202273日 ガラテヤの信徒への手紙5章2~15節 「何からの救いなのか」

 呪いという言葉がありますけれども、皆様は、自分は今呪われているとか、呪いにかけられている、ということを考え感じたことがあるでしょうか?

 呪いと聞くと、呪いの藁人形やなんかのことをすぐに思い浮かべてしまいがちですが、藁人形を木に打ち付けるということだけが、呪いなのではありません。呪いは、実は色々なかたちで、根深く私たちの日常に浸透しています。そしてそれは、呪いですから、客観的な論理を超えた、怨念や思念のような、形にならない思い込みであり、先入観であり、固定観念、ある種の決めつけです。その決めつけを外側から強いられ続け、あるいは自分自身で念じ続け信じ続けたら、それが呪いになります。ですから呪いにかかるとは、藁人形が釘付けにされるように、自分が何かの思いや先入観に釘づけにされて、自由な思考を奪われてしまい、他の方法や考え方では考えることができなってしまうような状態を意味します。

 

 そして、もし今私たちが呪われていている状態なのだとしたら、私たちは、どんな呪いの中にあると思われますか?

 パウロは、今朝の御言葉の後半の13節から15節で、過去も現在も本質的に変わることなく、私たち人間をずっと縛り続けている呪いの正体を語っています。

5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」

 最後の15節に、「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」という、歯に衣着せぬ、衝撃的な言葉が語られています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」とパウロに言われてしまっているということは、ガラテヤの信徒たちは、不自由で、肉に罪を犯させていて、愛によって互いに仕えることをせず、互いに噛み合い、共食いして、滅ぼし合っている状態だった、あるいはそうなりかけていた、ということです。そのことをパウロは、このガラテヤ書ももう終盤に差し掛かっていますけれども、しかし言葉を変え、言い方を変えながら、この手紙を通して繰り返し訴えています。

 お互いに愛さない。お互いに縛り合って不自由にさせ合う。噛み合い、共食いして、滅ぼし合う。つまりガラテヤの人々は、互いに愛し合うということの真反対のことをして、本質的には互いに憎み合い、殺し合っていたのです。

 そのままだったらどうなるのか?その先にあるこれ以上なく恐ろしい末路を、パウロは今朝の4節で語っています。4節はこう語ります。5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」

あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。なんということでしょうか?あってはならないことです。キリスト教会に属するクリスチャンであるのに、キリストと縁もゆかりもない者になり、さらに与えられた恵みも失うのだとすれば、まさにそれは死に等しい、最悪の末路です。

なぜ?何がそうさせるのか?律法主義がそうさせる、というのがその答えですが、律法主義をもっと分かり易く言い換えるならば、それは、競争原理と実力主義のことを指します。

教会の兄弟姉妹同士で、クリスチャン同士で噛みつき合って、食い合う。敵対し合って、勝った負けたの競争を繰り広げる。そこで勝ったら、成功したら、生き残ったら、立派なクリスチャン、実力のある立派な教会、救いの達成者、到達者となる。逆に負けたら、脱落者、敗北者、不適格者となり、神様との関係を失うと考える。だからちゃんとやらなければダメになる。礼拝出席も、献金も、奉仕も、あの人よりももっと、今よりもっと良くできた方が、素晴らしいクリスチャンということになるし、もっと重要な人間になれるし、もっと神様に愛されて、神様からも人からも、より大事な人間として見てもらえる。だから頑張らなきゃ。これが呪いです。これがキリストの恵みを無にする元凶です。

 

7節から9節のパウロの言葉に聞きます。5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」

9節に、わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるとありますが、競争原理と実力主義のパン種を、私たちは子どもの頃から教え込まれてきました。頑張らなければならない。頑張ればこそ、道が開けると信じ、念じ続けてきました。また、今でもテレビを少しつければ、これを買わなければ幸せになれない、これを着ていなければ乗り遅れる、お金が沢山あることこそが、将来のための一番の安心の基だ、というパン種がどんどんと心に入ってきて、積もり積もってしまいます。律法主義の背後にあるのは、つまるところ、自分自身への自己中心的関心です。人の救いではなく、自分さえよければというさもしさが律法主義の背後にはあり、自分を自力で救うのだという熱意がその背後にはあって、そのために、何々すべきだ、何々しなければ駄目だというハードルが設定され、それを自分が乗り越えられたら、成功、合格にたどりつける。そして、救われる。それがパウロが批判してやまない律法主義です。

そういう考え方が良いのか悪いのか、合っているのか間違っているのか、検証するチャンスと時間はほとんどありません。自分のために、自分の救いのために生きることの何が悪いのかと、それ以外の生き方を私たちは知らず、ほとんどそれに目を配ることができないまま、とにかくそれで人生を行けるところまで突っ走って、あるところで限界を迎えて力尽きたり、あるいは老後になってみて初めて、やっとそこで落ち着いて、本当にそうだろうか?自分の人生は、果たしてこれで正解だったのだろうかとやっと考える、というところが現実ではないでしょうか?

