2022年6月12日 ガラテヤの信徒への手紙4章16節~5章1節 「神の約束こそが成る」
信仰生活はいつも晴れの日ばかりではありません。毎日ずっと晴れの日が続くことがないのと同じように、信仰生活というものも、晴れたり曇ったり雨が降ったりしますし、時には何年にもわたって谷底を歩むような、大きなスランプに陥ることがありますし、大なり小なり、そういうことは必ずそれぞれの信仰生活の中で生じます。
使徒パウロは、今で言えばトルコにあたるガラテヤ地方に、病気のために旅の途中で意図せずしばらく滞在せざるをえなくなり、そこでガラテヤ地方の人々に福音を伝え、そこにガラテヤ教会が立ち上げられたわけですが、あのパウロが基礎を建て上げたこのガラテヤ教会でさえ、パウロがそこを去ってから数年で、信仰が本筋から逸れて、律法主義の信仰に脱してしまっていました。
パウロは今朝の4章20節で、「4:20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」と、わたしはあなたがたのことで途方に暮れている、と言うことさえ口にして、どうにもできない。いかんともし難いと、嘆きをあらわにしています。あのパウロが、ここまでお手上げだと言ってしまっている教会の現状がここにあったということに、まず私たちは驚きたいと思いますし、パウロが建てた教会でさえ数年でこうなるわけですから、私たちの教会は百年の間に、どれぐらいこのような危機を経験してきたのだろうかと思いますし、私たちは今この時においても、スランプや逸脱の渦中には私たちはいないとは、言い切れません。
だからこそ、私たちは今朝のこの御言葉によっても、正しく軌道修正させられたいと思います。パウロは本当に、その軌道修正のために、この手紙を書いています。あきれ果てていると言いながらも、パウロは諦めずに、何とかガラテヤに届け、という祈りと願いを込めて、手紙の言葉を紡いでいきます。
先週神学校の授業の中で学生たちの質問に答えて教えながら、牧師は、教会で何をどのように教えるべきなのかという話になりました。神学生は学生らしく、もっと頑張れと、教会を鼓舞して励ましたいと語っていましたが、それでは律法主義的な教会になる。頑張って、たくさん学びなり奉仕なり努力をした人だけが、救いに与り恵みに与るという、自力救済の、自己努力的な教会になってしまうのではないかと答えました。
「頑張れば報われる。努力する者が救いに至る。」という教えが、聖書の伝える教えなのでしょうか?もしそれが聖書の伝えたい、聖書の教えたい教えであるならば、そんなものは今さら教えなくても、教わるまでもなく、皆分かっている教えなのだと思います。自己努力、自力救済、実力主義、成果主義という社会の中を、私たちは皆小さい頃から生きていますので、そんなことは言われなくても、体の芯まで、骨の髄まで浸み込んでしまっている。
だからこそ、そういう私たちが、教えられ、しっかりと学ばなければならないことは何かというと、それは、主イエス・キリストの生涯全体を通して現わされた、主イエス・キリストの福音であり、神からあたえられる、無条件的な愛と恵みなのです。そして、この福音こそが、それと真反対の世界の中を生きている私たちが、しっかりと学ぶ必要のある、教えてもらう必要ある、一からしっかりと教会で、牧師から、聖書から、何度でも改めて教えてもらわなければ決して分からず身に付かない、しかし大事な、聖書の教えの根幹なのです。
そして、今お話ししたような状況が、そのままこのガラテヤ教会においても、2000年前の地球の裏側においても、同じようにして生じていたのです。パウロが少しの間ガラテヤ教会を不在にしたその隙に、ガラテヤ教会は福音から離れてしまい、神の恵みを信仰によって、ただただ神様への信頼によってのみ、与えられ受け取るという福音の真理から離れてしまいました。彼らは、神への信頼と神様との出会いが大事だとは言わず、それよりも、律法という掟の遵守と、割礼をしっかりと受けることの方が大事だと、それが救いに必須であると、つまり人が特に教わらなくても自然にそう考えてしまう考え方に逆戻りしてしまった。何かやらないと評価されない、実績が伴わないと大事にされず、愛されない。すなわち、主イエス・キリストが十字架と復活によって与えてくださった救いだけでは、まだ足りない、まだそれでは救われるには弱いのだと、福音を過小評価し、恵みを無駄にしてしまっていたのです。主イエス・キリストと神様が求めておられないものを、人間的な打算と算段によってこしらえていかなければだめなのだと、ガラテヤ教会は考え、その指導者たちはパウロを非難しながらそう訴えていました。
しかしパウロは、ここで、改めて大きく息を吐いて、深呼吸するようにしながら、今朝の16節以下の言葉を語り継いでいます。今朝の4章の16節から19節を改めてお読みいたします。「4:16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。4:17
あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。4:18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」
19節に、パウロの熱い思いがほとばしり出ています。「4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」「わたしの子供たち」確かにそうです。ガラテヤ教会はパウロが生み出した教会ですから、パウロは彼らにとっての信仰の父です。しかしさらにパウロはこの言葉に続いてこう語っています。「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」なんという言葉でしょうか。もう一度産む。「もう一度福音を学び直せ」、「もう一度教えよう」ではないのです、「もう一度あなたがたを産もう」、「もう一度生まれ変われ!」という言葉です。彼らにとっての信仰の父パウロは、ここでは何と、ガラテヤ教会の母の立場にも身を置いて、「わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と、出産の、産みの苦しみを苦しんでいます。何よりも牧師がしなければならないことは、この産みの苦しみを味わい続けることの他にありません。
