202243日 ガラテヤの信徒への手紙31520節 「やると言ったらやる」

 今朝のテーマは、約束です。

 明日何が起こるのか、今日の私たちには分かりません。ある本に、「人生というのは、ちょうど後ろ向きに歩いてゆくようなものだ。」と書いてありました。私たちが分かるのは、もう過ぎた過去の事だけで、自分の通ってきた道がどんな道だったのかについては、私達は知ることが出来ます。しかしこれから先に起こることは、見ようと思っても見えません。

 そこで、約束、というものの価値と必要が生じます。そして、私たち、後ろ向きに歩いている人間同士が交わす約束や、人間の算段によってはじき出される予想には、当然限界があり、それは不確かですが、そうでない、確かな未来をもたらす約束も存在します。それは、世界の始めから終わりまでを股にかけて、見通し見抜いておられる、神様から来る約束です。神様は、神様ですから、本当に、「やると言ったらやる」神様が「成ると言ったら成る」のです。

 今朝は、この神様の約束の確かさと、約束を信じて生きることの希望を、御一緒に分かち合いたいと思います。

 

 今朝の御言葉は、冒頭の15節に、分かり易く説明しましょうと言って始められていますが、それを期待して読んでいっても、さほど分かり易くは説明されていないと思いますので、さらに分かり易いように、説明し直したいと思います。

 

 パウロはこのガラテヤの信徒への手紙で、ずっと律法の実行による救いに対して、福音を信じることによる救いこそが真実であると訴えていますが、ここでは律法と神様の約束を見比べて、神様の約束こそが、律法を上回っているということを、パウロはこの聖書を片手に、歴史的に伝えています。

 イメージとしては、陸上競技の100m走を思い浮かべていただくと分かり易いと思います。100m走のスタート地点には、旧約聖書、創世記12章のアブラハムがいます。そして、そのゴール地点には、主イエス・キリストがおられるというイメージを考えてみてください。そして、約束の歴史が、アブラハムからスタートします。

 創世記12章で、「あなたは祝福の源になる」と、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」との約束を神様から頂いたアブラハムから、その息子イサクへ、イサクからヤコブへと、約束が引き継がれ、祝福が広がっていきます。そしてヤコブから生まれたイスラエル12部族の源となる12人の息子を通して、その祝福は、倍の倍の倍という風に、指数関数的に増え広がっていきます。具体的には、ヨセフが11人の兄弟たちをエジプトに呼び寄せてから、430年間の間に、エジプトに留まっていたユダヤ人たちは、その期間の歴史の中で奴隷の身分になってしまったものの、エジプト人たちを脅かすほどに人口が増加しました。そしてヨセフから430年後に、ユダヤ人の中からあのモーセが出現して、何百万もの民として増え広がったユダヤ人たちを率いて、出エジプトという、エジプトからのユダヤ民族の大脱出を導くのです。そして、ガラテヤ書でパウロがずっと問題としている律法とは、その出エジプトの時に、民の代表者モーセに対して与えられたものでした。

 そこでパウロは問います。今朝のガラテヤの信徒への手紙317節です。3:17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。」

 パウロがここで語っていることは、まさかアブラハムの曾孫のヨセフの時代の430年後に与えられた律法が、アブラハムから始まった神様の大きな約束を無効にしてしまうようなことはないですよね。アブラハムから、神様の約束通りに順調にぐんぐんと進んで走り出していた神様の約束と祝福の100m走の途中で、突然高いハードルをコースの真ん中において、祝福の約束が進むのを妨げる、などということを、神様が自らされるはずはありませんよね。これは100m走として始まったことなので、それがレース途中で、突然ハードル競技に変更されるなどということは、絶対に起こりえませんね、ということです。

 

 では、律法が約束を妨げるものでないとしたら、じゃあそれは、何のために与えられたものなのでしょうか?パウロは19節から23節までの言葉で、それに答えています。そこでまず、19節から20節までをお読みします。3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。3:20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。」

 19節に、「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの」とあります。約束を与えられたあの子孫とは、主イエス・キリストのことです。そして律法は、その主イエス・キリストに人を導くために、仲介者の手を通して制定されたもの。仲介者とは、430年後に出エジプトを導いたモーセのことです。モーセを通して与えられた十戒ですね。あれは何かというと、約束の通せんぼでもハードルでももちろんなくて、律法とは、は約束と祝福が星々の数ほどのアブラハムの子孫たちを通して力強く前進していく、それを助けるための、追い風であり、推進力であり、道しるべなのです。

