2022年3月27日 ヨハネによる福音書13章1~8節、ガラテヤの信徒への手紙3章7~14節「これが愛です」
今朝の御言葉の出だしは、「だから」という言葉ですので、基本的には先週の内容が継続してここでも語られています。
先週は、神の恵みは正しく恵みであり、タダであり、天からの恵みの雨のようにその恵みは無料で、無条件に与えられるので、神の恵みは、時に無価値と見なされ、見逃されやすいという話をしました。そして、恵みを見過ごしてしまっているガラテヤ教会の人々の物分かりの悪さをパウロは批判していましたが、今朝はそれに続く話として、神様が与えてくださる恵みのインパクトを、より深くお伝えできればと思います。
今朝の御言葉の中心にあるのは、13節の御言葉です。「3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」
ここに、主イエス・キリストが、十字架に架かることを通して私たち一人一人に与えてくださった恵みと愛が表されているのですが、
主イエス・キリストの恵みと愛の大きさを具体的に捉えるために、今朝は実際に福音書で描かれている主イエスの姿に改めて目を留めて考えてみたいと思います。
そこで、今朝皆様と共有したいのは、先程お読みいたしました、ヨハネによる福音書に出て来る主イエスが弟子の足を洗う場面です。
この当時は、ユダヤの砂地を、皆裸足にサンダルで歩いていましたので、家に上がる時には、玄関にある水瓶で足をきれいに洗ってから部屋に入るということが欠かせませんでした。そして、それは、主人の足を洗ってその汚れを取るという、奴隷がやる仕事ということになっていました。
しかし主イエスは、突然席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれて、たらいに水をくんで、御自分を裏切って十字架への直接的なきっかけを作ってしまうユダも含めて、一人一人の弟子たちの足を洗い、洗い終わった足を、腰にまとった手ぬぐいで拭き始める、という行動をとられました。
これは既に食事中でのことですから、弟子たちの足は既に玄関で洗われた後のことで、足は汚れていなかったと思われます。だとしたら改めて足を洗う必要はないのですけれども、主イエスは足を洗われます。それもしっかりと、主イエスはさらにしっかりと足を洗ってくださるのです。ここには、主イエスは上着を脱がれたと書かれていますけれども、この上着という言葉は、複数形になっていますので、この時主イエスは、上着だけでなく、衣を一枚二枚と脱いで、恐らく上半身裸になったのです。その姿は、文字通りの奴隷の姿でした。とても主人と同じようにして、着物を何枚も着てその場に座ってはおれない。着物を脱いで、裸になって、膝下にかがみ込む。さらに、足を洗う時には一番汚れる手ぬぐいを、バケツに雑巾を投げ込むようにして、たらいに放り込んでおくのではなくて、その拭き取った手ぬぐいの汚れを自分の体に引き受けるようにして、主イエスは腰に巻く。主イエスは手のひらで洗った足の汚れを、手ぬぐいでしっかりと拭き取って、その汚れを自分の身にまとうようにして腰に巻くのです。
ガラテヤ書の2章でパウロから非難されたペトロは、実際にこれを主イエスから味わいました。しかし、その時ペトロは思わず、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」「わたしの足など、決して洗わないでください。」と、叫び訴えました。
皆様は、人に背中を流してもらったことがあるでしょうか?親にではなく、親以外の友人や目上の人に。私は、人に肩を揉んでもらうだけでも、ものすごく申し訳ないと思ってしまいますので、そういうことをされるのは本当に苦手です。もし、私が先生と呼んでいる立場の方に、風呂場で背中を流されたら、ましてや足を洗われるようなことをされたら、本当にむず痒くて、恥ずかしくて、ちょっと洗ってもらっただけで、「もう結構です。お願いですから、やめてください。もう十分です!もう無理です!」と、声を上げてしまうと思います。
ペトロもそうでした。アウグスティヌスは、この時のペトロを指して、「彼は、自分の足もとまで身を低くされたキリストを見ようとしない。それに耐えることができないのだ。」と語っています。本当にそうだと思います。ペトロは、この主イエスの愛の深さに、耐えることができなかったのです。そうやって自分の足に触れて、自分の汚い部分に触れてそこを洗われる主イエスに、彼は我慢していることができなかった。
13章1節にありますように、主イエスは弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました。普通の愛ではない、普通の愛し方ではないのです。その愛で主イエスが全力で愛し抜かれる。もちろんこの行為は、単純に足の汚れを取るということを超えています。ペトロの体だけでなく、その心のすべての汚れを主イエスは洗い流して、その身に巻き付けて、その汚れもろとも十字架に貼り付けて、主イエスは御自分の体もろとも消し去ってくださいます。
これが愛であり、これが本当の恵みであるわけですけれども、しかしペトロは、それを受け取ることができず、それを拒んで引いてしまっている。それに自分はどう考えても相応しくないし、それをしてもらう資格はない。そんなことをしてもらっても、代わりに自分は何も返せないので、本当に困ってしまうという思いがあるのだと思います。またペトロは何より、こんな大きな愛を、彼はこれまで味わったことがないので、これは、私たちも同じ状況に身を置いたら同じようになると思うのですけれども、これをされると、むず痒いどころか、気持ち悪くて、生理的に受け付けない。さらにその愛に恐れさえ、怖ささえ抱くのです。
本当に見返りなく、無償で、タダで、こんなことをされたという経験がないので、体が、脊髄反射的に拒絶してしまう。神の愛とその恵みのもつインパクトは、それほど強い。
