2022年4月10日 ヨハネによる福音書19章25~30節 「成就」
「成就」、これは重くどっしりとした言葉です。主イエスは、十字架に架かられた時、息を引き取られる前の最後の言葉で、この十字架に架かるまでは語られたことのなかった言葉を、初めて、しかし、聖書に書き記され、後代の私たちが受け取ることのできるように、「成し遂げられた」と、はっきりとした言葉で語られました。
死ぬ前の最後の言葉で、「成し遂げられた」「成就した」と言える人生。何か羨ましく感じられますし、すごいなあと思います。自分はどういう言葉で、人生の最後を締めくくるのだろうかと考えます。これから皆にやって来る人生最後の瞬間、あるいは覚悟を決めて手術台に上る。そういう時もやって来るのだと思います。「怖い、痛いのはいやだ、助けて、まだやり残したことがある。ここで死ぬには悔いが大きい。だからここでは死にたくない」と、言うかもしれません。その時のことは、分かりませんけれども、しっかりと落ち着いていられる自信があるわけではありません。もしそこで、「成就した」「成し遂げた」と言うことができたとしたら、それはすごいことです。
しかし主イエスはそこで、そう言われたわけです。けれども、主イエスが語られた「成就」とは、私たちが考える成就とは大分違うと思います。
普通私たちが、人生の最後に「成就」と言うのだとすれば、その時には、自分の人生を見て、自分自身の人生に対する言葉として、「成就」あるいは「成し遂げた」と言うのだと思います。けれども、主イエスが見ておられたのは、主イエスご自身の人生とその命ではありませんでした。
主イエスは、その地上の生涯最後の「成し遂げられた」という言葉の一つ前に、「渇く」と言われました。先程お読みいたしました詩編22編の16節に、「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」という御言葉がありましたけれども、その詩編の御言葉が、文字通りこの時の主イエスの身に成就したので、「渇く」と言われたのです。
なぜか?主イエスが、極限まで自分の中から注ぎ出して、注ぎ切って、枯れ果てたからです。何を注いだのか?もちろん、その命をです。主イエスは、汗も血も、御自身の中にある全ての水分を出し切られて、すべて注ぎ切られました。
痛いどころではありません。詩編22編はそれを、15節で、「私は水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける」と表現しています。体中が激しく痛むことです。息が吸えないぐらいに、喉が張り付いて、吸い込みたくても肺に空気が入ってこない苦しさです。怖いことです。
マタイによる福音書がそれを記しますが、主イエスは十字架の上で、他にも、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、「わが神、わが神、なぜたわしをお見捨てになったのですか」と、詩編22編の冒頭の言葉を叫ばれました。身体的な痛みだけではない、神から見捨てられる痛み、孤独。神がいて、自分を守ってくれるはずなのに、まさかのその神に、神の御子が見捨てられるという、考えられない、神の御子主イエスからすれば、全身に戦慄がほとばしるような、心をザバっと真っ二つに切り付けられるような痛みです。恐ろしさと孤独の極みで、心も体もズタズタに引き裂かれて、少し気を緩めればすぐに心臓が止まってしまう、そういう主イエス・キリストがここにおられます。
しかしその主イエスが、その状態で「成し遂げられた」と言われました。一体、何が成し遂げられたのでしょうか?どんな成就がここにあるのでしょうか?
この成就は、テレビ画面の中で、人生の成就者とでも言うべき成功者が、その成功によって建て上げられた、自分の豪華な邸宅を、リポーターに自宅公開し、案内して、数々のお宝で見る者を驚かせるというような、今のこの自分とは別世界のところにある、自分とは何の関係もない「成就」ではありません。
この「成就」は、今ここに居て、皆で一緒に主イエス・キリストの十字架の前に立っている、この今の私たちのための、「成就」です。そしてここには、自分が成就を掴んで、自分が成し遂げた成就を支えとしながら、満足し、胸を張って生きる生き方とは違う生き方が描かれています。
ここには、自分で何かを成し遂げるということとは別の生き方、自分が成し遂げた成就に測られるのではない生き方が、開かれています。それは、自分のために成し遂げられたものを受け取って生きる、自分の成就ではなく、人の成就に支えられて生きる生き方です。
十字架を見る時、そこには、私たちが普段「成就」と呼ぶようなものは何もありません。何の成果もないどころか、むしろそこには敗北があり、恥があり、渇きがあり、苦痛があり、死があります。十字架で頭を垂れて、息を引き取られた主イエスがそこにおられ、しかし主イエスはこれを、あなたのために、成し遂げたのです。
つまり、主イエスは、あなたのために、あなたの死を死んだのです。主イエスはあなたの人生を、成就したのです。血を流すことで、神に見捨てられることで、あなたがもう、怯えながら。「悔しい、死にたくない」と思いながら、あるいは、最後、「見捨てられた」と言いながら死んでいくことがないように、主イエスは、先にそういう死に方で、あなたのために死んでくださったのです。
