2022年5月15日 ガラテヤの信徒への手紙3章22~29節 「信仰の素晴らしさ」
信仰とは何でしょうか?それによって人が救われるものです。では、救われるとはどういうことでしょうか?様々に答えられますが、今朝の御言葉曰く、救われるとは、神の子どもとしての身分を与えられ、神様の実の子どもとして、神様が持っておられる良きものの全てを相続する相続人にされることです。
人は、信仰によって救われる。今朝は、これがどういうことなのかを御一緒に教えられたいと思います。そもそも、救いが信仰によるということは、不思議なことです。普通、何かを手に入れようとする時、手に入れたいものに釣り合う代価を支払って手に入れます。一番分かり易いのが、お金を支払って手に入れる方法ですが、他にも、それを手に入れるに値するだけの労働、仕事をしたり、あるいは、それを手に入れるための条件を満たして資格を得るということをすれば、ご褒美として、欲しいものを手に入れることができるようになります。
けれども信仰による救いは、そういう、代価を支払って獲得するものとは違います。そして、そこで信仰によって救われる際には、忘れられてはならない、一つの大きな大前提があります。それは、救いを与えてくださる神様の愛が大きいという大前提です。神様は、私たちを、救おうか救いまいか、迷っておられるような神様ではなく、また、私たちの出方次第で、救いを与えたり、与えなかったりするような神様では決してなく、神様という方は、すべての人間を、本当に真心から愛し、救いたいと願っておられる。救うと決めておられる。そういう神様であるという、大前提がまずあります。
神様のことを良き羊飼いに譬える言葉が聖書にはたくさん出て来ますが、良き羊飼いである神様にとっては、今救いに与って羊飼いの囲いの中に入っている羊も、囲いの中から出て迷っている羊も、また未だ囲いの中に入っていない、囲いの外にいる羊も、皆愛する、かけがえのない羊たちなのです。その意味で、クリスチャンであっても、未だ洗礼を受けていない方であっても、全人類、すべての人間は、神様にとっての愛する羊であり、もし迷っているのであれば、良き羊飼いは命懸けでその羊を探しに行って、無事に見つけ出すまでは帰ってこない、そういう、自分の命よりも大切な羊です。
ですからこの私たちを神様が救いたいのは当たり前で、救いを与えたいのは当たり前です。そういう神様がまずいらっしゃるという事実が、大前提としてあります。
そういう神様の愛を、私たちは信仰によって受け取るのです。主イエスは、マタイによる福音書7章の有名な言葉で、7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と言われましたが、事柄は本当にその通りです。もう神様の方で、救いを私たちにくださる準備はできている。だから、それを代価を支払って獲得するのではなく、求めなさい。欲しいと言えばいい。探せばいい。そうすれば見つかる。私たちが門を開く必要はない。門を叩けば、ノックすれば、それで開かれる。全く主イエスが仰ったように、だれでも、本当にだれであっても、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。その、求める心、探す心、扉の向こうにおられる神様に向かって、ドアをノックするその心、それが信仰です。
パウロは、今朝の27節で、「3:27
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と言いました。信仰によって救われて洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、何をしたのかというと、キリストを着ているのだ、と言うのです。
服を買う時、スーツを買う時、必ず店員さんがジャケットを羽織り易いように広げて、背中に当てがってくれます。まるでここで、救いを与えてくださる神様のようです。神様は、私たち皆の救いのために、私たちに代価を払わせて、私たちに努力を強いて、天まで上ってきて救いを勝ち取れとは言われません。逆に天から主イエス・キリストを、人間としてこの地に送ってくださり、神様の方から、人間の側に主イエス・キリストを通して深く、低く、歩み寄ってくださり、救いへと招いてくださる。
ただ、神様はとても優しく、良き羊飼いとして、私たち、大切な羊の一匹一匹の気持ちを大切に扱ってくださいますので、早くこのジャケットを着ろ!と、無理やり押し付け無理やり着せるようなことはなさりません。神様は、私たちの自発性、自主性、この私たちの気持ちを重んじてくださって、私たちが、自分のタイミングで、強制されてではなく、自発的にそれを着ることができるように、ジャケットを背中に広げて、袖を通しやすいように、あてがってくださるのです。
そこで私たちがするのは、キリストを着ること、キリストという方と一つになるべく、そこにそでを通すことです。その時、肩にかぶせられるジャケットに、するっと袖を通して、ぴたっとキリストを着ること。それが信仰なのです。