そして、このヨハネ福音書の執筆者ヨハネが書いたとされている、ヨハネの手紙Ⅰの4章には、「神を知らない者は愛を知らない」という言葉があり、4章10節には、「4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」という言葉があります。本当に、私たちは愛を知らなかった。こんな風に、こんな愛で、愛された経験はなかった。私たちが神様を知る前に、これが愛だと思っていた愛とは、全く別物の愛が、私たちが思わず拒絶してしまうぐらいの違和感を覚えざるを得ないほどの、本当に今まで知らなかった次元の愛が、しかし、神を知った時に、分かる。
罪を償ういけにえとしての主イエス・キリストの十字架を見る時に、足を洗ってくださるどころではない、それよりもはるかに純度と強度の強い愛が、そこには見える。そして何より、これこそが、愛なのです。
そして、もうここまでくると、パウロももう何度も「もう律法による救いではないのだ」と繰り返していますように、もう律法を守るか守らないか、その人がそれによって正しくなるか間違うか、などという救いの条件の話は、ここまできたら全部吹っ飛ぶのです。事柄は、もう律法云々とか、そういうユダヤ人だけに通用する救いの指南書云々とか、日本人で言えば高学歴、有名企業、高収入という、誰もが羨む出世に至るための人生のマニュアルだとか、勝ち馬に乗る出世コースだとか、もうそういう、客観的な物差しがそれぞれの人生の成功不成功という規定してくるというような問題では、もはやありません。これは愛の問題であり、人格的な問題です。この主イエスという方の愛を、私が受け取るか受け取らないか、この肩を私が信じるか信じないかという、一対一の、主イエス・キリストとのがっぷり四つの、目の前で私に手を差し出してくださっている主イエスの、その方の手を握り返すか、その手を握らないか。自分の足元に跪く裸の主イエスの前に、自分の汚れた足を差し出すのか出さないのかという、主イエスの人格と私の人格の間の問題なのです。
今、私たちは奴隷として裸で私たちの足元にひざまずいてくださる主イエスの姿をしっかり心に焼き付けましたので、今の私たちには、説教冒頭の、ガラテヤの信徒への手紙3章13節の御言葉が分かるはずです。
「3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」
主イエスは、私たちの身代わりに、すべての神の怒りと呪いを引き受けてくださって、木にかけられ、つまり十字架に架けられてくださいました。足を洗ってくださるどころではないのです。それを遥かに超えて、主イエスはあなたから、その心のすべての汚れ、つまり罪と、そしてあなたの人生に最後のものとして付着している死を、あなたの代わりに釘で打たれ、墓に葬られることによって、拭い去ってくださった。
アブラハムは満天の星々を神様から見せていただきましたが、パウロはこの手紙を書いて、一生懸命私たちの前に、主イエスの十字架の愛を描いてみせて、アブラハムと同じように、これを見て、信じて、あなたも救われようではないかと言っています。今朝の7節から9節です。「3:7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。3:9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」
何によって生きるのか?もうここまで来たら、四の五の言っている場合ではない。主イエス・キリストが、そこまで私たちを愛して、愛し抜いてくださったのなら、この方の愛と恵みに与って生きる以外に、生きる力が、生きていくための命が、湧いて来ようがない。
主イエスはペトロを、「怯えるな!」と、「深く愛されることに怖気くな!」と、「愛から逃げるな!」と。そして、「自分はこの愛に値しないなどと決して信じるな!あなたは、主イエス・キリストの神の、命を懸けた愛に相応しいあなたなんだということをこそ、信じよ!」と励ましてくださいました。そしてペトロは、愛を、信じて受け取ることへと励まされて、主イエスの愛に対して閉ざしていた心を、開いたのです。
パウロは、ガラテヤ書の3章14節の言葉で、この部分を一端締めくくっています。「3:14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」
板宿教会の、ここ数年来の変わらないスローガンは、「祝福の源になる」です。しかしこれは実に、この板宿教会だけのスローガンでは全くなく、「祝福の源になる」という言葉は、アブラハムにだけ語られたのでも、板宿教会にだけ期待されていることでも全くなく、主イエス・キリストの十字架の愛を受けて、そこに表された神の愛への「信仰によって生きる人々」全員に与えられているスローガンでもあるのです。
神様の愛は大きすぎて、私を満たすだけでは止まらない。私を満たし、私たちを満たし、私たちの間から大きく溢れ出て、さらに拡がっていく。コリントの信徒への手紙Ⅰの13章でパウロが語った「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」という言葉は正に真実です。世界には争いがあり、社会には社会悪があり、そしてこの自分自身にはその元凶を作り出している罪の根っこがあるのですけれども、この言葉は、たとえ私が滅び、社会が滅び、この世界が滅び去ったとしても、そこにある争いや悪や罪よりも、ずっと強い力で永遠に最後まで残るものは、信仰・希望・愛であり、愛なのです。
今のこの時代に、この時に、私たちはそれぞれに、何をしたらよいのか、どうこの世界とこの社会を生きていけばいいのか、具体的にどういう行動を取ればいいのか、実に状況は多様で複雑で、すぐにこれだとは分からないのですけれども、しかし少なくとも今朝私たちは、最後の結論として、何が大事か、何によって生きるべきなのかについては、御言葉からしっかり聞きました。
最後には、この愛が残る。最も偉大なもの、それゆえ追い求めるべき最初でありかつ、最後のものは愛である。この主イエス・キリストからほとばしり出ている愛を信じて、本当に、信仰によって生きる。明日からも、そうやって生きていきましょう。