202287日 ペトロの手紙一139節 「信仰があなたを生かす」

 先週からペトロの手紙一を読み始めましたけれども、早くも今朝の御言葉でこの世は根の手紙一が最も強く私たちに訴えようとしている核心部分が語られます。そして、この今朝の御言葉をしっかり心で掴むなら、決して大袈裟でなく、それぞれの人生が変わる。生き方が変わると思います。是非私たちは、これから皆で、ペトロの手紙の御言葉によってそうなりたいと思います。

 ではなぜ?どうやってこの人生が変わるというのでしょうか?ペトロの手紙は、私たちの人生に起こりくる「苦難」の受け取り方を変えることによって、この人生を劇的に変えてくれます。その証拠に、このペトロの手紙は、苦難を苦難と言わず、「試練」と言い換えます。そしてその際にこの手紙は、苦難という言葉を、ただ一度、111節にだけ使って、そこで苦難を、主イエス・キリストに押し付けるようにして、苦難をキリストだけのものにしてしまいます。つまり、私たちの全ての苦難は、英語で訳せばそれは、ダメージとかトラブルという言葉になりますが、それはすべて主イエス・キリストに移されます。それによって、私たちが経験する苦難は、この手紙では「試練」という言葉に置き換えられます。そして試練とは、苦難とはまた別の言葉で、英語で言えばテストとかトライアルと言う言葉です。つまり苦難がトラブルやダメージではなくて、テストになる。これで、ペトロは私たちの人生を劇的に変えようとします。なぜそんなことができるのでしょうか?なぜそんなことをさせようとするのでしょうか?なぜならペトロは、ペトロ自身がそうなったから。自分がそうだったからです。

 

 これは十二使徒の筆頭ペトロという権威ある使徒からの、教会に向けての公同書簡という、オフィシャルな手紙です。カトリック教会の教皇は、今でも回勅と呼ばれる使徒的書簡を、全世界のカトリック諸教会に宛てて、年に数回、正しく公同書簡として公布しています。それには色々な教会法上の変更や解釈についてのことや、今年3月に出された回勅では、性的虐待が教会で起こった時、それについての調査や対策の方法などが指示されています。カトリック教会は、私たちプロテスタント諸教会とは違って、教皇をペトロの後継者として、現代に生きる使徒だと見なして、公同書簡を発布する権威を教皇に与えています。そういう意味では、教皇の回勅よりももっとずっと権威のある、元祖12弟子の使徒ペトロの、聖書に収められている唯一の公同書簡が、この御言葉ですので、その意味ではもっとペトロはここで大きなことが言えるはずで、元祖の使徒としての剛腕を振るえるはずなのですが、しかしこの手紙には、権威を盾にして、上から語り下ろすような言葉はありません。そうではなくて、この元祖の公同書簡の中でのペトロは、本当に謙遜で、また親身になって、教会を精一杯の力を込めて励ましています。先週も語りましたけれども、恐らくこの手紙は、ペトロのがローマで殉教して死んだあと、秘書のシルワノがまとめて、諸教会で回覧するために、ペトロの名前で書き送った手紙だと言われていますので、この手紙を受け取る人々の脳裏には、ガリラヤ湖で魚を漁る漁師からスタートして、最後はローマで殉教するまでの、波乱万丈で色々あったペトロの全生涯が、思い出されていたはずです。そういう状態で、いわばペトロは、苦難も試練も失敗も救いの喜びも恵みも、すべて含んだ自分の人生をまな板に乗せて、酸いも甘いも全てさらけ出して、その上で、全教会への公同書簡として、神に選ばれた全ての人に宛てて、自分の全生涯を具体的な題材にしながら、絶筆となったこの手紙を送っているのです。これがペトロの殉教直後にしたためられた手紙であるならば、手紙を受け取って読む諸教会の人々は、主イエスと同じようにして処刑されたペトロへの涙無くして、これを読むことはできなかったのではないかと思います。そんな、つい最近死んで天に昇ったペトロが、しかし今、この手紙を通して教会に向けて、なお生きた言葉をもって語っている。それがこの手紙です。

 

 苦難と言っても並の苦難ではなく、死ぬほどの迫害を受けて、実際に殺されてしまったペトロが、しかし今朝の3節の言葉をもって、高らかにこの手紙の本文を語り始めます。3節から5節は、長いひと続きの一文になっていますので、3節から5節をお読みいたします。1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」

 このペトロの手紙のクライマックスが、いきなり語られます。Praise be to the God!神がほめたたえられますように!で本文が始まります。

 ではなぜ「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように!」なのかというと、その理由が、そのあとに語られていますように、神が豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださったからだ、というのです。

