2022731日 ペトロの手紙一112節 「選ばれた人たちへ」

 今朝からペトロの手紙一の御言葉を御一緒に読んでいきたいと思います。ペトロの手紙は、一般に公同書簡と呼ばれています。公同とは、私たちが使徒信条で、聖なる公同の教会、と信仰告白をしている、あの、公に、同じと書く公同書簡です。

 ペトロの手紙は、そのような公同書簡のひとつですので、先週まで読んできたガラテヤの信徒への手紙のように、ガラテヤならガラテヤという、ある特定の教会に向けて書かれた手紙ではなく、たくさんの教会で回覧されるようにして、公のアナウンスをたくさんの教会に伝えるという目的で書かれました。

 書いたのは十二使徒の筆頭であったペトロです。しかし、この手紙の512節に5:12 わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。」とありますように、実際にはペトロの秘書のような働きをしていたであろうシルワノという人物が、ペトロの語っていたことをもとに、使徒ペトロからの公の公同の手紙として、これを書き記したと思われます。ご存じ様に、ペトロはイスラエルの北部ガリラヤ地方の、田舎町の漁師出身でした。よって恐らく、当時の国際公用語であったギリシャを使うことができなかったと思われます。しかしシルワノの助けによって、新約聖書の中でも有数の、格調高くすぐれた文体で、このペトロの手紙が書かれたのです。

 書かれた時期と場所については、先程の512節の次の13節に、5:13 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」と書かれています。バビロンとは、そのまま読めばネブカドネツァル王がいたイラクの方のバビロニアを指すのでしょうが、これは、当時の迫害下で、ヨハネの黙示録も同じようにして用いている比喩で、バビロンとは、実際にはかつてのネブカドネツァル王のごとき皇帝が君臨していたローマ帝国の首都ローマを指すと思われます。そして手紙が書かれた時期としては、紀元64年のローマで、悪名高い皇帝ネロのキリスト教徒迫害によってペトロが殉教させられた、その後だと思われます。

 また、このペトロの手紙一の特徴として最初に挙げておきたいこととして、この手紙には、生きるという言葉、そして希望、望むという言葉が、この短い手紙でありながら、福音書に匹敵するか、あるいはそれ以上にたくさん語られています。最後には苦難の中で殉教した、私たちもそれぞれよく知っているあのペトロの名が冠せられて聖書に収められている唯一のこの手紙が、生きる、生まれる、希望、望むと繰り返し語り続けるのです。

 主イエスと3年間寝食を共にし、何度も失敗し、十字架の朝には三度も主イエスを裏切ってしまったペトロが、パウロのように目覚ましい聖書知識や、論述や神学の才能があったわけではない彼が、迫害との闘いの前線に身を置きながら、背後にいる諸教会に生きる希望の言葉を届けた。これは、コロナウィルス禍と悲惨な戦争が進行し、宗教の名を語る犯罪的な集団とその被害に遭う多くの人々、政治の腐敗。こういう今の世の中を信仰者としていかに生き、何に希望を置いて歩むべきなのかを掴むために、このペトロの手紙の御言葉は、私たちが本当に今こそ聞くべき、大切な御言葉であると思います。

 

 そこで、11節の御言葉から受け取っていきましょう。1:1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」

 まず、イエス・キリストの使徒ペトロから、という出だしが力強く、また重く響いています。使徒と名乗ることが許されているのは、主イエス・キリストの12人の弟子と、パウロだけでした。彼以上に、主イエス・キリストに触れて、見て、知っている者は他にいないペトロから、選ばれたexileたちへ、亡命者、国外追放者たちへ、という呼びかけで、手紙は始まっています。そしてその選ばれている人たちはどこに亡命し、どこに離散して仮住まいをしているのかというと、それはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地方一体なのだと言われています。これは驚くべき広がりを持った地域です。今で言えば、黒海沿岸の北部の地域までを含めた、トルコの国をすべて飲み込むような広い地域です。そこに仮住まいをするように選ばれた人たちとは、誰の事でしょうか?それは、そこに居ながら、エルサレムで十字架に架かった救い主主イエス・キリストを信じて、クリスチャンになった、ユダヤ人ではなく、異邦人の改宗者たちのことです。

 

 しかしなぜ、トルコの地で生まれ育った人が、そこに建てられた教会に通うようになって洗礼を受けてクリスチャンになったら、それがなぜ、亡命者になり、ちりぢりに離散して仮住まいという身分になるのでしょうか?この問いへの答えは、1節にも2節にも語られていて、今朝の説教のタイトルにもなっている「選ばれた」ということに起因します。一つの文章が少々長くなっていますが、2節の御言葉を、さらに丁寧に読みたいと思います。1:2 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」

 原文では、あなたがたは選ばれた、という言葉が先にあり、選ばれたという動詞を就職するかたちで、そのあとの3つのことが語られています。

一つ目は、あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、選ばれた。他の聖書では、父なる神の予知によって選ばれた、と訳されています。予知とは、予知能力の予知のことです。私たち、洗礼を受けたクリスチャンたちは選ばれた。それは私たちが父なる神のことを知って、私たちがこの神様を選択したのではなく、父なる神が私たちのことを予知して、あちらから予め私たちのことを知ってくださっていて、その上で、こちらを知っておられる神様が、私たちの計画ではなく、神がお持ちの御計画に従って、私たちを選ばれた。

 二つ目には、霊によって聖なる者とされて、選ばれた。他の聖書では、御霊のきよめに与って、とも訳されています。このことから、多くの解説者たちは、この御霊によってきよめられるとは、洗礼のことを言っていると解釈しています。

