2022年7月17日 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節 「真の生き方」
お蔭さまで、という言葉があります。他人の助けや助力を感謝するという意味の言葉です。そして、今朝のこの御言葉が指し示している事柄も、お蔭さまで、というこのことだと思います。ただその時、今朝の御言葉は、人のお蔭さまで、ということではなく、主イエス・キリストのお蔭さまで、という事で考えるのが今朝の御言葉です。イエス・キリストのお蔭さまで、今の自分がある、今のこの自分が置かれている環境がある、イエス・キリストのお蔭さまで、この周りの人々が居て、この教会があり、その中に入れられているこの自分がある、という風に、今朝の御言葉はて徹底して、全ての事をイエス・キリストのお蔭さまで、という事で考えています。そうしたらどうなるのでしょうか?そうしたら、色々な良いことが起きますが、何よりも今朝の御言葉が語るのは、そう考えた時に初めて、私たちは、人を赦せるようになるということです。
「真の生き方」という、説教題を掲げていますけれども、私は今朝、正しい生き方のセオリーなり、法則のようなものを、聖書から導き出して語るのではありません。今朝の御言葉には、もっと具体的で、ここにいる私たち皆の生活と、私たちのこの教会に直接関わることが語られています。
そしてその具体性は、今朝の最初の6章1節の言葉からいきなり見えてきます。「6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」
最初に兄弟たちと言われていますけれども、女性は関係ないという事ではありません。4年前に出された聖書協会共同訳の聖書では、この兄弟という言葉がひらがなで記されています。それは、これが、教会の兄弟姉妹たち皆に対しての呼びかけの言葉になっているからです。パウロは教会の兄弟姉妹たちに何を呼び掛けているのかというと、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。」という呼びかけです。
教会の兄弟姉妹たちの内の誰かが、不注意にも何かの罪に陥るなら、と言われています。先週の御言葉に、13個の罪と悪徳のリストが出て来ましたので、ここでの罪とはそれと無関係ではないはずです。身近な誰かが、不注意にも、先週言われた罪に陥ってしまうことがある。そういうことが身近で、自分自身による罪も含めて、必ず起こることが前提とされています。
先日の水曜礼拝で、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」という主の祈りの御言葉を受け取りました。私たちは皆弱いので、「えっ、あの人が?」と思うような人がしばしば誘惑に堕ちて身を持ち崩してしまうということが度々あるように、私たちも、本当に誘惑に遭ったら、皆に囲まれ、上司に囲まれて、というようなことがこの身に起こったら、暴力に訴えられたり、何かと引き換えに、などという事が本当に起こったら、それはひとたまりもありません。自分も含めた身近な誰かが、不注意にも罪に陥るということは、起こるのです。
しかしそこで教会は、そして古い自分を主イエス・キリストもろとも十字架に付けて、新しくされた私たちは、誰かが何かの罪に陥るのを、この教会の中でも、どうしても目にすることになるのですが、そこから後の対応が、古い自分、古い私たちのころの対応とは180度変わるのです。以前だったら、噛みつかれたら噛みつき返す。挑まれたら挑み返す。敵意、争い、嫉み、怒り、利己心、不和、仲間争いという、肉の業で返すというやり方だったのが、今は、6章1節も語っていますように、“霊”に導かれて、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい、と言われます。霊に導かれて、と言われています。神の霊である聖霊は良き実を実りを実らせてくださると、先週も学びました。罪に対して、霊の導きをあてがう時、霊は、その結ぶ実として、愛と喜びと平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を実らせてくださいますから、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、この霊の実りを用いて、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい、と勧められています。
同じパウロが書いたローマの信徒への手紙8章3節には、「8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」とあります。罪を取り除くために、御子イエス・キリストの肉体を通して、神は、罪を罪として処断された。罪とは、引き裂く力、分離させる力です。ですから罪は、人と人との間と、神と人との間を引き裂くのですが、しかしその罪が、既に、イエス・キリストの十字架によって処断されて、八つ裂きにされて、力を失ってしまったという事なのです。
そしてここが、今朝の神様のお蔭さま、ということの神髄なのですが、主イエス・キリストのお蔭さまで罪が既に処断されましたので、これを理由とし根拠とするのなら、私たちの間の誰かの何かの罪が見えても、それは既に十字架で根っこから処断された罪なので、それで、その人は追放だとか、その人は神様から離れたのだという、罪の引き離す性質に、もはや訴えることは、それはできないのです。罪があっても、たとえ目の前で罪が犯されたとしても、罪が罪として既に十字架で処断された限り、その罪は、もう、その人を愛さない理由にはならない。それでその人をもう許さない。金輪際その人とは会わない。出ていけ!と言うに足る理由にはならない。むしろその罪は、その人に対して、私たちそれぞれが、より柔和な心で接し、愛と平和の心をもっと持って対処していくようになるための、スタートラインになる。
誰かに何かの罪が見えた。自分が罪を犯した。そこで終わりなのではなくて、罪を処断してくださった主イエス・キリストのゆえに、むしろそこがスタートで、愛というのは、相手が罪を犯した時にこそ、罪が人と人とを引き離そうとしている時にこそ、発動されるべきものなのです。
