2022年7月10日 ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節 「何で生きるか」
パウロは、ガラテヤ教会に向けて、このガラテヤの信徒への手紙を書きました。教会はパウロからの手紙を受け取って、そこで初めて、手紙を受け取るまでは知らず気付かなかった、自分たちの姿を示されるに至りました。ガラテヤの信徒たちは、この手紙を読んで驚いたのだと思います。パウロは、先週の最後の15節では、あなたがたは互いに噛み合い、共食いしていると指摘し、また今朝の最後の26節では、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」と言っています。ガラテヤ教会の人々は、この手紙を読んで、そうか、自分たちはキリスト教会でありながら、噛み合い、共食いし、挑み合いねたみ合っていたのかと、そこで初めて知ったのです。その手紙が、今日、板宿教会の私たち皆の前で開かれ読まれています。ですから私たちも良い意味で今、私たちの中から出た言葉ということではなく、外から私たちに届けられたこの言葉に驚いて、新しく目を開かれたいのです。
そしてこの今朝の御言葉は、聖書の中でも有数の、本当に耳に痛い御言葉でもあると思います。私はかつて、もうこのガラテヤの信徒への手紙5章の聖書を開くのは嫌だ、恐ろしいと思ってしまう程、この御言葉によって打たれて、お腹にパンチを受けてうずくまるような経験をしたことがあります。それは、私がまだ中学生の終わりか、高校生ぐらいの時だったと思います。教会学校の礼拝にたまたま出たら、そこで今朝の御言葉が読まれました。その時の教会学校の出席者は、ほとんど私一人でしたので、教会学校の先生と面と向き合った状態で、私にめがけてこの御言葉が語られた様な状況になりました。教会学校の説教でしたので、当然そのほかにも色々な事が語られて、きっと今朝の御言葉の後半の22節以降のこともそこで語られたのだと思いますが、しかし私の記憶に強く植え付けられたのは、ほとんど今朝の御言葉の前半の、19節から21節の御言葉のみでした。ここには13項目にわたる、肉の業がなす悪徳が列挙されています。19節からお読みします。「5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」急に重たいボディーブローをお腹に受けたような衝撃を受けて、びっくりしました。聖書の言葉によって、自分の汚い腹の内を神様に見透かされた思いがしました。恐ろしいと思うと同時にとても恥ずかしく、聖書のこの御言葉を直視できませんでした。そんな中、ちょっと薄目を開けて、改めてこの御言葉を目で追いながら、ああ自分はまだ未成年だから、泥酔と酒宴だけはやっていないぞと思いながらも、しかし、ここで言われていることは全部この自分の腹の中にあることであり、これは紛れもなく私のことだと、この御言葉からは逃げられない。完全に白旗を挙げて、敗北宣言をせざるをえませんでした。しかし、本当に誰が、平常心でこの言葉を読むことができるでしょうか?
けれどもこの御言葉は、卑しい肉の業を積み重ねて生きている私たちの罪を暴き、訴追することを目的に語られているのではありません。そうではなくて、この私たちは今や、そのような罪の数々から自由にされているのだ、という恵みを語るのが、今朝のこの御言葉です。そこでは、今朝の御言葉の表題にもなっていますが、霊の実と肉の業が真っ向から対立して、両者が良きことと、悪しき悪徳という、正反対のものを生み出していくということになっています。そして、今朝ここで注目したいのは、霊がもたらすものが実だと、果実の実だと言われているのに対して、肉が生じさせるのは業だと言われていることです。
そして、この霊と肉は何を意味しているのかをはっきりさせなければなりません。今朝の御言葉で表現されている霊とは、それは聖霊なる神様のことです。また、肉と表現されているのは、古い、昔の、イエス・キリストを知る前の古い自分のことです。聖書はその、キリストに出会う以前の私たちの状態を、古い人と呼びます。その古い人については、先週も、他人との比較、競争原理についてお話ししましたけれども、今朝お読みした旧約聖書のコヘレトの言葉には、4章4節で、「4:4 人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。」と言われています。コヘレトの言葉には、古い人の努力目標であり生きる情熱は、仲間に対する競争心を燃やすことから来ているのだ、というリアリティーが、もう紀元前の昔から変わらない人間の性分として、聖書に語られています。そういう古い人が、お互いに噛み付き合い、共食いし合い、挑み合い、妬み合うのです。そして、そういう古い人がやることなすこと、仲間に対する競争心を燃え立たせて、自らの中から生み出す業が、まさに19節から列挙されている、明らかなる肉の業、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、なのです。そして、そんな風にして挑み合う古い人は、当然神の国を受け継ぐことができないのですが、しかしパウロがここで訴えていることは、ガラテヤ教会の人々は、また板宿教会の私たちは、もうその古い人、肉の人ではないということです。なぜならそれは、24節です。「5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」この24節の肉という言葉を、古い人、古い自分という言葉に置き換えて読むことができます。つまり、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、古い自分を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」そうなのです。洗礼を意味するバプテスマというギリシャ語には、人を水の中に沈めるという意味があります。つまり私たちは、洗礼を受けた時に、古い自分を水の中に沈めて、その私たちの古い自分とその罪を丸ごと十字架の死によって担ってくださった主イエス・キリストもろとも、沈めて殺したのです。洗礼を受けた時、私たちは、いったん沈められて、しかし今度は新しい、命の聖霊を身に受ける自分に生まれ変わりました。
