2022723日 ガラテヤの信徒への手紙61118節 「新しく創造される」

  ガラテヤの信徒への手紙の最後の御言葉になりました。手紙の執筆者であるパウロは、手紙の終わりに相応しい今朝の御言葉によって、この手紙をしっかりと締めくくっています。 そして、この手紙の締めくくりでパウロが強調していることは、これは、他の手紙でも重ねてパウロが語っていることでもありますが、私たちの誇りはどこにあるのかという問題です。

 今朝の御言葉には、誇りという言葉が二度出て来ますが、それらはいずれも、誇りという、英語で言えばprideという名詞ではなく、誇る、あるいは自慢するという動詞の、英語で言えばboastという言葉です。

 私たちの自慢は何でしょうか?「自慢ではないが、私は~です。」などと言ったりしますけれども、今のあなたの自慢は何でしょうか?ここでの誇りとは、それによって今の自分が生きている、支えられている、その存在の根拠に関する問題です。その自分の拠って立つ、自分の支えとなるような、自分の誇りが、果たしてでどこにあるのかと、パウロは最後に改めて、私たちに問いかけてくるのです。

 

 そして、パウロが論難している相手は、今朝の12節や、13節にありますように、「肉において人から良く思われたがっている」「あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を望んでいます。」と、言い表されています。

 パウロの論敵たちの自慢は、そして拠って立つ支えは、肉の体に刻み付けられた割礼でした。彼らが割礼を受けるということは、それは、もともと割礼の習慣のない、このガラテヤの人々、今で言うトルコに住んでいたクリスチャンが、紀元前から割礼というものを確固たるものとして守ってきたユダヤ人たちのようになることであり、外国人が、ユダヤ人化して、ユダヤ人の規準に合わせて生きていくということを意味していました。

 12節にあります「肉において人から良く思われたがっている」とは、エルサレムにあるユダヤ人による、いわば本家の本元のエルサレム教会に、「おおっ、ガラテヤの人々は外国人なのに、われわれユダヤ人と同じように皆が割礼を受けているのか。それは素晴らしい!あなたたちこそ本物のユダヤ人の魂を持つ救いの民だ!」などということを言われて、お褒めに与りたいがためだったのです。だからこそ13節にあるように、そのよくないリーダーたちは、自分だけでなく、あなたがたガラテヤの一般の信仰者たちについても、割礼を受けることを求めていて、そうやって、それを自慢の種にして、ユダヤ人たちにおべっかを使おうとしていたのです。

 

 つまりこれは、割礼によって、彼らが一体何を守ろうとしていたのか?という問題です。そこまで考えれば、12節の意味が分かります。改めて12節の御言葉です。6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。」

パウロに反目するガラテヤ教会のリーダーたちは、エルサレムの本部の教会に対する、またユダヤ人の12使徒を中心とした重鎮たちに対する、自分たちの体面と、評価と、ポジションを守ろうとしていました。

先週も、ある牧師との対話で、どうしても保守的になってしまう改革派教会の大会や、教会のあり方に対して、私たちは、一体何を守ろうとしているのか?という話になりました。これは教会だけでなく、色々な場面に当てはまると思いますけれども、ともすれば私たちは、本質的でないものを守ろうとしてしまう。あるいは組織や体面を維持しようするあまり、本当に守らなければならないものを、知らず知らずのうちに損なってしまう、ということがあるのではないでしょうか。

 

 しかし、決してキリスト以外のものが、私たちの福音になってしまってはならないのだと、パウロは、恐らくさらに大きく、太字で、14節を書き記したのだのだと思います。6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」

 パウロは、まずもって自分自身の事として言います。つまり、私に何か自慢があるとしたら、何かの誇りがあるとしたら、それは、ただ、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外の、何ものでもあってはなりません、と。

 どうでしょうか?ただ十字架だけを誇り、それ以外の誇りを持たないとは、どういうことでしょうか?パウロのこの言い分に私たちは付いて行くことができるでしょうか?

