2022年5月8日 使徒言行録10章9~35節 「まさかの展開」
先週は、5月18日にハンガリーに向けて出発予定の、川瀬弓弦西部中会派遣宣教師を板宿教会にお招きして、海外宣教を覚える礼拝をいたしました。その時にも、使徒言行録が読まれましたが、今朝もそれに関係するような御言葉をと思いまして、今朝は、使徒言行録10章の御言葉から、宣教とは何か?何のために宣教して、何のために私たちは川瀬宣教師を送り出すのかということについて、御一緒に教えられたいと思います。
伝道すること、そして伝道という言葉よりも、一般的にはもっと広い意味で、直接聖書の言葉を語り伝えなくても、間接的に、広い意味で伝道していくという意味で使われる宣教ということについて、私は神学校で今、一時的に宣教学を教えているのですけれども、そこで、特に深く学ばされ、教えられていることがあります。それが、今朝お読みいたしました使徒言行録10章に表されていることです。
今朝のこの御言葉の中で、ペトロは深く考え込んでいました。ペトロが深く考え込んで思い詰めている様子が17節に「ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、」と語られます。ペトロは、何をそんなに考え込んでいたのでしょうか?今朝のこの御言葉の中で、使徒ペトロが与えられていた課題とは、それは、自分の殻を破れるかどうか、という課題でした。自分の殻がある。自分がこれまでの人生の中で採用してきた考えがある。そしてある時にはそれを支えにして物事を判断したり、局面を切り抜けたりしてきた。その判断基準、その良い意味での、これは正しいと信じている線引きというもの。しかしそのペトロの線引きに対して、ペトロよ、そのお前の線引きは正しいのかと、神様は、ここで挑戦をされているのです。
9節を見てみますと、ペトロは、ヤッフェの町で滞在中であった皮なめし職人の家の屋上に上がって、正午の祈りの時を持っていました。その時に、11節からの御言葉ですが、「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』」
とても不思議な御言葉です。地上のあらゆる動物が入った大きな布のような入れ物が、地上に降りてくる。まるで、あらゆる動物で詰まったノアの箱舟がひっくり返ったような状態です。そしてここ興味深いのは、空腹だというペトロに対して、この中から食べなさいと神様から差し出された、膨大な数の動物を見て、ペトロは開口一番、「主よ、とんでもないことです。清くないもの、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と言いました。とんでもないことですという言葉は、強い否定の言葉で、絶対にダメですという言葉です。いきなりこういう風に強い拒絶の言葉を口にするというのは、どうしてでしょうか?汚れた物、英語の聖書では、アンクリーンと訳されています。しかしアンクリーンな動物のみしかそこにはいなかったわけではなく、クリーンであるとされる動物もいました。しかしペトロには汚れた方がまず目につく。ダメなもの、嫌なもの、自分が避けているものがまず目に入るのです。 例えば、鍋の中に虫が混入しまうようなかたちで、汚れた動物が、そうでない動物と一緒くたに一つにまとめられているならば、そこにあるきよい動物も含めて、全部が台無しだと、そういうことになってしまうのです。
よく分かる話です。ここにあるような、口から体に入れる食べ物に関することでは特にそうですし。またそのほかでも、服でも、何かの持ち物でも、自分の身に着けるもの、あるいは自分の近くに置くもの、それが自分と直接の深いかかわりのあるものであればあるほど、その一部でも、汚れたり、破れたり、汚されてしまったり、ということになると、それがものすごく気になって、我慢していられなくなる。そういう、嫌なもの、汚れたもの、異質なものに対する私たちのセンサーは、とても機敏に、強く働きます。
