ペンテコステ礼拝 ローマの信徒への手紙8章1~17節「平和の霊」

今朝は、ペンテコステの記念礼拝です。クリスマス、イースター、そして今朝のペンテコステが、キリスト教会での三大記念日なのですけれども、しかし今朝のペンテコステは、その中では一番知られていない、一般的に一番なじみのない、キリスト教の記念日なのだと思います。けれども逆に、本当のところは、このペンテコステこそが、私たちには、実はクリスマスよりも、イースターよりも、もっと、ずっと深く関係のある記念日です。なぜならこの日には、私たちと神様の間にある距離が、爆発的に、それはもう奇跡のように、縮まったからです。

ペンテコステとは、神様の霊が、天から降ってきて、私たち一人一人の内側に宿ったということを記念する日です。人間同士では、どんなに近づいて、ひっついても、体が寄り添うぐらいのことしかできませんけれども、神様の霊は、私たちの心の内側にまで入ってきてくださいます。あの天におられる神様が、空よりも広い、宇宙よりも大きい神様が、誰よりも近い間合いに入ってきてくださって、私の心の内側に宿って、そこで生きてくださる。神様との距離が、この日には近くなるではなくて、ゼロになる。それが、ペンテコステに起こった奇跡です。

今朝は、そのペンテコステの奇跡を語る御言葉として、ローマ書の8章を読みました。このローマ書8章は、聖書の中の宝の箱と呼ばれるほど、重要な、深い言葉で満たされていて、とても一回の説教で語りきれる御言葉ではないのですが、聖書の中で、これほど連続して、集中的に、霊という言葉が用いられる箇所は他にありませんので、所々をピックアップしながら、今朝はここから、聖霊なる神様とは何か、そしてその御働きとは何か、ということを、学んでゆきたいと思います。

 

ところで私は、いつも礼拝の説教で、どんな事を語っているのかと言えば、ひとことで言えば、「神様とはどんなお方か」という話をしているのではないかと思います。けれども、今朝のペンテコステにおいては特に、「神様とはどんなお方か」を考えると同時に、「神様はどこにおられるのか」ということを考えなければなりません。そして、「神様はどこにおられるのか」ということの答えが、今朝の御言葉では、9節から10節のところに語られています。9節からお読みいたします。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく、霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって、命となっています。」この御言葉の中に、「神の霊があなたがたの内に宿っている」という言葉と、「あなたがたは、肉ではなく、霊の支配下にいます。」という言葉、そして「キリストがあなたがたの内におられる」という言葉が語られています。

主イエス・キリストは確かに、十字架にかかり、復活したのちに天に昇られたのですけれども、その十日後に、聖霊なる神様を私たちに遣わしてくださり、神の霊が、私たちの内に宿っている。キリストが私たちの内におられる、という状態。そして、霊による支配を実現させてくださいました。これは、事柄として、大変なことです。神様はどこにおられるのかというと、神様は、神様を受け入れる私たちの、この体の、この心の内側にいて、ここに正真正銘のキリストがいて、ここで生きていてくださり、私たちを内側から支配してくださる。私は、聖霊なる神によって、内側から、神様のものとされている。これが、ペンテコステに実現した恵みです。

けれども、今の世の中においては、神様のものとされている。と言われても、一般的には、あまりこの言葉は歓迎されないのではないかとも思います。なぜなら、今の世の中は、「私は私のものだ」と言い続ける声によって満ちているからです。物を買う時にも、それが必要だから買うというよりも、これを私のものにしたいという物欲の方がむしろ強く刺激されて買う、という場面が多いと思いますし、人間関係においても、それが物を買うときの消費者行動と区別がつかないようになってしまっていて、「私は私のものだ」との前提に、そこにさらに加えて「あなたも私のものだ」という他者への支配の構造で考えられる場合が多いと思います。みんな、自分を中心に据えて、自分が支配者になりたいのです。あわよくば、他人のものまで自分のものにしてしまいたいと、人々はお互いをつけ狙う目で見ている節があります。けれどもその一方で、会社や、そしてこの日本という国家そのものとしても、「あなたはこの組織のものだ」「あなたはこの国に属する者なのだから」と、私たちの自由を奪うようなかたちで、上から私たちの全存在を明け渡すことを強く要求してきます。その中で人々は、実際のところ、自分で自分を守るのが精一杯なのだと思います。「私は、誰のものでもなく、私は私のものだ」と自分に言い聞かせながら、色々な支配のしがらみ中で何とか自分を守り保って生きている。そうやって生きられる人がいるならば、今の世の中においては、自分を持っている、自立していると見られたり、言われたりしますし、それができれば上出来なのかもしれません。

けれども聖書は、そんな私たちに対して、「あなたは神様のものとされている。あなたは神様の霊によって支配されている。」と語ります。これは、聞く人の聞き方によっては、これは恐ろしい言葉に聞こえるかもしれませんし、そんなことでやっていけるかと、「神の霊の支配されるなんて、御免こうむる」と文句を言いたくなるような言葉なのかもしれません。しかし、今朝聖書が私たちに語っていることは、神様に支配される。神様のものとされるとは、まさにそこにこそ、私たちの命の源があるということなのです。聖書は、「私は私のものだ」というこだわりが打ち砕かれなければ、そして私が神様のものにならなければ、救いは起こらない、と言うのです。

 