罪に関しては、私たちは本当にお互い様です。単純に悪いのはあっちなんだ!という話は、ここでは通りません。2節から6節をお読みいたします。「6:2
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
6:6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」
互いに重荷を担いなさいとは、他者の重荷や過ちを担うだけではなくて、自分の過ちも担ってもらう、ということです。「責任を取れ!」という言葉が叫ばれます。これが、人は皆、自分で、自分の行動や言葉についての全ての責任を取るべきであるという言葉だとしたら、そんなことは不可能です。毎日いろいろなところでやり散らかして、人に迷惑をかけ散らかしている自分の罪の責任を、私たちは自分で取ることはできません。ましてや、私たちは、人や神様にお返しして当然の、感謝さえ、十分に示すことができていません。
私たちは、もしかしたら、自分は独りで生きている。毎日大変だ、なぜ私ばかりが不幸なのかと、思っているかもしれませんが、そう思っていたらそれは全くの事実誤認で、全くそんなことはないのだと思います。私たちは、自分で自分の言動に責任が取れませんので、その分、本当に神様に、たくさんの周りの人に、支えてもらい、助けてもらい、迷惑をかけ、重荷を担っていただいて生きている。しかしそのことの、感謝が足りず、「ありがとう」が全く言い足りていないと思います。
でも本当に私たちは、特にこの教会という神の家族の中で、自分で思っている以上に、互いに重荷を担い合う関係の中にいれられていて、本当にそのことは、人生の中に生じる、当たり前ではない大きな幸せなのだと思います。
けれども、何と言っても、私たちの間におられる主イエス・キリストは、素晴らしきかな!この方は私たちの負の責任を責任転嫁させてくださり、それを御自分にすべて引き取ってくださいました。そして本当にこのイエス・キリストのお蔭さまで、私の罪も、人の罪も、皆の罪が処断されましたので、罪が罪として、既に十字架に責任転嫁されましたので、それゆえに、私たちに柔和さが生まれます。自分の責任さえ取れない私たちですが、しかしそこに初めて、キリストのお蔭さまで、重荷を担い合うという恵みが生じる。そして、人を赦す。人を愛す。人に、神様に、良きことを感謝して返すという霊の実りが、初めてそこに生まれるのです。7節から9節をお読みいたします。
「6:7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。6:9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」
「人は自分の蒔いたものを、また刈り取る」と言われています。今日これから、私たちは何を蒔くべきでしょうか?たゆまず善を行いましょう。と勧められています。そして、飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになると言われます。これは、たとえ今善を蒔いても、今すぐに善が実りとして帰ってくるわけではないということです。時が来れば、とありますので、その時が来るまでは、今赦しても、すぐにそれが実って打ち解けて、喜びを刈り取れる状態が来るかと言えば、現実はそううまくはいきません。使徒言行録を読めば分かりますが、パウロ自身も何度もそういう経験をしています。しかし、相手が反省したから赦すとか、霊の喜び実りがこっちにまずやって来たから、こっちも同じように善を蒔こうとか、そういう話ではありません。結果は神様に委ねて、たゆまず飽きずに善に励むのです。
昔、かつての私の神学生時代に、同僚の学生たちと、もし水曜礼拝でやっているハイデルベルク信仰問答のような、そういう信仰問答を自分たちが作るとしたら、どういうものを作るだろうかと話していました。そこで、最初の第一問の始め方については色々な意見が分かれたのですが、最後の問いと答えの、一番最後の言葉については一致しました。「すべては、キリストによってチャラです。」これで行こう!結局はそうなるよね、と笑い合ったのを覚えています。
パウロがここで言いたいことも、こういうことだと思います。繰り返しになってしまいますが、もうあなたたちは、キリストに贖われて、古い生き方を捨てたのだから、兄弟姉妹の間で色々あったとしても、あなたたちは、それらすべてをチャラにできて有り余るほど、キリストのお蔭さまで、今生きている。だから、どんなに腑に落ちなくても、納得がいかなくても、ここから刈り取る実りが自分にとって何もないと思われても、でも、すべてを十字架でチャラにしてくださったイエス・キリストのお蔭さまで、この自分の罪も、人の罪も、既に、全てが、もうキリストによってチャラなのです。
パウロは、エフェソの信徒への手紙でも、そこでは夫婦関係を取りあげて、妻は主に仕えるように自分の夫に仕え、夫はキリストが教会を愛して、御自分を捧げられたように、妻を愛しなさいと、そこでも相手を見るよりもイエス・キリストを見て、キリストのお蔭さまで、結ばれたのだから、妻が、夫が、相手がどうこうということを超えて、互いに愛し合いなさいと勧めています。
私たちは、イエス・キリストを知る前の古い生き方、古い自分はもう捨てたのです。今は、本当にイエス・キリストにあやかって、主イエス・キリストが与えてくださる全てを受け取って、イエス・キリストのお蔭さまの私たちお互いとして、以前とは違うように生きる。
今朝の最後の10節です。「6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」折角のこの命、折角の、それぞれに与えられた、この限られた人生の時間に、何をしますか?今日からどうやって生きますか?「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」私たちが生きる道は、ここにあります。