 そして最後三つめの事として、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれた。ペトロは、恐らく主イエス・キリストの十字架の現場を、どこからか見ていたのではないかと思います。先日、ある人が指を包丁でざっくり切ってしまって3針縫ったという話を聞いて、それを聞いただけで体に鳥肌が立ったのですが、実際に十字架で血を流している主イエスを見たなら、そこで胸に感じるのは、何よりそこにある痛みだと思います。もちろんペトロは、主イエスの十字架の血を浴びるまで近くには行けなかったと思うのですが、自分の裏切りによって十字架を防げず涙したペトロにとって、主イエスの血は、これ以上ないほど、彼の心の痛いところに注ぎかけられる血であったと思います。

 この主イエス・キリストの十字架の血が、私たちにどう働くのかが、ヘブライ人への手紙の9章に記されています。9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、9:14 まして、永遠のによって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」ペトロは、自分も含めて、主イエス・キリストに出会ったあなたがたは、イエス・キリストの十字架の血を注ぎかけられるために選ばれたのだと語ります。ペトロの裏切りで、私たちの罪が、自分のせいで、主イエス・キリストが十字架で痛んで、血を流されたにもかかわらず、その血は、私の痛みを代わりに受けて、私たちの罪を洗い、この身も心も全てを清めてくださるためのキリストの血だった。あなたにもその血を注ぎかけるために、神様は計画に基づいて、あなたを選んだ。

 何度も語られていますこの選ぶという言葉は、英語で言えば、pick outという、えり抜く、引き抜く、良いものだけを抜擢するという意味の言葉です。ペトロは、自分のことを、決してただの失敗者だとか、ただの裏切りの前科持ちの12弟子失格者だとは考えていません。そうではなくて、確かに彼は失敗はしたけれども、主イエス・キリストはそれを見越して、その弱さも知ったうえで、全部込みで、彼の失敗よりももっと大きな赦しと愛と、霊のきよめを与えるべく、自分を特別に選んでくださって、見捨てず、見放さずに、大事に愛してくださっている。だからこそ主イエスは自分に血を注ぎ、十字架の血を分け与えてくださったのだと、そういう自分の特別さ、ダメな自分を大きく包み込む、主イエスの愛の自分への破格の抜擢を、選びを、ちゃんと掴んで、知っていました。

2節に、「イエス・キリストに従い」とあるように、だからこそ、その抜擢に応えて、ペトロも、私たちも、イエス・キリストに従うのです。

 

少し立ち戻って考えてみたいのですが、洗礼を受けて、クリスチャンになることによって、何か良いことはありましたか?何が嬉しくて、私たちはクリスチャンになるのでしょうか?どんな喜びがあるから、私たちは主イエス・キリストに従うのでしょうか?

今朝も私たちは、主の祈りの終わりで、「国と力と栄えとは限りなく汝ものなればなり。」と祈りました。イエス・キリストに従う時には、私たちは国籍は日本人であっても、神様の国に属する者になって、落ち着き先を天国に持つようになりますので、ある意味、この世では寄留者、亡命者、よそ者、仮住まいの身になります。洗礼を受けるということは、ある意味で危険なことです。それによって、この世の中で通用するような、力や栄えを、それは失うかもしれない。そういうものを、その人はもう誇らなくなり、ただ神を誇るようになる。ペトロも、主イエスと同じように、国家当局への反逆者扱いをされて、伝説では、ペトロは主イエスと同じ十字架に架かるのは、余りにもおこがましいと恐縮して、逆さ十字架に架かって殉教したと伝えられています。ペトロもその意味で、世の中に対しては完全にアウェイの立場を立って、しかし命尽きるまで主イエスに従って、殉教しました。

クリスチャンになって、社会的に何か良いことがあるのかと問うなら、福音に対して逆行するようなこの社会の中では、それはないかもしれない。状況としてはむしろ、社会的には少数者になって、不利になるかもしれない。悲しみを募らせるようなことが逆に起こるかもしれないし、信仰ゆえに殉教者的な精神を求められることも、今の世の中を見ていれば、この先起こってくるかもしれない。ではなぜ私たちは、そんな中でクリスチャンになり、それをまた今週もやめることなく、生きて行こうとしているのでしょうか?それは、選ばれたからです。

まさに今朝の2節が語る通りです。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」

主イエス・キリストだけを見ている。この点は、先週までのパウロも、今朝のペトロも全く一致しています。150万人もいる神戸市の中から、主イエス・キリストによって、あなたがたは、確かに選ばれたのです。ここに今座っている。この動画を今見ているということは、あなたが選ばれたことのしるしです。

そして、自分が選ばれた。神様に自分は選ばれていると知ることは、人を傲慢にせずに、かえって謙遜にします。ペトロもそんな思いだったのだと思います。こんなダメダメな自分でも、12弟子の筆頭として、使徒として、主イエス・キリストに選んでいただいた。敵前逃亡するようなこんな臆病な自分が、今や殉教までしようとしている。だから、そうやって、主イエス・キリストに選ばれた者として、苦難をも乗り越えて力強く生きて行くということが、あなたがたにできないはずがない。

だからこそペトロは2節の終わりで、ここからまた歩み出す私たちに手を添えて、この言葉と共に背中を押してくれるのです。選ばれた人々よ、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」これは、選ばれた全ての人々に対するエールです。選ばれたあなたがたには、主イエス・キリストの恵みと平和が、ますます豊かに与えられます。異邦人と呼ばれようが、人から何と言われようが、イエス・キリストの恵みと平和を豊かに与えられながら生きる。これ以上の生き方はありません。