マタイによる福音書7章9~12節 ウェルカムサンデー「求めるあなたに、応える神」

 今日は父の日です。皆様には、父の日のプレゼントを贈るような父はいますか?それとも、皆様自身が、父の日のプレゼントを受け取る父親なのでしょうか?父もいないし父親でもないという方もいらっしゃると思います。しかし全く問題ありません。今日父の日に、私たちは、私たちの父に出会うことができます。今朝のために選ばれた聖書の言葉には、「あなたがたの天の父」という言葉があります。

 父の日には毎年、理想の父親は、芸能人で言うと誰か?アニメのキャラクターで言うと誰か?というアンケートが毎年取られます。そのアンケートで大体毎年一位になるのは、つるの剛士という、私より一歳年上で、5人の子どもさんがいるタレントです。アニメのキャラクターの不動の一位は、クレヨンしんちゃんのお父さんの、野原 ひろしというキャラクターです。どうでしょうか?理想の父親と言えるでしょうか?

 私にとっては、あくまでイメージですが、ロビン・ウィリアムズという、もう8年前に亡くなった俳優の、私生活では実際は色々あったらしいですけれども、「いまを生きる」とか、「グッド・ウィル・ハンティング」などの映画に出て来る、あのロビン・ウィリアムズの姿のようなものが、理想の父親というという感じがします。皆様にとっての、理想の父親とは、どういう父親でしょうか?

 そして今朝、皆様には、今まで思い描いていた神様という言葉から来るイメージを、塗り替えていただきたいと思います。聖書を読まないうちから自分で考え想定していた神様のイメージと、実際の神様との間には、実は何の関係もありません。神様は、私たちが考えていたのとは違います。今朝は是非、今までの神様観を変えてください。そして今日私が皆様に届けたい、新しい神様観は、神様とは、あなたがた皆にとっての、天におられる理想の父親だ、ということです。

 

 つるの剛士とか、野原ひろしとか、ロビン・ウィリアムズや、皆様が理想として心に思い描いている父親など足元にも及ばない程の、本当に理想的な、素晴らしく大らかで優しく、素晴らしく立派で心強い、こういう父親がいてくれたらなあと、誰もが願う、その本当に理想の父親が、今私たちがこうして礼拝して正面から向き合っている神様である。神様は、天におられる、皆様の、本当に理想の父親です。以上です。

 

 だったらどうなるのか?だったらどうなるのでしょう?そんな理想の父親を持っている皆様は、幸せになれる。上月さんが今そうであるように、皆様も皆、幸せ者です。

 今朝の御言葉の中で、その方御自身が天の父の一人息子であれる主イエス・キリストが、この方は、神の御子でありながら、私と同じ人間になって、私たちの隣に来て、私たちを友達だと、兄弟姉妹であると言って、天の父と御自分との親子関係の中に、私たちを引き込んでくださった方ですが、この主イエス・キリストが、今朝の御言葉の中で、「わたしがやっているように、あなたも、天の父にお願いしたらいいよ。私たちのお父さんは優しい父親だから、応えてくれるよ」と、すごく、「お父さんに、お願いしなよ」「もっと求めればいいやん!」と、何が私たちの方がびっくりして引いてしまうぐらい強く、私たちを誘ってきてくださっています。

 今朝の聖書はそういう言葉です。

 78節を、改めて朗読いたします。

7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

  

 7節の始めは、「求めよ、さらば与えられん」という有名な言葉ですけれども、これは、求めていこう!現状に満足せずに、目標に向かって、進んで行こう。そのあなたの、強くあくなき探求心が、未来の門を、将来の大きな扉を開く力になるんだ!だから、ハイハイっ!それぞれ、しかり頑張っていこう!」というような、サッカーのハーフタイムのロッカールームで、監督が檄を飛ばしているような、意味の言葉とは、この言葉は全く違います。むしろその反対です。

 

 目の前に何もなくて、何もない未来、何もない明日を、私たちの求めが、探求心が、この拳が、切り開いていくのではありません。目の前には、理想の父親である神様がしっかり通られます。私たちの明日にも、今日にも昨日にも、カレンダーの、過去原罪未来の全ての日の、その日のスケジュールの一番上に、その名前をしっかり書いておきたいぐらいに、目の前には、天におられる誰よりも素晴らしい、人間ではとても到達できない、完全なる、理想の父親である神様がおられるのです。

 

 ですから、求める時には、その求めに応えてくださる理想の父親である神様が、そこにいるわけです。天におられる父なので見えないのですが、見えないということはいないということではなくて、目に見えない霊的な存在である神様は、姿かたちや場所に捕らわれない方ですので、見えないですが、今も生きて、空気のように、空気が入らない水の中や真空空間であっても、しかしそこにちゃんといてくださいます。

