2022417日 ペトロの手紙一139節 「希望は神にかかっている」

 イースターに死から蘇られた、主イエス・キリストに感謝し、心から賛美いたします。

 今朝のテーマは、希望です。皆様、希望を持っていますか?希望は、人が生きていくうえでとても大事な言葉であり概念だと思いますけれども、実際、私たちそれぞれの日々の生活の中で、希望は、現実的な力を持つものとなっているでしょうか?希望とは何でしょうか?何が希望でしょうか?では、希望の反対は、何でしょうか?絶望、落胆、挫折、諦めでしょうか?これらが希望の反対にあるものだとしたら、それらと希望とは、実際どちらが強く、どちらが優勢でしょうか?

 

 儚い希望、と時々言ったりします。希望が儚く潰えたと。そして、往々にしてその時には、目に見えない将来に設定されていた希望が、目の前に起こる現実の厳しさによって、実現不可能なものとして挫かれる、ということが起こるのではないかと思います。

 実際、私たちが考える希望は、現実の持つ力よりも弱く、儚く、とても挫かれやすいものなのではないか?と思います。私たちは、肌感覚として、何か、希望が実現することよりも、もっとそれが挫かれて、挫折したり諦めたりする経験の方を多く味わっている気がします。思えば2年前のイースターからオンライン礼拝が始まりました。その間にコロナウィルスが何重にも流行して、次は第七波でしょうか?収束という言葉が遠くに霞んでしまっています。コロナウィルスによって、特にこの2年間、私たちは挫折と諦めに慣れっこになってしまいました。今私たちの記憶に残っているものは、それは喜びに満ちた希望の記憶よりも、絶望の悔しさ、厳しさの方なのではないかと思うのです。

 しかし聖書には、「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」と語られています。絶望や後悔が最後まで残り続けるのではありません。希望の方が、それらよりももっと強く、そちらの方が、いつまでも、最後まで残るのです。

 ですから、もしこの強いはずの希望が、絶望よりも、挫折よりも、諦めよりも、弱くなってしまっているのだとしたら、絶望に負けない強い希望に、希望を、鍛え上げなくてはなりません。

 どうやったら希望は、強い希望になるのでしょうか?毎日毎朝、「気合いだ!気合いだ!」ならぬ、「希望だ!希望だ!」と叫び続ければ良いのでしょうか?希望と書いた紙を、家じゅうの壁にペタペタ貼っていけば、強い希望になるのでしょうか?すぐに消えてしまいそうになる希望の火種を消さないように、自分の手でいつも一生懸命に守って、精一杯、その火種を煽り立たせていかなければならないのでしょうか?

 

 永遠に強く残り続ける希望は、こうやって得るのだと語ります。希望を、主イエス・キリストの復活に根差した希望にする、ということが必要です。それがペトロの手紙一13節で言われています。1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」とあります。

 永遠に錆びない希望は、それが主イエス・キリストの復活に根差す希望となった時に、初めて生まれます。ギリシャ語原文では、3節は、「イエス・キリストの父なる神が、イエス・キリストの死からの復活によって、命の希望へと私たちを生まれ変わらせた」という言葉になっています。

 永遠なる、命の希望へと私たちを生まれ変わらせるのは、「希望を捨ててはいけない。希望を失ってなるものか」という、私たちの決意や頑張りではなくて、それとは別の、主イエス・キリストの頑張りであり、死からの復活、イエス・キリストの蘇りだ、ということなのです。

 

 私たち人間は、永遠に消えない希望を持ち続けることなどできません。暗く厳しい現実の力がとても強いです。先週の兵庫県の感染者数は、何日も続けて2000人代で、減っていきません。疲れます。希望がそこからメラメラ燃えあがるという要素は、そこにはありません。「やっぱりもうダメだ、ずっとこのままだ、実際無理じゃないか」という方向に、私たちは放っておくとどうしても進んでしまいますし、極論するならば、最後には、どうしても死があって、私たちはそこで死んでしまいますので、どんなに強く希望を持っていても、そこに向けてどんなに頑張っても、死が訪れたら、時間切れで、そこまでです。

 今から2000年前の受難週の金曜日に、主イエス・キリストが十字架に架かられて、死んでしまわれました。その前の晩の、最後の晩餐の時までは従っていた弟子たちも、主イエスが最後まで十字架を跳ね返すことなく、そこに架かったまま死なれて、墓に葬られてしまいましたので、皆、さすがにこれは無理だなとなって、アジトに逃げ隠れてしまいました。弟子たちは、死なれた主イエスに挫折したのです。主イエスに、ユダヤの新しい王として君臨してくださればと、もっと大きなことをやってくださるはずだと、思っていたけれども、そうはいかなかった。やっぱり無理だった。希望は潰えた。そして、もう誰も、何も期待していなかったし、たとえ主イエスでも、死んでしまった相手に対して、これ以上期待のしようがなかった。だから弟子たちは、逃げ隠れる他にありませんでした。

 

 けれども、その絶望からたった三日目に、主イエス・キリストは復活なさいました。死から、蘇った。誰も想像しえなかった。誰にも理解できず、考えられないことが起こりました。