だからもうみじめな死はない。この先どうなるのだろう、死ぬとき私は大丈夫なのだろうかと、不安に駆られながら、その時を想像して一人寂しい夜を過ごす、そういう日々は、もう、完全に終わったのです。神様から見捨てられる人生は完全に終わりました。渇きに喘ぐ見通しは、恐れは、全て無くなりました。避雷針のように、主イエスは、私たちが味わうすべての痛みと苦痛をその身に帯びて、シーソーゲームのように、御自分が引き下げられて死とその奥底にある闇を味わい尽くされたがゆえに、私たちは逆に上に跳ね上げてくださいますので、私たちは、この主イエスの十字架の力によって、もう下に落ちることはありません。成就した、成し遂げられたとは、もう全部済んだということです。私たちの救いは、主イエス・キリストが架かってくださった十字架で、成就を迎えました。
私たちは、主イエス・キリストの十字架から、いくらでも、無限に、たとえ自分がどんな死に方をしても、最後にどんな言葉を口走っても、決して神様から捨てられることはないという保証を得ることができます。肉体的に、また精神的にももうダメかと思うほどの痛みを経験することが、この先あると思いますけれども、しかしそれがついに来たとしても、隣を見れば、それより大きな痛みを、十字架の上で私のために耐えてくださった主イエスが付いていてくださっています。私たちは決してそこで見捨てられたり、一人ボッチにされることはありません。本当に自分の痛み苦しみを理解して共に歩んでくれる人が、もし一人でも傍らに居てくれるなら、私たちはやっていけます。ましてやそれが、神の御子主イエス・キリストであるなら、私たちは、大丈夫です。
さて、今朝は最後に、この十字架から来る、もう一つのことを、分かち合いたいと思います。来月のゴールデンウイークに全国の青年たちを集めて行う修養会で、私は講師となっており、何を話すべきかと考えていますが、二年ぶりに集まって行うその修養会のテーマは、「集って僕らは何をする?」です。集って私たちは何をするのでしょうか?私たちが今教会に集まっていることの意味は何なのでしょうか?
今朝は、「成し遂げられた」という言葉の前にも、主イエスが十字架の上で語られた言葉があり、それを含めて聖書朗読をいたしました。ヨハネ19章の26節27節の御言葉ですが、そこで主イエスは、十字架の上から、二人の人物に話しかけてくださいました。。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』」
これは一体何のやり取りなのかと、不思議思うような御言葉です。十字架の上で血を流して痛みに耐える主イエスの言葉としては、緊迫感を欠いているような、そこからは痛みを感じない、何か牧歌的な言葉に聞こえます。
詳しい説明は省略しますが、主イエスはここで、血縁を超えた家族を、十字架の上から作り出されました。主イエスは、御自分の母マリアに、愛する弟子のことを、あなたの息子だと言い、弟子に、これがあなたの母ですと言われました。
主イエスには下に兄弟たちがいますので、実際には、御自分が天に召されるにあたって、自分の母マリアの身柄を、その愛する弟子に託す必要はなく、主イエス亡き後も母マリアの世話をする人は何人も居たはずですが、しかし、十字架の上からの主イエスの言葉によって、血のつながりのない主イエスの母マリアと、そこにいた愛弟子との間に、新しい母子関係が成立しました。家族関係、親子関係ほど深い人間関係は他にありません。配偶者とは別れられますし、結婚しないことも可能ですが、親なしに生まれてくることは不可能です。しかしその、これ以上ない深い絆が、主イエスの十字架から、新しく生み出されたのです。
私たちも同じように、血縁を超えて、キリスト教会では、お互いを兄弟姉妹と呼びます。これは、家族同士の呼び名です。主イエスの十字架のもとに集う一人一人は、血縁関係を超えた、もっと強い絆で結ばれる、家族になるのです。赤の他人が家族になる。これは大変なことです。そして、 何のために集まるのか、ここが実家だからです。家だからです。私たちは家族で、教会には私の母が、私の兄弟が、私の娘が、息子がいるからです。
主イエス・キリストの、凄まじい苦しみの十字架、しかしその十字架からもたらされたのは、赤の他人を家族にするという、目には見えないけれども、暖かく、柔らかであるけれども、同時に強靭な、結び合いでした。主イエスの十字架の死は、弱さの極みです。しかし、何か新しいものが本当に生み出され、新しい変化が起こるのは、その弱さの中からなのです。
今日お配りした月報にも書きました先日の中高生修養会で、今最も世界に必要とされているのは、平和を作り出す人だ、という話をしました。もっとも作るのが難しく、しかし最もそれが必要とされているもの、人が作るものの中で、最もクリエイティブで、人間こそがそれを作り出すことのできる、真に創造的なもの、それが平和です。
そして平和がもたらされるのは、互いに強さを主張し合う時ではなく、互いの弱さに触れ、弱さを認め、互いが正直で、思いやりに溢れるようになれる時、つまり、赤の他人が自分の家族になる時に、悪いところも認め合って赦し合える、究極の仲間が生まれるのです。十字架のその弱さの極みが、痛いほどの、血を流して愛する愛の極みが、関係のない他人同士をさえ、和らがせ、結び付け、平和な家族にしてしまうのです。
主イエスは、十字架の下に新しく生まれたその家族を見て、「成し遂げられた」、「これで成就した」と、足りないところは何もないと、言われました。
本当にその言葉通り、今朝のこの受難週の日曜日に、血縁を超えたこの家族が、今ここに、そしてオンラインによって、集まっています。これをしてくださったのは、この私たちが今あるのは、私たちの主イエス・キリストの十字架での成就のお陰です。感謝をもって、神様を賛美いたします。