2022529日 ガラテヤの信徒への手紙4章8~15節 「戻って来い!」

「戻って来い!」と、今朝、パウロは、聖書は、聖書を通して神様は、私たち一人一人に向かって叫んでいます。

このガラテヤの信徒への手紙は、先週のパウロ書簡の中のクリスマスの御言葉と言えるような言葉をピークにして、既にここまでで言うべきことを言い尽くしているようなところがあるのですが、しかしこれは、神学書ではなく、批評文書でもなく、パウロの肉筆の手紙ですので、パウロは、今朝の8節の御言葉から、これまでの緻密な論理構成の言葉から、語調を変えて、所々急に論理が飛ぶような話し方をしながら、さらにヒートアップして、ここには、パウロの口から出る飛沫が、聖書の文字の中から飛んでくるような、そういう近い距離感と熱い思いが、ほとばしるようにしながら、改めて、パウロはガラテヤ教会の一人一人の頭ではなく、心に訴えかけます。

 

 そこでパウロは、ガラテヤ教会の人々に、改めて、過去の「かつて」のことを思い出させ、そして、かつてと今の違いを、考えさせています。

 8節です。4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」

 かつて、神を知らずに、神でない神々に奴隷として仕えていた時代があった。ガラテヤ教会は、今で言うトルコの国がある地域にありましたから、当然人々は、聖書の神ではなく、ギリシャ・ローマの神々の影響の只中に生きていました。そこには多くの宗教的慣習や、たくさんいる神々を祭るための多くの祝祭日があり、占星術も特に盛んでした。今でも民放の朝のニュースをつけていると、星座に基づく今日の運勢が毎日流れていますけれども、当時の人々は、今この時代以上に、神々と空の星座を結び付け、そこに自分の人生の行く末を訪ねるという、そういう信仰の下に生きていました。あなたがた皆の中に、かつてのそういう過去があっただろう、とパウロは問うていますが、当然のごとくこの問い掛けは、この私たち一人一人にも届いてくる問いかけです。

 先程も皆で、御言葉に導かれて罪の告白をしましたが、この日曜日の礼拝という時は、自分の「かつて」を振り返る時でもあります。かつての神様を知らなかったときの自分、先週一週間の自分の歩み、そこで何があったのかを、神様のもとに集まり、ここで取り扱われ、恵みを受け、また送り出されていくという、人生のサイクルの縮図のようなこの礼拝の時間において、改めて私たちは、自分の「かつて」を清算するのです。

常々語っていることですが、私たちのこの心は、透明なガラスのコップのようなものなのだと思います。聖書も、人間を土の器と呼びます。人が器ということならば、中に何を入れるかによって人は決まります。神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていた状態とは、それは、この心が、神様とは異なる者によって満たされ支配されてしまって、自分がその神様でない者の奴隷になってしまっている状態のことを意味します。私たちのこの心の、かつての支配者とは、何者だったのでしょうか?先週の御言葉だった43節には、「世を支配する諸霊に奴隷として仕えてきました」という言葉もありました。「かつて」自分が何を心の真ん中に据えて、何の奴隷になってしまっていたのか?それは、胸に手を当てて、じっくり考えて、その正体を検証してみる必要のある、とても大事な事柄です。なぜなら、それら世を支配する諸霊の支配は、未だ終わっていないからです。古い慣習やしがらみや、今まで私たちが慣れ親しんできた、この心に受け入れてきたものらの影響力、その魅力、そのしぶとい生命力は、未だ衰えてはおらず、私たちは今すぐにでも容易に、かつての奴隷状態に揺り戻されてしまう。そういう危険性がいつも隣にあります。なぜなら周りはみんな、そういう生き方をしているからです。

 

 しかし、だからこそ、パウロは言葉を重ねて訴えます。次の9節です。4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」

