2022522日 ガラテヤの信徒への手紙4章17節 「あなたは相続者です」

 先週の説教で、信仰とは、主イエス・キリストを着ることだと、それは、私たちの背中に当てがわれる主イエス・キリストというジャケットに、袖を通すことなのだと学びました。

 そして今朝の御言葉には、そうやってキリストを方に羽織って、キリストに袖を通した人は、どのようなものを受け取るのかということが語られています。

 

 今朝の御言葉は、実は去年の12月のクリスマス礼拝の時に説教をした御言葉です。ここは、パウロ版のクリスマス物語と言って良いような御言葉で、パウロによって、主イエス・キリストの誕生とその意味が語られています。

 しかしパウロはクリスマスを語りながらも、ここで、羊飼いのことも博士たちのことも、馬小屋も、空に輝く星のことも、一言も語りません。しかしその代わりに何を語ったかというと、今朝の45節の御言葉を、パウロは、クリスマスの意味はここにこそあるという風にして語りました。4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

 ここでパウロが語っていることは、時が満ちたということと、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちは神の子とされたという、二つの、クリスマスの意義です。

 

 そこで、まず一つめの、時が満ちた、ということについてですが、時が満ちたということは、その時がついにやってきた、ということです。では、時が満ちてクリスマスが来る前の、時が満ちていない状態というのは、どういう状態だったのでしょうか?それはまだ時が満ちていない状態ということですので、その状態をパウロは、未完成な、不十分な時代であると位置づけて、それをネガティブな言葉で言い表しています。

 ネガティブな言葉は、今朝の御言葉の前半に出て来ます。41節の言葉で言えば、「未成年」、また「僕」という、これは奴隷という意味の言葉です。また3節では、「世を支配する諸霊の奴隷」ということで、「悪しき霊による奴隷状態」と表現しています。あるいは先週の321節以降の、これも前半部分にネガティブな言葉が連続しますが、そこでいえば、「罪の支配下に閉じ込められた状態」、また「養育係」という言葉が語られています。この養育係とは、幼稚園の保育師さんのように優しく育ててくれる人という良い意味の言葉ではなくて、養育係とは、当時実際にそういう人が子どもを指導していたそうですが、非常に厳しくて、また自由を拘束する形で、がんじがらめに監視して、躾け教育するという役割の人のことです。そしてそういう養育係の下に置かれていた、可哀想な状態が、時が満ちていない状態、クリスマス前の状態であり、そこでものを言わせていたのは、主イエス・キリストではく、ユダヤ教がそれを誇張して、数限りない、拘束力のある掟に仕立ててしまった律法、というものだったのです。

 

 しかし、先週の325節の言葉で言えば、「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」と言われています。つまり、律法による奴隷の時代は終わった。罪の牢獄に閉じ込められる状態は終わったのです。

 クリスマスは何のためにあったのでしょうか?それは、時を満たして、イエス・キリストによって来たる、新しい時代へと時計の針を前に進めるためにあったのです。4節をもう一度読みます。4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」

 続いて5節です。4:5「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」そして、クリスマスによって、主イエス・キリストの到来によって、奴隷の時代は終焉を迎えたのです。人々が、僕として扱われなければならない時代は終わりました。そして、時が満ちたことによって、罪の牢獄に閉じ込められていた私たちは、主イエスの十字架の死を代価として、神様に贖い出され、すなわち神様に買い戻されて、もう奴隷でもなくみなしごでもなく、神の子どもの身分と地位を与えられたのです。クリスマスは、実にそのことを実現するために、そして今日の今の、この私たちの身分をも、全く新しいものにしてくださるために、クリスマスは起こったのです。

 

 今朝の説教題を「あなたは相続者です」としました。しかし私たちは、いきなり「あなたは相続者です」と言われても、実際のところ、それで心ときめくようには、ほとんどならないと思います。なぜなら私たちは、自分の親の問題や色々な欠けや弱さを承知しているからです。ともすれば経済的にも、精神的にも、親からの負の遺産を、かえって厄介なものを、相続することになってしまいはしないかと、相続ということについては、実は私たちは内心冷や冷やしている部分がないでしょうか。私たちの間で考えられている相続とは、そういう、豊かというよりは貧弱な概念となり、難しい問題になってしまっているのではないでしょうか? そしてそれは、この聖書の時代でも同じでした。自分が相続者となれるのは、弱さや欠けや足りなさのある、自分の親に対してだけですし、「あなたは相続人だ」という風に言われても、それだけでは手放しで喜べない状況が当時もあったと思われます。しかも1節には、未成年の間は、つまり時が満ちていない間は、相続者の権利を持っていても、僕、奴隷と同じ身分しか与えられないのだとパウロは語っています。