 

 一般によく、「自分を信じる。」「自分を信じで頑張れ!」などと言われますけれども、ここで言われていることは、その逆のことです。

実はパウロも、最初からこのようであったわけではありませんでした。彼には、当時においては最高の家柄、教育、学歴、ユダヤ人教徒としての実績がありました。他の所でパウロは、仮に私が自分の実績で勝負したなら、私に勝てる人はきっと誰もいません、と言っています。彼もかつては、そういう自分を信じて、そういう自分を誇りとして生きていました。しかし、イエス・キリストに出会って、パウロはその自分の誇りを打ち砕かれました。そして今は、それらの自分の誇りと自信は、ただの塵あくたに過ぎないと、つまりゴミ切れ同然だと言い切ります。そして、今朝の御言葉でもそうですけれども、誇る者は、自分ではなく主をこそ誇れ、と言うのです。

 

 パウロが14節で大きく提示している、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」、これは元来、誇れるようなものではなくて、人間の罪と、その罰と、神の怒りの裁きと死そのものが剥き出しで現れる場所であり、誇るどころか、思わず目を背けたくなるのが、主イエス・キリストの十字架の現実です。

 しかし、人が、自分の無力と、自分の罪と汚さに本当に向き合わされた時、まさにその時に、そういう自分が寄りかかることのできる杖として、私たちの隣りにあって、倒れる自分を支えてくれる支えが、それこそが何よりこの十字架で、そこで十字架以上に強力で確実な支えは他にありません。

 

 「自分を信じる」では、やっていけない時が来ます。私自身にとっては、阪神大震災の時、この板宿教会での避難所ボランティアをした時がその時でした。ボランティアをしながらある時力尽きて、悲しくて、被災した方のために、被災地のために、何かをしようにも、全く何もできない己の無力。ボランティアとして、何かで助けられたらと思ってここに来ていながら、かえって迷惑をかけているような始末、その中で自信もへったくれもあったものではなく、本当に心が折れて、辛くて、立ち上がる気力さえ失って、ただただ涙が流れるという状態になってしまいました。しかしその時に、自分にとっては初めて、十字架が分かった。こんな自分は信じられない。こんな自分は、全く寄り頼むに値しない、この自分の力では生きていけない。自分の力を振り絞ろうとも、自家発電ではもうこれ以上生きられないと悟った時、その瞬間に私は十字架を思い出し、私が生きて行くための命と力を、主イエス・キリストが、十字架の上から私に注ぎ込んでくださっているのだと分かりました。もう自家発電ではなく、十字架から命を受けて、その命で私は生きていけばいいのだと。私はそこで一回死んで、しかし、十字架の上から主イエス・キリストの心臓が、新しく自分の中に移植されたような感覚を味わって、自分が生まれ変わったような経験をしました。

 

 16節の「新しい創造」とは、こういうことではないかと思います。先週、お蔭さま、という言葉を語りましたが、自分が、誰かの、何かのお蔭さまで生かされているのだと本当に思い知らされた人は、お世話になり、自分を助けけてくれた、そのお陰さまで九死に一生を得た、その相手のことをこそ誇るのです。割礼の有無とか、何かの守られなければならない体面とか、全くそういうことではなく、新しく創造されること。生まれ変わること。イエス・キリストの十字架から、私たちがキリストの命をいただいて、新しく生きるようになったこと。これこそが大切で、そのことこそが私たちの自慢であり誇りであり、それが、こういう自分でも、キリストに支えられて、今日も生きていけるぞ!と思える、自分を支える自信になるのです。

 

 パウロは最後、私たちをとことん励ましてくださいます。16節から17節です。6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」

 パウロ自身は、既に割礼を受けていましたが、しかし割礼よりも、ここで、marks of Jesus on my body.と、イエスのしるしをこの体に刻んでいると言いました。イエス・キリストこそ、割礼以上のものであると。そしてパウロは、最後の18節の御言葉によって、私たちのこの霊に、つまり私たちのこの魂に、イエス・キリストの恵みを、まるで割礼であるかのようにして、刻み込むと語っています。そしてその言葉と共に、最後アーメンと言って、パウロはこの手紙を締めくくります。18節です。6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」

 焼き印は、焼き印ですから、一生、何をしても消せない印です。そして私たちは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みの、消えない焼き印を、この魂に受けているのです。

ですから今、パウロと共に宣言し、共に祈りたいと思います。「この板宿教会の兄弟姉妹たちの上にも、この御言葉を受けるすべての人にも、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、限りなく、永遠に、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」