そして、パウロが産みの苦しみを味わうのは、その前の言葉に現れている通り、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」です。これは教える、学ぶということを超えた、キリストが内側に形づくられるという、マリアへの受胎告知に似た、生命的なことです。それは、ガラテヤ書2章20節でパウロが既に語っていたことです。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです。」
「キリストがあなたがたの内に形づくられる」ということの意味は、私の内側に生きておられるイエス・キリストという意味と、そしてもう一つ、「キリストがあなたがたの内に」ということですから、あなたがたガラテヤ教会の中にという、教会的な意味もここにはあります。教会は生きたキリストの、生ける体と言われます。パウロはもう一度、教会に、私たち一人一人の内側に、イエス・キリストの命を打ち込み、宿らせ、産み付けるのです。なんと強烈な言葉でしょうか?しかし、私たち一人一人と、教会は、生まれ変われるのです。どんなにつまづいても、失敗しても、どんなに長いスランプも、それは決して、終わりを意味するものではありません。むしろそれは始まりであって、それはもう一度生まれ変わって、新しいキリストの命に生きるための、新しいスタートになる。私たちの神は、十字架の死ののち三日後に死から命へと蘇られた主イエス・キリストの神です。死んでもそこから蘇られたキリストが、教会には、そしてこの私たち一人一人皆の内側には、今、本当に生きておられるのです。
パウロは続けて、アブラハムの妻サラと、女奴隷ハガルのことを語りました。しかしこの話は、約束の子イサクを生んだサラは良いが、イシュマエルを生んだハガルは悪いという、ただ単純な話として読むべきではないと思います。
もともと不妊の自分の代わりに子を産むようにと、女奴隷ハガルに仕組んだのはサラで、夫アブラハムも、女奴隷によって子を残すというサラのアイデアに同意しました。これによって、ハガルはイシュマエルを産みながら家を追われるという、可哀想な立場に置かれてしまいました。そしてそこに生じていた最大の問題は、信仰の父祖と呼ばれ賞されるアブラハムとサラでしたが、更にイサクが与えられるという神様の約束を彼らが信じなかったどころか鼻で笑って、ハガルによって子を残すという、人間的な画策と打算に走ったことです。自分たちの将来は、自分の計画と算段でこそ打ち立てていこうという、ここにも自助努力考え方が、自分自身の力で難局を乗り切り、生きていくべきだという、ガラテヤ教会が陥っていた、自力救済、ガンバリズムと言う、この世の中の道理に縛られてしまって、そこから抜け出せないという縛りが、私たちの想像を超えた奇跡さえ起こすことのおできになる神様の大きな力ありきで考え生きることのできない、人間の不自由さ、人の憐れが垣間見えるのです。
しかし、そんな不自由な、福音を知らないサラや、アブラハムや、その先の子孫から、主イエス・キリストは生まれられました。世の中の考え方に縛られた人間による計算が、未来を導くのではなく、神の約束こそが成るのです。キリストは、私たち人間が考えつかない、私たちの論理とは逆の救いの論理である福音を、私たちに見せてくださいました。それによって主イエスは、律法の不自由さ、自助努力の縄目から人を解放し、それまで人が知らなかった、恵みによる救いを、罪や赦され、やり直せる。人は生まれ変われる、生き返ることができるのだ、という福音を与えてくださいました。
5章1節でパウロは改めて叫んでいます。「5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
ヨハネの黙示録2章4節5節に、天におられる主イエス・キリストが、ヨハネを通して全世界の教会に対して語られた言葉としての御言葉があります。「2:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。2:5
だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」
パウロは、今朝私たちに、「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と叫んでいます。今私たちが、しっかりとするとはどういうことなのか?何をすればいいのか?それは、本当に、初めのころの愛に立ち帰ることだと思います。それは主イエス・キリストの福音に立ち戻るということと一緒のことです。
主イエス・キリストは、私に、何をしてくださったのかを思い出し、悔い改めて、初めのころの、あの主イエスと出会った時の、主イエスに見つけていただいて、教会に導かれて、洗礼を受けた時の、あそこで、涙と共にそれぞれがいただいた愛。そこにもう一度改めて立ち戻って、もう二度とそこから落ちないように、二度と奴隷に戻らないように、主イエス・キリストを見失わないように、しっかりしなさい!あなたがたの内で生きておられる主イエス・キリストを、今、しっかり見なさい!主イエスと一緒にしっかりと生きなさい!
御言葉を通して、教会によって、この礼拝を通して、揺らぎやすい私たちの信仰を鷲掴みにして、御自身のもとに向けてくださる、神様に感謝いたします。