 その神様に求めたら、それは聞かれますし、与えられます。完璧な、理想の父ですから。「7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」私たちは、決して真空に向かって、誰もいない中空に向かって求めるのではありません。打てば響く神様に、求める、神様に探す。門のあちら側にて、私たちのノックが聞こえれば、開けてくださいと呼びかける声が聞こえたら、すぐに門を開けられるように、既に、常に、構えて呼びかけられる用意をしてくださっている理想の父親が神様ですから、だからこそ私たちは、安心して、この求めや願いやこのノックが決して無駄にならないのだということを知っている状態で、「与えられる、見つからる、門が開く」という希望を胸に、「天のお父様、扉を開いてください!天のお父様、与えてください!」と願う、願って良いのです。

 

本当に素晴らしい、天におられる理想の父親と関係です。しかし、私たちは、「けれどもなあ~、とは言ってもなあ~、実際はね~、」と考えてしまわないでしょうか?「とは言っても、私たちが願い求めても、そういうことはもちろんしてきたのに、でもそんなに都合よくはいかなかった。あれはどういうことなのか?あれは何ですか?なぜですか?」「求めよ。さらば与えられん。」は、現実にはなっていないではないか、と私たちは思うことがあるのだと思います。

 

しかし主イエスは、そこは天の父を信頼して良い。この天の父に任せておけば、きっと大丈夫だと、9節から11節の言葉を語られます。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

子供は親の喜びです。決して完全とは言い難い人間の父親でさえ、子供の喜ぶ顔が見たいと思いますし、子どもを喜ばせたいと思うわけですから、天の父はなおさらそうしてくださると。さらに、親は、子供が本当に必要とするものを知っていますから、子供が必要とするものを、必要な時に、必要な分だけ与えるのです。もし子供がそれを欲していなくても、それが子供の願いとは違っていたとしても、親は長い目で見て子供の必要を満たすものを与えます。罪ある人間の親でさえそうなのですから、理想の父である神様はなおさら深い配慮を持って、私たちに与え、見つけさせ、戸を開いて導いてくださいます。

 私たちの求め、私たちの願いには、一時的で、衝動的なものがあり、自分のためにならないものを求めたりもします。そこも天の父はよくご存じで、私たち自身が求めることよりも、それを超えたもっとふわさしい答えで答えてくださいます。

 

 最後の12節も、有名な御言葉です。12節。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」私たちが親から聞かされてきた言葉は、この逆ではなかったのではないでしょうか?つまり「人からされて嫌なことを、人にもするな」と。

しかし、「人にされては嫌なことを、人にしない。」のではなくて、「人からして欲しいことを、人にする」これが、聖書の要約であると主イエスは語っておられます。「人にしてもらいたいと思うことは、それはあくまで、人にしてもらいたいと思っていることなので、自分ではしない。あの人がすべきだ。あの人が私にそうしてくれるべきだ。それが当然だ。」と私たちは考えます。

 

しかし主イエスは、人から、ただして欲しいとだけ願って、人がしてくれるのをただ待っておられたお方ではありませんでした。主イエスは、自分から人に仕え続け、人に愛を注ぎ込み、人の僕として歩み、そして十字架に架かり、父親に叱られてしまうところの多いこの私たちのために、そのすべての罰を一人でその身に受けてくださいました。

 そしてこのキリストが、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」と言われる時、私たちも、主イエスの深い愛にひきずられるようにして、自分から良きことを人にする人に変えられていくのです。

 

 そしてここまで来た時にやっと、求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。と言われていた言葉が、何を求めて探すべきだと私たちを導くのかが分かるのです。今朝、最後に、私たちは結局何を欲していて、天の父は結局何を私たちに与えようとしておられるのか?ということを考えたいと思います。

 

 上月さんは、結局何が欲しかったのでしょうか?ずっと何を求めていたのでしょうか?何をずっと探していたのでしょうか?人からの誉れだったのでしょうか?結婚して子供を産んで良い家庭を築きたかったのでしょうか?ずっと引っかかっていて解決していなかった問いに対して、その答えに至るということが、大事なことだったのでしょうか?

 違いました。上月さんがずっと求めていたものは、どんな時に共にいてくださる、主イエス・キリストの父なる神様でした。

私たちが本当に欲しいもの、私たちの魂が求めているものは、主イエス・キリストです。そして、私たちの必要を、私たちが知る以上に深く知っていてくださっている父なる神様は、主イエス・キリストをクリスマスに生まれされ、私たちに寄り添ってくださるために、イエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。天におられる理想の父親は、たくさんの良きものを与えてくださいますが、中でも、何よりも、主イエス・キリストを与えてくださることで、私たちを幸せにしてくださいます。

 

神様は、本当にあなたを今日ここに導き招いてくださった方であり、その方は、あなたがずっと求め、探していた、理想の父です。

 どうぞいくらでも、この父に、求めてください。探してください。門を叩いてください。私たちが求め、願い祈る時、私たちの前には、こんなに暖かく優しい、理想の父親が向き合っていてくださり、主イエス・キリストが立っておられます。心強いです。決して私たちは独りではありません。

 ですから、本当に、私たちはみんなで、天のこの父に守られて、主イエス・キリストというこれ以上ない同伴者と一緒に、今日から生きていきましょう。