信仰によって救われて、イエス・キリストというジャケットを着たら、どうなるのか、パウロはそれを、今朝の御言葉の中で、端的に三つの言い表し方をもって述べています。
まずその一つめとして、イエス・キリストを着た人間がどうなるのかを、パウロは今朝の26節でこう語ります。「3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」つまり、信仰によってキリスト・イエスに結ばれると、神の子になる。先週の水曜礼拝でも語りましたが、親にとって、子どもの命は、自分自身の命よりも大切です。ですから、神の子になるということは、父なる神様が、私たちのことを、自分の命よりも大事に思ってくださる。私たちがそういう尊い存在になるということです。
そして、救われた人間は、続いて二つめには、こうなります。それが28節です。「3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
パウロがこの手紙によって戒めているガラテヤ教会の指導者たちは、救われるためには皆割礼が必要だと、だから、ギリシア人もその他の異邦人も、皆ユダヤ人のようにならなければだめだと考えていました。救いには条件がある、この言い分は当然のことのように思われますけれども、信仰によってイエス・キリストに結び付いた者は皆、そういう縛りを突破するのです。そこでは何人であろうと、どんな国籍であろうと、また奴隷でも主人でもどんな身分であろうと、またどんな性別であろうと、そのすべての区別は問題ではなくなり、そこにはどんな差別もなくなりました。
この救いの決め手は、その大前提となっている、全ての羊への神様の大きな愛ですから、そこは、どんな羊なのか、どんな人間なのかということが決め手となるような世界ではありません。そこでは、それぞれの人間の間にある違いは、優劣や争いや妬みの理由とはならず、今月の月報にも書きましたが、自分になくて、他の人にある賜物は、それは褒めるべきもので、嫉妬や恨みの原因となるのではなく、喜び祝うべきものになります。信仰による救いは、自分だけを救い、自分だけを良くするものではありません。自分で何かを成し遂げる喜びよりも、皆で一緒に一つのことを成し遂げる喜びの方が、何倍も大きな喜びになりますが、信仰によってキリストと結びついた時、私たちはキリストを着させられて、そして教会という信仰者たちの仲間の間で洗礼を受けて、どんな分け隔てや区別も差別もなく、みんながキリスト・イエスにおいて一つになるという、大きな満たしと感動を味わうことができます。
そしてパウロは三つめに、今朝の御言葉の29節を語ります。「3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」神様はアブラハムと彼の子孫に、祝福を約束してくださいました。その祝福をど真ん中で受け取る相続人となる恵みを、私たちは信仰によって授与されます。相続というものは、自分がこの手で築き上げて蓄えてきたものではなくて、親の財産を頂くことですから、言うなれば、それはとてもおいしい事態です。得なことですし、本当にそれは恵みです。そして信仰によって主イエス・キリストを着る私たちは、神様が一生懸命築き上げて、蓄えてきた、神様が有する良きものを、全部、丸ごと相続することができます。汗水流して、時間を惜しんで、心と体をすり減らして働いて、働き通しで終わってしまうようなこの人生ですが、最後には私たちには計り知れない、神様が用意して、私たちのために取り分けてくださっている祝福の宝庫に、ど真ん中で与る、そういう約束が、相続人には与えられるのです。
不思議です。信じるだけで、求めるだけで、ドアをノックするだけで、袖を通すだけで、これほどの恵みが自分に向かって流れ込んでくる。信仰というものは素晴らしいものだと思います。他に何も無かったとしても、これだけがあれば、その人は神様のからの祝福に包まれるし、未来永劫、幸せにやっていける。この信仰が私たちに与えられているということに、まず何よりも感謝したいと思います。そして、私たちが他の人に、これだよ、これは良いものだよと、決して減るものではないので、人にお勧めし、分け与えることのできる最も良きものも、それはこの神様に対する信仰に他ならないのだと思います。
ほかの手紙でパウロは、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」と書きました。目には見えないものですが、しかしダイヤモンドの輝きよりも、もっと強く永遠に輝きを失わず残り続け、光り続けるのが、この信仰です。
色々なものを手に入れたいな、あれが欲しいな、これも欲しいな、必要だなといつも思って、ついつい目移りしながら歩んでしまう私たちですが、一番価値あるものを。一番私たちを守り、恵み、満たし、永遠に幸せにすることのできる、この信仰をこそ、私たちは、祈り求めていきたい。願い求めていきたい。探し求めていきたい。そして、与えられたいと思います。