 

しかしながらパウロは、そういう認識の中で敢えて、そして、私たちを新しくする良き知らせとして、私たちに力を与える福音として、クリスマスに主イエス・キリストが来たのだ、そして時が満たされ、古い時代はもう過ぎ去ったのだと語るのです。そのクリスマスによってあなたは、神の子どもにされたのだと。

ではそのことは、何によって分かるでしょうか?ここでパウロは、クリスマスで起こった恵みに背中を押されて、そこからくる熱い気持ちにほだされて、この今朝の67節を語ります。パウロが何と訴えているか、一緒に御言葉を聞きましょう。4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」

 パウロはここで、とても積極的な意味で、相続人という言葉を使っています。それは嬉しく、豊かなことなのです、なぜなら、クリスマスに主イエス・キリストが私たちと同じ人間となって、主イエスが神様と人間の仲を取り持ってくださり、主イエスが神様と私たちを、父親と、父に愛される子どもという、新しい関係の中に引き込んでくださったからです。

 パウロは、当時のアラム語の父よという音の響きを、そのままアッバという言葉で手紙に書き込んでいます。日本語だったら、パパ、という言葉です。パパと呼べるのは、本当の家族、本当の親に対してだけです。それを私たちは、神様に対して言えるようになる。神様との、掛け値なしの本当の親子になれる。そういう関係にされる。

 つまり、親換えということが、ここで起こるのです。そしてこれは本当に大事なことで、私たちの人生は、これで、ある意味牢屋から解放され、養育係から自由になり、そこから全く新しい人生になります。

 

  私たちは皆、たとえそれを今はそれほど自覚していないとしても、必ず多かれ少なかれ、親からの負の遺産を背負って生きています。親との関係は私たちが経験する最初の、そして根源的な人間関係ですから、そこで自分の求めている愛が満たされなかったり、良くない態度を取られて、その傷を記憶していたり、安心して付き合える信頼関係が親と築けなかったりなどすると、その人間関係が、現在の私たちの人間関係、人との接し方、付き合い方や、人の評価に、そして何よりも自分自身の評価に、深く影響します。私たちが直感的に考えたり感じたり、良いなと思ったり嫌だなと思ったりすることの根本は、親の考え方や感じ方の影響を受けています。また、今私たちが、何か人との、あるいは夫婦や家族の中での不調和を抱えているとしたら、その原因のいくらかは、自分の親との関係のひずみに端を発していると考えてよいと思います。

 そして、そのひずみや問題を解消する力は、一人の弱さを抱えた人間に過ぎない私たちの親にはありませんので、親を恨んで、いくら親を正そうとしても、それはもう修正できるものではありません。ですから、私たちは、肉親の親を超えて、親換えをして、神様を父親として、神様の子どもとなる。そして自分の親の不十分さについては、それを赦すということに至らなければ、負の遺産から自分を切り離して、新しく自由な自分になることはできないのです。

 けれども主イエスによって、神様のことを、私たちは何と、アッバ、父よと呼べます。神様に、愛への飢え渇きや、自分の魂の寂しさや空洞を満たされたいという思いを向けるならば、それは満たされます。なぜなら神様こそが、親が私を生んで、この顔を見るもっと前から、永遠の昔から、私を選んで、私のことを見て、そして愛してくださっているがゆえに、母の胎内に私を造り上げ、私の両親のもとに生まれさせ、今まで生かし支えてくださった、私の魂の父、私のこの命を作った父だからです。

今朝の7節は高らかに宣言しています。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」神様という私の、肉親以上の愛する父がくださる遺産には、負の遺産は一切ありません。神様が将来死なれることはありませんので、遺産は未来になって初めて生まれるものではなく、実は神様からの遺産は、既に、今日この朝から、あるいは既に私たちが生まれてからこのかたずっと、与えられてきました。そして神様は、私たちに必要な最も良きものを、私たちのこれからの将来全般にわたっても、私たちを満ち足らせる遺産を、愛する大事な子への愛を、命を、主イエス・キリストという御自身の御子を通して与えられるすべてものを、惜しまず与えてくださいます。さらに父なる神様は、キリストの体としての教会を通じて私たちが得られるものすべてを、この神様の造られた地上世界から来る祝福を、それはもう、遺産というような使い古しのとか、中古の何かとか、そういう表現を超えています。愛する子どものためのとっておきの宝を、その恵み祝福を、私たちの天の父は、これからも与え続けてくださいます。

クリスマスに当たって、天使ガブリエルはマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」この言葉は、今日の皆様に向けての言葉でもあります。「おめでとう!恵まれた方!あなたは今、神様の大きな恵みの、特別な相続者です!」