しかしペトロとしては、この時、自分勝手な基準で、クリーンとアンクリーンの境界線を引いたつもりではありませんでした。ペトロがこの時採用していた基準は、神様の言葉である聖書でした。旧約聖書のレビ記にも、申命記にも、ひづめが割れていて、しかも反芻する動物がきよい動物で、そうではければ食べてはいけないと書かれています。そういう分かりやすい基準を持って、基準外のものを締め出すという考え方は、今の自分自身を、変わらず保っていくためには良いことです。相手と自分の間に違いを設けて、きっちりと境界線を引くことで、人は、はっきりノーと言えるようになる。あれはだめだ、でもこれはいい、という判断基準が明確になることによって、自分はこういう人間だという、人に流されない、アイデンティティーを持つことができる。けれどもそうやって、自分と他人を区別して、汚れたものを排除していったその結果、当時のユダヤ人たちはどうなっていたかというと、それは、ファリサイ派の人々に見られたような律法主義や、またユダヤ人だけが救われるという民族主義的な選民思想に、強く捕らわれてしまうという結果を生みました。
今のコロナ禍におけるソーシャルディスタンスということの目的もそうですが、確かに、区別を設けて、距離と保って、自分をきよく保つことは大切なことです。けれども、当時のユダヤ人たちはそれを、民族的に、また宗教的に、また生活様式のなかで徹底的に推し進めることによって、愛を失ってしまいました。
それは、主イエスが何度もファリサイ派の人々に指摘されてきたことでした。主イエスは、マタイによる福音書9章で、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とは、どういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われました。
あなたがたは自分と部外者とを潔癖症的に区別するけれども、私は、そして神様は、そうやって区別された側の、罪に汚れた罪人、正しくないとされて蚊帳の外に出された病人の方を愛し、救うために来たのだ。それが神の御心だと。
今や、これが汚れだと規定して、この汚れから離れよと命じて、それによって聖さを保つという方法は、イエス・キリストによって廃止され、更新されました。そして、人は、汚れた物に触れたら汚れ、汚れた物に触れなければ聖いのかというと、そうではなくて、主イエス・キリストに触れられてこそ、主イエス・キリストの十字架の血によって、罪を洗い流されてこそ、聖くされるのです。
今朝の15節16節にこうあります。「すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」
潔癖主義できよくなるという方法はもう廃止されました。これからは、聖いか聖くないかは、神が決める。汚れた食べ物であっても、汚れた人間であっても、イエス・キリストの十字架を与えられ、そこに結び付けられ、十字架によって清められたものは、どんな物や人であっても、皆、聖いのです。この神様からのメッセージを、三度も繰り返して、つまり、決して聞き間違いや聞き流しで処理できないほどはっきりと、受け取りました。
ペトロは、さらに考え込みました。しかしそういう中で、ペトロはまたも、霊の言葉を聞きました。19節20節をお読みします。「ペトロがなおも幻について考え込んでいると、霊がこう言った。『三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。』」
ここでは、汚れたこれまでの汚れた食物という問題が、人間に移って、汚れていると区別、差別している人間をどう扱うのかという問題へと展開されています。
ペトロを探してペトロの前にやってきたのは、律法で交際を禁じられていたため、その家を訪問することが許されず、また、律法でけがれているとされていた食べ物を食べてしまう恐れがあるため、一緒に食事をすることも禁じられていた、異邦人コルネリウスの使者でした。コルネリウスはローマ人で、イタリア隊と呼ばれる軍隊の百人隊長だったということですので、およそペトロのようなユダヤ人とは目鼻立ちも全く違う、もしかしたら金髪だったかもしれない、そういうイタリア人であり、ユダヤ人から見れば完全なる外国人で、それ故に、イスラエルの神の救いの枠の外にいると考えられていた人物です。
しかし、20節の「ためらわないで一緒に出発しなさい。」という言葉は、決めつけるというです。つまりこの文章を訳し直すと、ためらってはだめだ!あるいは、外国人だと言って差別したらだめだ!あるいは、汚れていると決めつけるな!そして、彼らと一緒に行け!という言葉になります。
つまり、殻を破れ!越境せよ!ということなのです。私たちの心の中にある限界設定が、現実に私たちの日常の行動を規定します。そこでは目の前に現れた壁について、気が進まず、もうこれは越えられない。あきらめよう。宣教するにしても、どうせこの壁の向こうは異教徒の不毛の地であり、神を知らない人たちがいるだけだから、今いるこの壁の内側の、安全な場所に留まろう。その方が楽だし、安全だから、間違いがないのだから、このままでいいのだと、私たちはつい考えてしまいます。
