です。
この奇跡は、タダで空から降ってきます。神様は、この救いに、私たち皆を与らせたいのです。信じるとは、条件によらないこの神様からの善意に、愛に、恵みに、身を委ねることです。パウロは他の手紙で、「目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は、被造物に現れている。」と語りました。この自分自身をも含めて、神様が作られたこの世界とそこに生きる者たちを見れば、作り手である神様が見えます。そして何より、主イエス・キリストこそが、その一挙手一投足をもって、神様を見せてくださいます。私たちは、実は、いつでもどこにでも、もちろん星々にも神様を見ることができる。そういう視力を与えられる奇跡。
そして、食物が体を作るようにして、この心は言葉によって作られますから、信仰は、神を見て、神の言葉を聞くことで生まれます。新しい言葉が入ってくるということは、新しい世界が目の前に開けることです。その聖書の言葉に聞く聴覚が、私たち皆の心を作り変えます。
パウロはこの手紙の結びの5章で、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」と語りました。アブラハムに起こった奇跡は、信仰によって、今、あなたにも起こります。アブラハムは空の星々しか見られなかったのですが、しかし私たちには、人間になって、その姿と言葉を通して、神様の恵みを見せて、聞かせてくださった主イエス・キリストがおられます。今はレント、主イエスの十字架を覚える時です。主イエス・キリストに現れた神の愛を、ただ信じ受け取る時、私たちは神の恵みによって、今、新しい私たちに生まれ変わるのです。