 しかし今は神を知っている。イエス・キリストを知っている。だからこそ、あなたがたはガラテヤのキリスト教会に繋がっている。

そしてパウロはここで、更にもう一段ギアを上げて、しかし今は神を知っているのだという事実の、もっと奥深いところについて語ります。つまり、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」と。私たちが神様を、かつては知らなかったが、今は知っているということ。もっと掘り下げたらそれは、自分の手柄によるのではなく、自分の力によってそうなったのでもなくて、あなたが神を知るとか知らないとかそれ以前に、神があなたを知り、あなたは神によって知られている。そうやって神様に先に目を付けていただいて、神様の強い力によって引き寄せられて、それであなたは神様を知ったのだと、パウロは言います。私たちが神様を見出したのではなく、宇宙よりも大きく広い神様の方が、この小さな私のことを見出して、この心に、神様とこの私とを繋げる信仰をお与えくださった。ですから私たちの救いには、この信仰には、宇宙以上の神様の御遺志が大いに関わってくださっている。宇宙よりも大きな神様が、そうやって、この小さな私のことを知っていてくださっているのです。

そして、それだからこそ、9節後半の言葉につながります。「(なのに)なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」ここでは実は、偶像礼拝という問題が、十戒の第一戒という、一番肝心要の、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」というあの戒めが、問題となっています。偶像崇拝とは、キリスト教を捨てて棄教してしまう、ということだけを意味する事柄なのではありません。十戒を受け取ったイスラエルの民も皆、ほとんどの場合、神を捨てて棄教するまでは、そこまでは行きませんでした。しかし彼らは、十戒を与えられたそのそばから、金の子牛を拝んで、神様を裏切ってしまいました。そのようにしてイスラエルの民は、その後も絶えず偶像礼拝の罪を繰り返し犯し続けてしまいます。ということはつまり、偶像礼拝とは、棄教によって、神様を変えることによって起こるというよりも、信仰に混じり気が加わってしまう時に起こるものなのです。神を捨てなくても、神様の他に、もう一つ二つ、違うものを持ってきて、神様への混じり気のない信仰に何かを混ぜて、それによって補おうとする心、それが偶像崇拝を引き起こす心なのです。

 具体的にこのガラテヤの信徒への手紙の場面では、割礼が、信仰への混ぜ物となってしまっていました。ガラテヤ教会の信徒たちは、パウロに敵対するリーダーたちに扇動されて、イエス・キリストの福音を信じる信仰に加えて、もう一つ、ユダヤ人古来の伝統である割礼の実践が救いに不可欠だと信じていました。ガラテヤの信徒たちにとってみれば、決して信仰を捨てたわけではありません。ただ、それに補強を施したという認識だったはずです。それは信仰の逸脱というよりも、信仰という目に見えない救いを、より確実に根拠づける保険に、割礼はなるはずだという思いがそこにあったと考えられます。しかしパウロから見てそれは、容認できない偶像崇拝への逆戻りであり、キリスト教会を危機に至らせてしまうことであり、かつての、主イエス・キリストを知る前の奴隷状態への逆行だったのです。パウロは叫んでいます。「いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」

 これは既に洗礼を受けて、クリスチャンになっている人たちに対する、「戻って来い!」という叫びです。神様を知っていても、神様以外のものを支えにして、それに頼り仕える、偶像に取りつかれた状態に陥ってしまうことがあるのです。

 1011節。4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」どうでしょうか?私たちは大丈夫でしょうか?

 

 このパウロの言葉によって、信仰義認を見出した宗教改革者ルターのことを考えました。

 水曜礼拝でも少し語りましたが、宗教改革者ルターは、その深い罪意識にさいなまれ、悩みました。当時、罪はカトリック教会が懺悔の告解などによって解決してくれるはずのものでしたが、ルターはエリートの人生を捨てて一介の修道士になり、罪を打ち消すための厳しい修道生活に明け暮れましたが、どんなに厳しい修道生活を積んでも、罪の意識から解放されることができませんでした。しかしそこでルターは、自分の力を振り絞って行う修道生活によってではなく、イエス・キリストの赦しの恵みを受けてのみ罪は赦される、という、イエス・キリストへの信仰によってのみ人は救われるという、信仰義認の教えを、このパウロの手紙から発見したのです。

 このルターの葛藤と戦いは、自分自身の力で到達する救いVS神の恵みによる救い、という戦いであり、それは自分の力で人生を建て上げ守るのか、それとも神様の力で生かされるのかという二つの生き方の対決でした。