卑しい悪徳だらけの、どんなに変わりようのない人生でも、この人生のなんと変わり映えのしないことか。いつまでたっても変わらず成長しないこの自分の何という愚かさ愚鈍さよと、自分自身にため息が漏れるような私たちの重たい現実があります。しかし、それが変わるとしたら、それは神様の聖霊の力によって変えていただく以外の方法はありません。そして、これこそが、最も強力で確実な、人生を180度変える、人生の転換方法です。
25節です。「5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」「霊の導きに従って生きているなら」、と訳されている言葉は、「霊の導きに従って生きているのだから」と訳せる言葉です。古い自分を情欲や欲望もろとも十字架に付けてしまった私たちは、聖霊の導きに従って生きているのだから、霊の導きに従ってまた、前進しましょう。悩みうずくまっている必要はない。聖霊を受けた私たちなのですから、前に進んで行きましょう!と、そういう励ましの御言葉が、恵みの手紙が、私たちに向けて今朝届けられているのです。
そしてそこまで行って初めて、22節23節の言葉を本当に理解することができます。「5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23
柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」聖書の福音は、この自分を打ちたたいて、この心にある欲望悪徳をとにかく無理やり押さえつけて、人を厳しく縛り上げる言葉ではありません。姦淫するな!偶像礼拝するな!噛みつき合うな!怒るな!妬むな!酒を飲むな!そういう悪いことはせずに、あなたは喜べ!寛容になれ!親切にせよ!柔和で誠実であれ!そして節制をせよ!そうじゃなければクリスチャン失格だ!とは、聖書もパウロは言っていません。これはそんな手紙ではありません。
そうではなくて、あなたがたはもう既に、古い人を脱ぎ捨てた、新しい人であると。イエス・キリストの霊である聖霊を受けた、聖霊の実を実らせる人なのですとパウロは言います。肉の業の方の業とは、自分の力で成し遂げる行いであるわけですが、22節に霊の結ぶ実と言われていますように、新しい人が与るのは聖霊が実らせてくださる実りですから、それは自力で無理やり頑張って実現させる美徳ではなくて、聖霊を受けている私たちの身に、聖霊の力が実らせらせくださるものなのです。
フィリピの信徒への手紙に、「2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」という言葉がありますが、そのように、神様が、聖霊によって、私たちの内側に働いて、御心のままに、私たちに望ませ思いを導き、そして行わせてくださる。
この天地を作られた神様が、聖霊なる神と組んで、私たちの内側に働いて、愛と、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を、聖霊の結ぶ実として実らせてくださる。私たち自身の力では不可能な状況でも、神様がそれを実らせてくださいます。私たちはその聖霊の力を信じてよい。私たちは何で生きるのか?この聖霊で生きる。聖霊に信頼して前進して歩んで、生きて行って良いということです。
そして最後に26節の言葉が付け加えられています。「5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」これもまた本当にドキッとします。聖書は、私たちのこの教会のことを良く知っていて、本当に全てお見通しです。しかし私たちは既に、古い自分を十字架に付けた、日々新しく聖霊を注ぎ受けている私たちです。ですから、うぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりする代わりに、愛によって互いに仕え合いたいと思います。
そしてそれは、具体的にどういうことなのか?それは、日々自分を神様によって作り変えられ、主イエス・キリストに、似させられていくことです。アメリカ留学中に勧められて読んだ本に、10セカンドルール、10秒ルールという本がありました。それは、先のことは特に考えずに、ただ目の前にある10秒間ごとに、神様の御心に適う、最も良い行動を選び取っていこうという本でした。そのように考えると、本当に毎日が、毎朝が、毎10秒ごとが、古い人ではなく、新しい人として、聖霊で生き、生かされるための、たえざる挑戦、チャレンジになります。日曜日がこうして七日ごとにあることにも感謝したいと思います。放っておいたらすぐに古い自分が顔を出して、自分を以前の生き方に引き戻そうとして、本当にそこで引き戻されてされて、引きずり回されてしまうのですが、しかし何とか、最低一週間に一度のこの日曜日ごとにはここに帰ってきて、外からの御言葉を聞いて、軌道修正させれられて歩んでいく。聖霊を受けているのだから、聖霊で生きるというこの地点にここで戻されつつ、前進する。本当に行きつ戻りつでいいので、少しずつでも、聖霊なる神様が、板宿教会と私たちの内側で大きくなってくださり、力を発揮してくださり、愛と喜びと平和と親切の実りを、より多く私たちに実らせてくださるように、神様の助けを祈ります。