 ある奥田知志先生は、希望について、こう語っています。「希望は、私たちがそれを認めた日、つまり『ああ、希望がある』と思えた日に存在するのではなく、私たちの認識、行動、実績、心構え、そして信仰とは関係なく存在するのです。ですから、希望は自分の中から出て来るものではありません。自分の外から差し込む光のように希望は宿ります。希望は一方的であり、自律的です。復活の出来事において示された希望はそういうものだったのです。」

 

 死という絶望の最たるものに打ち勝つ、強靭に鍛え上げられた、決して燃え尽きない、永遠に燃え続ける希望が、復活にはあります。そしてそれは、私たちが考え生み出すような希望ではなく、私たちが希望として想定し、考えていたような希望とも違います。

マルコによる福音書の一番最後の言葉を思い起こします。マルコによる福音書は、主イエスの遺体に香料を塗りに、墓に向かった女性たちが、空っぽの墓を見て驚いているシーンをもって、奇妙な形で終わるのですが、16章の最後の言葉がこうなっています。「16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

復活の、思いもよらなさ、想像だにしないその破天荒さに、主イエスの母マリアも含めて、女性たちが震えあがって、怖くて、歯をガタガタさせて言葉を失っている。そこでマルコによる福音書はプツッと終わる。復活は、私たちが考え、夢見心地に楽しみにするような、そんなやわなものではなく、私たちに驚きをもたらすあらゆる天変地異にも勝る衝撃で、私たちの思いを裏切り、あれだけ難攻不落で不動のものであった死を、木端微塵に打ち砕いたのです。

受難週だった先週は、主イエスの十字架で、私たちの死が死なれたと語りましたが、宗教改革者のルターは、さらに進んでこう言いました。「わたしは死んだ。どこでか。あのゴルゴダの十字架において。そして当然、わたしはそこで蘇った。」主イエスは私の死を先回りして十字架で死んで、わたしの蘇りも先回りして、復活された。だから、私たちの希望は、そこに根差している。

ペトロの手紙一の、121節に、こう語られています。1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」

 

実は、ペトロがこの手紙を書いた時、12弟子の筆頭ペトロ自信と、またペトロに率いられていた初期のキリスト教会は、信仰ゆえに、社会から排斥され、命さえも奪われるというほどの、激しい迫害をローマ帝国の当局から受けていました。彼らは地下に造られていた墓地に隠れて、そこで、正しく地下教会というかたちで、死の匂いの充満する地下の墓に隠れ籠って礼拝をしていました。

しかし、そのペトロがこの手紙で書いているのは、生き生きとした希望であり、復活です。喜びに満ち溢れる、心から喜ぶという言葉がここには繰り返して語られ、5節にありますように、迫害を受け、攻めと恥を受けて殺されるという大きな試練のことを、ペトロは、それを、「今しばらくの間」なのだと記しています。つまり、この試練も少しで終わるし、むしろ、かえってこの試練によって、教会の信仰は強められ、主を信じ従う者たちは、キリストの十字架と復活に益々強く結び付けられ、素晴らしい喜びに、消えない希望に、満ち溢れるに違いないとペトロは言い切っています。今のウクライナにあるような戦争状態、あるいはチベットや、アメリカや、あるいはこの日本の中にもあるような差別が、当時もそこにあったと思うのですが、その深刻な現実よりも、キリストの復活に基づく希望と、そこから来る喜びの方がずっと大きいのだと、ペトロは、決して現実に押しつぶされてしまわない強度で、希望を保持しているのです。

 

ペトロは、目の前の現実的な色々な問題に当然悩まされながらも、しかし十字架と復活を、それよりももっと、大きなスケールで考えていました。私たちも、自分自身の事、家族の健康の事、仕事の事、これから先の将来の事、楽しみにできる人生を支える希望について、考えれば考えるほど、不安になってきたり、希望が見えにくくなってしまいがちです。しかし、ワイド画面で見るように、ぐっと引いて、ペトロのように、主イエス・キリストの十字架と復活ということをしっかり視野に納めたいのです。考えてみれば、「世の中にたくさんのすごいことがある中でも、これ以上すごいものは他に見つけられない」と言える主イエス・キリストの死者の中からの復活が、世界史に他の例を見ない史上初の出来事として為され、しかもその復活が、私もそれに与れるものとして、決して崩れない希望として与えられるならば、細かなこと絶望・挫折は、このキリストの大きく強靭な復活の希望で塗りつぶされて、絶望が希望によって、飲み込まれていくのです。

 

この手紙はまた、迫害の時代にありながらも、その中で新しく洗礼を受けた、新しい信仰者のためにと書かれた手紙です。ですからこれは、特に今朝、信仰告白をされた3人への、聖書からの語り掛けでもあります。

 信仰告白をされた3人は、今朝、主イエス・キリストの十字架と復活の救いに、信仰によって、しっかりと結び付けられて、新しく生まれ変わりました。この主イエス・キリストに、決して消えず朽ちない、希望があります。ですから、3人の姉妹も、私たち皆も、希望なき者のようには、生きない。色々な困難、試練も、この希望の前にそれは、一時的なものでしかありません。強く、主イエス・キリストの復活に支えられて逞しく、神の希望の中を歩んで行きましょう。