 ルターは今朝のガラテヤ書の御言葉を解説する文書の中でこう言っています。「無知な私たちが自分自身の力で無知から脱却しようとするならば、そこで私たちは、神より他に為し得ない業を、自分の力で成就させようとしてしまう。その時人は、本来は神様に求めなければならない救いを、自分自身の力で見出すことができると誤って考えてしまう。しかし、すべての人間の光と命はキリストにほかならず、それは私たち人間の中にはない。」

 せっかくイエス・キリストに出会って、神に知られ、神の力と救いに与ったのなら、再び自分自身の力に寄り頼んで生きるのは、世の中を支配する生き方の奴隷になるのは悲しすぎる。あなたがたが、実力主義、拝金主義、個人主義、自力救済というような、競争と律法主義的規則の中に縛られた人生へと逆戻りしてしまうのは、あまりに悲しい。そんなあなたがたじゃなかったはずじゃないかと、パウロは15節で、4:15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。」とも訴えています。

 

パウロは、本当に、主イエス・キリストに戻って来い!主イエス・キリストの福音に戻って来い!神様の大きな恵みと赦しに与って、神様の力によって生かされる、その幸せに戻って来い!と叫んでいます。

一度クリスチャンになって、洗礼を受けたからと言って、そこで終わりではなく、信仰の歩みと成長は、そこからがスタートです。ただこの心を放っておくと、色々なものが入ってきて、あるいは私たちは生来貪欲で、あれも欲しい、これも欲しい、あれが足りないといつも考えてしまいますから、救いに与りながらも、本当は必要ないものまで、あるいは意図的に毒を自分の心に盛り込んでしまいます。そこから、混ぜ物含みの信仰に、イエス・キリストに自分の全部を安心して預けることができない、そういう信仰に、結果的にキリストの福音の恵みを壊してしまう方向に、信仰者が動いてしまうことがある。ふと気付けば、神様抜きで、すぐに自分自身の力で、目の前のことを何とかしようとしている自分に、私たちはほとんど毎時間、気付かされるのです。そして、迷って、戻って来れなくなってしまうことがある。

 しかし一つ言える大事なことは、私たちは、迷ってもいいのです。迷ったら戻ってくればいい。やり直せますので。教会には、罪人を招き入れ、赦して新しくする主イエス・キリストの十字架がありますので、何度でも無限にやり直しは効きます。取り返しのつかない罪はなく、すべての罪は、赦されます。だから、何度も出ていくなら、その分何度でも、戻ってくれば良いのです。

弟子の筆頭ペトロもそうでした。三度も裏切り、しかし三度続けて、主イエスを愛しますと答えました。私たちの信仰の歩みとはそのように、決して一直線には行かず、いつも断片的で、行ったり来たりです。でもそれで大丈夫です。

 

 パウロが、今あなたは神に知られているのだ、と言ったのは、迷っていない信徒に対してではなく、迷っているガラテヤの信徒たちに対してでした。良き羊飼いである主イエス・キリストは、迷って羊の囲いから出ていってしまった、離れていった一匹の羊を、残りの99匹を後ろに控えさせて差し置いて探しに行かれます。つまり、合計で羊100匹分の愛のすべてを、なんとその迷った一匹に集中させるという、とても激しい、燃えあがるような愛し方で主イエスは、その一匹を愛して、守って、見つけ出して、連れ帰ってくださいます。

 パウロの語り方もそれを表していますが、私たちが迷えば迷う程、神様の私たちへの愛は、熱く強く燃えあがるのです。

 

 放蕩息子の父は、出ていった弟息子のことを心配しながらも、追いかけて、探しに行くことを差し控えるという、深い謙虚さと、相手の心に無理やり土足で入って行かない慎み深さの中で、しかしただ、息子の帰りを待ち続け、帰って来た時には真っ先に息子を見つけて走り寄り、首を掻き抱きました。この父が神様です。近くにいても、放蕩息子の兄のように、もしかしたら心が父親から迷子になっている私たちなのかもしれません。私たちの心は、今どこにいるのでしょうか?「戻って来い!」と言って、待ってくださっている神様に、今日もまた改めて、戻って行きたいと思います。