2022年4月24日 ダニエル書3章1~30節、4章25~34節 「神の愛はここにまで届く」
先日、受難節の折に、主イエスの洗足の御言葉をお読みして、「これが愛です」という、それに出会う私たちが違和感を感じ、うまく受け取ることができず、受け取るどころかむしろそれを拒絶してしまうぐらいの、主イエスの次元を超えた深い愛を私たちは知りました。
今朝は旧約聖書を読みましたけれども、旧約聖書に描かれる父なる神も、その主イエスに全く引け取らない、むしろそれ以上の、桁違いの私たちの想像を超えた、大きく広い愛をお持ちの神です。今朝も、御一緒にその神の愛の大きさに、御一緒に目を見張りたいと思います。
今朝お読みさせていただいた御言葉は、子どもへのお話しなどでもよく取りあげられる有名な御言葉です。
ことのきっかけは、ネブカドネツァル王の出した法律でした。王は、幅2.7メートル、 そして高さが27メートルもの、巨大な金の像を立てて、その像を拝むようにと、諸国、諸族、諸言語の人々に命じ、それに従わない者は燃え盛る炉に投げ込んで焼き殺されなければならない、という恐ろしい決まりを作りました。
ネブカドネツァル王は、世界史で見るならば、神聖ローマ帝国を支配したアレクサンダー大王や、チンギスハンや、ナポレオンなどと匹敵する、巨大な帝国の支配権をその手に握った、至上稀に見る歴史の覇者でした。そして彼は、最強の王として、偶像を作ってそれを人々に拝ませ、人間でありながら神に挑戦し、神の王座さえも奪い取るという極限の高みにまで達することを欲しました。まさに現人神でした。
しかし、ネブカドネツァル王のバビロニア帝国に奴隷として拉致され、しかしながらユダヤ人としての主なる神への信仰を捨てずに歩んでいたシャドラク、メシャク、アベドネゴは、十戒の偶像礼拝への禁止の戒めを破るぐらいなら、むしろ死を選んででもそれに従うという強い姿勢を取りました。それによって彼らは王の激怒を買い、いつもの七倍の熱さで燃やした高炉に、体を縛り上げられて、投げ込まれました。
しかし、そのあと、ネブカドネツァル王は、驚くべき光景を見ました。その様子を、ネブカドネツァルが自ら語っています。25節です。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベドネゴの三人に加えて、神の子のような四人目の姿を、炎の中に見たのです。そして、彼ら四人は、炎の中を自由に歩いていて、彼らは、火の中にあっても、何の害も受けませんでした。ネブカドネツァル王が「いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」と呼びかけ、炎の中から出てきた彼らは、3章27節には、「火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着ももとのままで、火のにおいすらなかった。」と語られています。
この時、シャドラク、メシャク、アベドネゴの側に付いていた、四人目の神の子のような姿をした人物を、キリスト教会は伝統的に、これは主イエス・キリストの、旧約聖書での現れだと解釈してきました。
そしてこの情景の中に、主イエス・キリストが、私たちに何をしてくださる方なのかということが雄弁に語られています。神はこの世界を、そしてそこに生きるこの私たちを愛するゆえに、御自分のひとりの神の御子を、火の中に送ってくださる。そしてそれは、火の中に投げ込まれる私たちと共にいて、私たちに炎が燃え移るのを免れさせてくださるためです。
主イエスは、火を消す方ではなく、一緒に火の中に入ってくださる方です。そして、火を消して、そこからシャドラク、メシャクらを免れさせるのではなく、火の中にいても、火が燃え移らないように、守ってくださる方です。私たちは炎を回避するのではなくて、主イエスと共に、炎の只中を通らせていただいて、その火のような試練を、潜り抜けさせていただく。主イエスが一緒に居てくださるなら、火のような試練があっても、しかし何の焦げ付きも害もなく、そこから救われる。主イエスは、そういう救い方をしてくださる方です。
先週のイースターの時に、主イエス・キリストは復活なさいました。主イエスは死なないのではなくて、例えば一緒に十字架に架かった強盗と、一緒に死んで、しかし死を潜り抜けて、一緒に楽園にまで導いてくださいました。
シャドラク、メシャク、アベドネゴのこの救われ方に、私たちの主イエスによる救われ方も現れています。私たちが火のような試練に喘ぐ時、しかし客観的にそれを見る時、私たちの隣で神の御子が、一緒にその火の中を歩んでくださり、試練の火の粉が燃え移らないように守ってくださり、試練を潜り抜けさせてくださるのです。
ここにも、私たちへの神の愛が既に見えていますが、今朝は、もっと大きな神の愛が垣間見える4章まで読み進みたいと思います。
ダニエル書4章の中心人物は、ネブカドネツァル王です。そして、今読んできました3章からの繋がりを見る時に、神様の愛のスポットライトは、ネブカドネツァル王を明るく照らしているということが見えてきます。「神の愛はここにまで届く」と説教に題しましたが、神の愛が届く先は、シャドラク、メシャク、アベドネゴで終わりということでは、全くないのです。
3章の先程の場面を読み返してみると、不思議なことに気付くのですが、神の子のような姿をした4人目が火の中に居ることに気付き、「火の中を自由に歩いているのが見える。」と呟いたのは、他ならなぬネブカドネツァル王本人でした。誰かほかの家来がそれを見て報告したわけではなく、それに気づいているのはネブカドネツァル王だけだ、という風にもここは読めます。ということは、逆に言えば、「ネブカドネツァルにその姿を見せるために、この時神の子は現れたのだ」と考えることもできると思いますし、実際そうなのです。