 

私自身も競争原理と実力主義から、自由でない自分自身を先週も経験しました。先週は愛知県で教派の大会があり、全国から約100名の牧師たちが集まって修養と会議の時を持ちました。良い時間で、対面で行うことができた大会によってとても良い時間と交わりを与えられましたが、しかしその中でも、他の牧師と自分の比較をしてしまい、他の教会と自分が仕えている教会の比較を考えてしまうということからは、どうしてもお互い完全には逃れられないという瞬間も味わいました。もちろんそれは共食いとは違うと信じたいですけれども、しかし牧師同士の教会の会議でも、議論を真剣に行えば行う程、考え方や見解の対立が大きく浮き彫りになるということがあります。そして、そこでのことを勝ち負けや競争という枠で考えてしまい、ただずっとそこに留まり拘り過ぎてしまうならば、いつしかそのパン種が膨らんで、方向性を見失い、パウロの言うような、キリストとは縁もゆかりもない自分たちへと脱落してしまいかねません。

 

しかしパウロは、厳しい言葉の連続の中にも、今朝の10節では、大らかな言葉を語り掛けてくれています。「5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」

 パウロは、あなたがたは良く走っていたので、きっと大丈夫なはずだと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼していますと言って、ガラテヤの信徒たちに望みをかけています。そして主イエス・キリストも福音書で引用された、レビ記の御言葉を用いながら、1314節を語るのです。改めてお読みします。5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」

 

 呪いという言葉の反対は、祝福です。私たちは、放っておいても、自分のことは絶えず中心に据えて、中心に考えて行動します。しかしそうやって、競争と実力主義の考えの下で、自分のために祝福を勝ち取っていかなければという、強い呪いを生きている私たちは、それと反対の、隣人を自分のように愛するという、逆の生き方を知り、その生き方へと解放される必要があります。その模範が主イエスです。主イエス・キリストは、自己愛からは自由であられて、隣人を自分のように愛するということをなさってくださり、祝福を私たちに注いでくださいました。パウロが何度も述べる、キリストの福音とは、競争原理へと駆り立てる呪いからこの私たちを自由にし、呪いを解除することのできる力としての祝福のことです。

 私たち教会は、本当にこの、律法とは反対の福音を捉え、この福音をこそ語り、生きなければなりません。キリスト教会でありながら、祝福ではなく、ノルマや、人をはめ込む束縛がそこから発信されることが多いのです。本当に気を付けていないと、そういう、福音とは反対の混ぜ物が、パン種が、教会の中に、説教の中に、また私たち一人一人の言動や心の中に入り込んで、いつしか自分と人とを縛ってしまうということが起こるのです。

 

 ただ律法主義がダメだと、そこから解放されなければ駄目だと語っていても、今度は律法とは逆の、単なる放任、放縦、如何なる規律も秩序も排除する無律法主義、無政府主義という新たな呪いにはまるだけです。

 ですから私たちは、どこまでも主イエス・キリストという方を見つめて、キリストに集中し、キリストを語り続けなければなりません。先入観にまみれていない、本当の自分の価値と人の価値、人間の価値は、主イエス・キリストの十字架に示されます。主イエス・キリストの目に映っている私たちの姿がこそが、呪いのない、先入観のない、本当の私たちの姿です。そこに映っているのは、自由で、私たちのこの存在そのものが価値を持ち、天からの雨のように絶えず神様からの愛顧と祝福を受けるにふさわしい、それを受けていい、祝福を受けて恵まれて、救われて、幸せに生きることを望まれ許されている、私たちの姿です。そこにこそ、私たちの、私とあなたのありのままが、あるのです。

 

 呪いは、これによって解除するのです。教会には、救いを一から十まで担ってくださる希望の救い主、主イエス・キリストがいらっしゃり、この方から、とめどない恵み憐れみ祝福が流れてくるという、愛の泉があり。誰でも皆が、十字架に免じて、この救いを受けとることができるという、Good News,良き知らせ、福音がある。だからここには、できた人だけが救われるという論理はありません。誰でも、無料で、値なしに、主イエスの命の水に預かれます。あなたがもし、自分は、あの人は、愛されるに値しないともし思っていたら、それこそが呪いです。その呪いから私たちは自由にされて、こんな自分は、あんな人なんか、と思っているその人こそが、でも愛され、赦され、大事されるとういう福音の世界に、今朝改めて御一緒に招かれたいと思います。そこにあるものこそが、本当の救いです。