内村鑑三は、このことを、電球をたとえに出して、うまく語っています。「電球はそのままにては、何らの光を放たない。これを電線につなぎて初めて光を放ちうる。人は電球のごときものである。ひとり、ありてはただ暗く、黒々としているのみである。これすなわち罪であり不信である。ゆえに、神につながりさえすれば、あたかも電球が電線につながりしごとく、即座に光を放ちて、周囲を照らすのである。電球は電線を離れていては、いかにひとりで努力し、工夫しても、光を放ちえない。人が神を離れての努力、修養、工夫は、いかにつもり重なるとも、ゼロの加重である。われらは、自己のいっさいの考量、工夫、計策、努力を捨てて、ただ命のみなもとなる神に帰ればよいのである。これ、悔い改め、復帰である。罪を離れることである。かくすれば、線につながれし電球のごとく、求めずして光を放ちうるのである。」

 神様の支配を受けるときにこそ、私たちは電球のように光り輝くことができる。そうでなければ、電球である私たちは光ることができない。

パウロが今朝の御言葉の中で語っていることも、これと同じです。6節に、このような御言葉があります。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」「思い」と訳されている言葉の意味は、これは何かぼんやりと、とめどない物思いにふけるということではなくて、ちゃんとした、はっきりとした目標に向かって、私たちの思いと考えと意思が集中していく。ある特定のはっきりとした方向に向かって、私たちの思いと、人生全体が、すっと真っ直ぐに伸びていくという、そういう心と、体と、生き方全体の方向性を示す言葉です。そしてパウロは、詰まるところ、私たちのその思い、人生全体の向かう先は、二つにひとつしかないと。ひとつは死であり、もうひとつは、命と平安である、と言うのです。そしてそこで、私たちが神の霊に支配されているならば、その途上でいつどんなことがあったとしても、私たちは必ず命と平安に至ると語っています。

それを語る5節から9節の途中までをもう一度読みます。8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。」

神様の霊が内側に宿るということは、それはあってもなくても良いような、ニュートラルなことではなくて、電球にとっての、電球が電線に繋がっているのかいないのかということと同じく、命と平和なのか、それとも死なのかを分ける、人生を決定づける、二つに一つの道なのです。

ではその聖霊は、私たちの内側に宿って、命と平安に私たちを導いてくださるために、具体的に私たちの内側で、どう働いてくださるのでしょうか?それについては、今朝の御言葉からは二つの大切な聖霊の働きが語られています。そのひとつは、罪の赦し。もうひとつは、神の子どもとされるということです。

罪の赦しについては、それを宣言する本当に大切な御言葉が、今朝の8章1節2節に語られています。8章1節です。8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

「今や、キリスト・イエスに結ばれている者」という冒頭の言葉は、これからイエス・キリストを信じていこうとか、キリストに従って行こうとか、そういう言葉ではなく、正しく、キリストと距離が完全にゼロになり、イエス・キリストと本当に深く結び付いている者、キリストの中に入った者という意味です。

そして、今朝の11節も合わせてお読みしたいと思います。8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

私たちが、聖霊に、この身も心も支配していただくことで、キリスト・イエスにしっかりと結ばれる時、そのイエス・キリストというお方は、十字架での死と、その三日後の復活を経験された主イエス・キリストです。ということは、主イエス・キリストは、もう既に十字架にかかってくださって、私たちが受けるべき死の苦しみを、私が過去現在未来において犯す全ての罪の全ての罰を、既にゴルゴダの丘の上の十字架に架かって苦しんでくださり、そのために死に渡されてくださった、さらにそれを乗り越えて復活された、永遠に生きておられる主イエス・キリストです。ですから、神の霊の支配の中に立って、その主イエス・キリストに結ばれている者は、キリストの十字架と復活に結び付けられていますので、「罪に定められる」ことはありません。罪に定められる」ことが、ないのです。

私たちは、聖霊の支配を受け、主イエス・キリストに結び付けられた者たちとして、今ここに立って、ペンテコステの礼拝を捧げていますが、しかしそうなったことによって、罪を犯した過去を消えませんし、金輪際もう罪を犯すことをやめた、というわけでもありません。今だに、悩み、思い煩い、罪を犯し、霊の支配を受けているとはいえ、その反対にある私たちの中の肉の思いも非常に強くまだまだ健在ですので、それに負けます。けれども、そういう私たちに向かって今朝語られていることは、あなたはもう罪を犯さないのではなくて、もう罪に定められないのだ、ということです。あなたは主イエス・キリストと一体なのだから、あなたは断罪されない、罪に定められない。あなたは赦された。だから金輪際、罪人ではないと、聖書は固く約束しています。

 

そして聖霊なる神様の働きによって、さらに私たちは、神の子とされます。これについては、今読んでいますガラテヤの信徒への手紙と同じ言葉がここにも語られています。14節から16節をお読みいたします。8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」神の霊によって導かれる者は皆、罪に定められないどころではなく、神様にとっての、これ以上ない愛の対象、神様に愛され守られる、神様の実の子どもなのです。これは、この先将来に起こることではなく、今ここで起こり、今日ここでの聖餐式で、さらに強く確約されることです。

ペンテコステに起こった、聖霊の降臨は、今日も現在進行形で続いており、私たちは、この身も心も神様の懐深くに抱え込んでいただいて、電流をそこからこの身に流れ込ませて、輝かせてくださる命の霊を、今、受けています。

主イエス・キリスト、罪の赦し、命と平和。ここに、すべての人が生きていくための必要なすべての力の源、電源と、さらに将来の約束、希望があります。ですから私たちは今日、「ああなんと私は惨めで罪深い人間なのだろう」と、自分に絶望することはできませんし、どこにも救いがない、神様は一体どこにおられるのかと、あてどなくさまようこともありません。神様は私たちとこの教会を、聖霊の住まいとして選び、御自身と私たちをしっかりと結びつける聖霊を、この私たちの一人一人に、持たせてくださいました。神様は永遠に、この私たちの内側に住んでいてくださいます。そして今朝のこの御言葉通りに、神様の霊が、今週も私たちを動かし、命と平和に向かう歩みを、歩ませてくださいます。