けれども、神様の救いは、そんな小さなものではありません。そして実際、この限界線が見えた、そこで身を引くのではなくて、そこからが宣教の始まりなのであり、自分の限界設定が見えた、まさにそこからが本番、自分が殻を破れるかどうかが問われるところなのです。
主イエス・キリストも、神の御子でありながら、神の御子という身分を捨てて、天国から越境して、この地上に来られた救い主です。そのキリストの愛に私たちの心が触れることによって、この心の殻が破られる。そして私たちが新しく、オープンにされることによって、そこに新しい人々との、そして新しい自分との出会いが起きてくる。救いが、私たちから溢れ出して、外に広がっていく。それが宣教なのです。
そして、ペトロはここで、コルネリウスに洗礼を授けました。ユダヤ人と同じのように割礼を受けていない異邦人にも、神様からの救いの聖霊が与えられて、洗礼を受けて救われることができるとしたのです。これは、旧約聖書のアブラハムの時代から、2000年近く前の昔から続けられてきた、ユダヤ人の不動の伝統をひっくり返すような、大きな発見です。そして、そのペトロの大発見が、パウロへと受け継がれ、それが使徒言行録15章のエルサレム使徒会議によって、異邦人が割礼なしに、ただ洗礼によって教会の交わりの中に招き入れられるということが、教会の教えとして正式に認められることになります。
ペトロとコルネリウスとの出会いは、ペトロを、大きな垣根を新しく超えて、もっと大きな神様の救いの世界に出ていくことへと導き、またそのことによって、ペトロだけでなくキリスト教会そのものをも、異邦人への伝道、宣教という、これまでの枠を超えた、全く新しい世界に足を踏み入れさせることになったのです。
つまりここでお伝えしたいことは、宣教、伝道とは、単に教会の会員数を増やすことではなくて、それは革命的なことだということです。つまり宣教することによって、私たちは、そして教会は、外側から、未信者から、教会が数千年守ってきたような教えさえも覆す、大きな真理を示されるのです。実に、宣教が為されることによって、教会の外にいた人々との出会いが与えられることによって、それが、他の人を変えるのみならず、教会自体を変えた。この出来事によって教会は、ペトロとコルネリウスが出会う前の教会とは違う、新しいキリスト教会になったのです。
私たちは自分で思う以上に保守的で、自分の正しさを守ろうとします。今までがそうだったから、自分はこうやってきたのだからと、どうせあの人はああだからと、身近な人間関係も含めて、日常の様々なレベルに限界設定を敷くのが私たちであり、この私たちの教会なのですけれども、「割礼によらない、信仰による、全ての民族の救い」という、この私たちもそれに与っている救いの真理を、教会は、異邦人から、救いの民に入っていないとされていた人から、教会が切り捨てて、諦めて、見下してきたような、聖書を持たない異教徒から、そういう思ってもみないところから、教会は真理を教えられたのです。
ですから宣教するということは、この線はないと思っていた、まさかの展開に、自分を開くということなのです。宣教する時、伝道する時にはそういうまさかの展開が、殻破りが、起こります。なぜなら宣教は神の業であり、私たちが計画し、私たちの予定調和で動くような人間の業ではないからです。
これはだめだ、この線は死んだ、こっちはまず無いだろうと私たちが思うようなところから、神様はまさかの新しい展開を起こされます。
先週の全国青年リトリートで、これまでの私が通ってきた時代よりも、さらに厳しい時代を歩むであろう今の20代の若い青年たちに、元気が無くなったら神様に触れよう。私たちが疲れてしまったり、元気を失くしてしまう一番の原因は、私たちが力の源である神様を知らないことにあると話しました。
なぜ宣教するのか?なぜ川瀬宣教師をハンガリーに送り出すのか?それは、私たちがより良い私たちに、より新しい教会になるためです。宣教によって私たちはまた改めて新しく神様という方を知ることができます。宣教によって、まさかと思うような御業を為される神様の新しい恵みも受けることができる。それはとても元気の出ることなのです。ますます教会と私たちが、作り変えられる恵みを、宣教をすることによって、共に味わい歩みたいと思います。