 パウロはさらに2122節で語ります。3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」

 十戒は、人が神様に従って生きるべき道を示します。言わばそれは真っ直ぐな定規のように御心を示しますので、自分の心にそれを当てると、この心が真っ直ぐではなく、湾曲していることに気付かされます。それが罪です。そして罪が明らかになる時に何が起こるか?救いが明確になる。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという、その一点だけが罪の赦しへと至る目標になる。22節の終わりでパウロも語っていますように、律法による罪の指摘が、イエス・キリストへの信仰に人々を導き、駆り立てて、それによって、地上のすべての氏族を祝福に入れるという神の約束が、アブラハムへの神様の約束が、さらに力強く前進していくのです。

 本当に見事な、一本の真っ直ぐな筋の通った聖書理解です。この見取り図が見えていれば、福音だけでは、恵みだけでは、祝福だけでは足りない。律法の実行による救いもそこに入れ込もう、付け足そう、という考えが出て来る理由がないのです。

 この約束が、律法を動力にしながら、律法よりも大きく強く、一本の筋のように聖書と、そしてこの世界の歴史を貫いている。そしてこの神様の約束は、アブラハムの末裔であるユダヤ人主イエス・キリストを経由して、さらに大きく、アブラハムへの言葉通りに、すべての氏族に広がって、今もまだ、どんどんと増え広がっているのです。

 

 約束を私たちに与え、それをもって私たちの将来の姿を示し、闇の未来ではなく、明るい祝福の未来を照らし出してくださるこの神様がいらっしゃるが故にこそ、私たちは明日へと向かうことができるのです。

 

 神様は、空疎な、既に終わってしまった、未来のない言葉を語られることはなさいません。聖書のすべての御言葉は、過去を語る言葉であっても、それはいつも新しく私たちに響き届く、約束の未来を指し示し、切り開き、それを創造する言葉です。

 私たちは今朝、イザヤ書35章の約束の言葉にも、耳を傾けたいと思います。イザヤ書353節から10節です。

35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。35:7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。35:8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。35:9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み35:10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。」

8節の大路という言葉は、英語の聖書で見ると、High Wayと訳されています。神の約束の高速道路、高い道。そこを、解き放たれた人々が進むのです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌う。」なんでそんなことが言えるのか、なぜならその時には、「荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れ、熱した砂地は湖となり、渇いた地は水の沸くところとなるからだ。」つまり、死んだところに、新しい命が芽生える。終わったところに、新しい始まりが芽生えるからだ。

 神様のこの約束の言葉を聞くまでは、そんな高い道は、思い描けなかった。後ろ向きに進む私たちのこの世界と社会の行く末には、今、希望があるというよりも、不安しかない。そんな思いでいる人々がほとんどです。闇の中を歩む民の終点は、闇であり、死だった。そういう、下に降っていく一本の暗い道しか見えず、描けない。悲観的であることが、鋭く現実的だねと賞賛されるこの世界です。けれどもそこに、一本の新しいハイウェイが開通した。そしてその道を降って、神様があなたたちを救いに来られた。そして今度は、救われた者たちが、主イエスの後に続いて、死に向かって下っていく道から、新しいハイウェイに乗り換えて、死から、新しい命に向かって昇っていく。その道の先には、最後の10節にありますように、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」という約束があります。

 

 約束があるということは、希望があるということであり、私たちが今朝も約束を与えられ、聖書を通して神様の約束を、この耳に聞かされているということは、私たちが、特別に神様からの愛と思いを受けているということ。特別に選ばれているということをも意味します。なぜ、なぜこのような私が選ばれたのか、それは、私がまず愛と祝福をしっかりと受け取り、そしてさらに、その約束の祝福を、次の担い手に語り広めて、祝福の源になっていくためです。

 祝福は、この教会という場所から、御言葉の約束という泉から湧き上がります。そして、私たちが今行っているこの礼拝こそが、何よりの、他にはない祝福と罪の赦しと、永遠の命の泉の湧き出し口です。この礼拝堂の扉から、新しいそれぞれの一週間へと始まり、拡がり、伸びていく、約束の大路の、その新しい一歩を、ここから踏み出していきましょう。