しかしネブカドネツァル王と言えば、それは、聖書に中に出てくる、主の民ユダヤ人から見れば、最も憎く、もっとも恐ろしい、最悪の暴君です。なぜなら、その刃を神様がイスラエルを罰して悔い改めさせるために用いたと言えこそすれ、ネブカドネツァル王が何をしたかというと、彼はソロモンが建てた神殿を粉々に破壊し、聖なる町エルサレムを廃墟にし、多くの命を実際に奪い、働き盛りの男たちを根こそぎ奴隷として国に持ち帰って、神の民によるユダ王国を滅亡させた張本人です。
悪魔が生きてこの地上にいるとするならば、ユダヤ人たちにとって、ネブカドネツァル王がまさにその悪魔でした。今も大国によって酷い戦争が繰り広げられていますけれども、きっとその指導者のような行状をしていたのが、この時代のネブカドネツァルです。けれども、他の全ての人が救われるとしても、この人についてはそれは望むべくもないと、誰もが考えるこのネブカドネツァルを、人間でありながら神にまでなろうとするようなこの悪魔的な人間を、しかし神は、捨て置かない。神は、このネブカドネツァルの救いを、諦めない。彼に神の恵みを示し、それに気付かせるのです。これはあり得ないことです。人間にはネブカドネツァルを恐れ、憎むことはできても、愛し、恵むことなど、普通はできません。
しかし、神様は、預言者ダニエルをネブカドネツァル王に出会わせて、その夢を説かせます。ネブカドネツァル王は、ある夢を見ました。それは、大地の真ん中に、一本の大きな木が生え伸びるという夢でした。しかしその大きな木は、やがて切り株を残して倒される。そしてその切り株は、人の心を失い、切り株に、獣の心が与えられると、そういう夢でした。
ダニエルは、その夢を説いて、その大木とは、ネブカドネツァル王自身のことだと明言します。さらにダニエルは、その夢の解釈の終わりの部分で、ネブカドネツァル王に、「王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。」と悔い改めを、迫りました。
そしてその夢から1年が経ったある日、夢が現実の事としてネブカドネツァル王に降りかかりました。ネブカドネツァル王が王宮の屋上を散歩しながら、自分の王国バビロンの繁栄を誇って、自画自賛した時、突然、王は、雷に打たれたようにして、獣のようになってしまうのです。4章の30節には、「4:30 この言葉は直ちにネブカドネツァルの身に起こった。彼は人間の社会から追放され、牛のように草を食らい、その体は天の露にぬれ、その毛は鷲の羽のように、つめは鳥のつめのように生え伸びた。」とあります。ネブカドネツァル王は、他人が見ても、彼とは分からないまでになってしまった。ナポレオンのような聡明な人物であったネブカドネツァル王は、しかしこの時、理性を失くし、身体的にも、精神的も、全く美しさも、誇りもない、野の獣のようになってしまった。むしろこの獣状態が、今の世の悪しき権力者の姿なのかもしれませんけれども、しかしそういう状態になった末に、ネブカドネツァル王はそこからもまた救われて、その時を経て、さらに先に進んで行くことを許してくださいました。31節32節です。「4:31 その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。その支配は永遠に続き/その国は代々に及ぶ。
4:32 すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて/何をするのかと言いうる者はだれもいない。」
ネブカドネツァル王はここでついに、天の神を賛美し、同時に、「全て地に住む者は無に等しい」と、自分を見つめながら、自分の小ささを語ることができるようにされました。そして、無に等しい自分を生かし支えることができるのは、権力でも王座でもなく、神の大きな愛と恵みだと悟ったのです。
私がアメリカで通っていた教会の牧師は、このダニエル書4章の説教題を、「神のロマンス」と題していました。ロマンス?ネブカドネツァル王と神様がロマンス?私たちの頭の中では絶対に考えらない、ありえないことです。しかし、ネブカドネツァル王のような人物に対しても、神様は、ロマンスを望んでくださっており、こんな人物をも、シャドラク、メシャク、アベドネゴを通して主イエスの姿を垣間見せ、ダニエルという導き手を与え、自分の無力を知る機会を与え、御自分に引き寄せ、その口から、賛美を歌わせてくださるのです。
神様の愛の、なんと広く大胆なことでしょうか。神の愛は、何と、ここまで届く。そしてこのネブカドネツァル王でさえ、あのネブカドネツァル王でさえ、捉え掴まえて、変えた神の愛なのですから、ましてや、今の時代の指導者たちも、そしてこの私たち自身を含めた、すべての人々をも、その愛は捉え、その人を変えることができると信じます。
私たちが決して無理だと思ったとしても、神様に無理はありません。全ての権力者の権力、武力、その力を遥かに上回る、その者たちの力さえも無力化できる、神の救いと愛の、もっと大きな力を、私たちは本当に信じて、そこに頼り祈って、この苦難多き時代と、それぞれがその火の中を通らされている試練を、しっかり潜り抜けさせていただきたいと思います。
ダニエル書3章17節「3:17 わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。」