 朽ちず、汚れず、しぼまない財産など、この世の中は存在しませんが、天にはそれが蓄えられている。この世の財産を超越したその財産とは何か?それが、その前の文章にある、主イエス・キリストの復活によって、私たちが新たに生まれさせられることによって得られる、死を超えた復活の命です。復活以上の財産はありません。死んでもまたそれを超えて復活して、新しく生まれ生きるという、この復活以上にすごいことはありません。それが、主イエス・キリストの復活を通して、私たちに与えられた。どんなに殺されても朽ちず、どんなにおとしめられても汚れず、どんなに破壊されようともしぼまない、これ以上ない復活という財産が、私たちのために天に蓄えられている。それを知ったら、そのこと以上の希望の根拠は他に存在しないので、生き生きとした希望、絶対に死滅しない、絶望に終わらない希望が、そこに来る。これは、殉教して天に召されたペトロが、天国で、そこで生きて実際に味わっている希望です。本当に、神は褒むべきかな!でしかない!

 ですから、もう結論は決まっているわけです。この天国でのしぼまない財産が、ペトロも含めた、私たち皆のゴールです。5節はそれを語っています。1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」あなたがたは、今既に、その結論を目指して進んでいます。だから、その準備されている結論、ゴール、救いに至るために、まっすぐに進みなさい!ということです。もう本当にこの線で、イエス・キリストの死と復活にあやかって新たに生まれさせられた私たちの道は、決定されている。天に準備されているしぼまない財産への希望という線で、道は決まっているのです。5節の最後の部分の言葉には、またあとで、説教の最後で帰ってきたいと思います。

 

 そして、だからこその、次の今朝の6節です。1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」この希望と、天のしぼまず殺されない、復活の命、それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいる。説教の始めで、この御言葉によって人生が変わると言いましたが、御言葉によって人生が変わるポイントは、この67節です。この6節には日本語の翻訳の問題があるので、そこを少し修正したいのですが、6節後半の、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、」という言葉を、括弧に入れて、6節前半の、「それゆえあなたがたは、」のあとに挿入して読んでいただきたいのです。よって、そうやって順番を直して6節を改めて読むと、1:6 それゆえ、あなたがたは、〔今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、〕心から喜んでいるのです。」となります。私たちの人生は、ここで変わります。

 つまり、天のしぼまず殺されない、復活の命の希望がある。それゆえに、あなたがたは、今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばなりませんが、しかし心から喜んでいる。試練に悩むという言葉は、試練に悲しむとも訳せます。でもその悲しみや色々な試練は、心からの喜びを妨げるものにはならないのです。死の先の復活の命の希望の方が、試練や悲しみよりももっと強くて、そのゴールとそこに至るまでの希望のレールは、もう主イエス・キリストによって試練の力よりもずっと頑丈に既に敷かれているからです。

 ですから、7節でも言われていますように、試練は、ブレーキではなくて、むしろ、更なる良きことへのプロセスになるのです。7節です。1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」ずっとこのメッセージが、この後もこの手紙で繰り返されていきます。例えば3章14節、3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。」さらに412134:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」そこまで目を配れば、今朝の17節も、もうよく分かります。つまり、火にあぶられただけで朽ち果ててしまう金のようにではなく、信仰は、試練で折られ砕かれるのではなく、逆に、試練によって精錬され、強くされ、本物だと証明され、賞賛と光栄と栄誉に相応しい、もっと良い信仰になりますと、ペトロはここで約束してくれています。試練と悲しみがあり、悩みがある。時にそれは深刻で、何十年とこの身を蝕むわけですが、それはダメージでもトラブルでもブレーキでもなく、私たちがより神様に近づき、イエス・キリストにより肉薄し、その恵みを喜びを知るための、試練、テスト、トライアルだとペトロは言うのです。決して一般論として言っているわけではありません。あの試練続きの生涯を送ったペトロが、試練は喜びへの道だと言うからこそ、この言葉には力があります。

 ペトロはかつて何度も、毎日主イエスを見て、復活された主イエスのことも肉眼で見て、その手で主イエスに触れたことのある人です。しかし驚くべきことに、次の89節では、そのペトロが、私たちに対して、あなたがたはすごいと、私たちを心から賞賛してくれています。1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 「私は十字架と復活を含めて、主イエスのすべてをこの目で見たのに、裏切った、信じ切れなかった弟子です。でもあなたがたは、肉眼で主イエスを見たことがないのに、主イエス・キリストを愛し、慕って、今朝も礼拝しています。本当に素晴らしい!」「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」と訳されている言葉がありますが、これは、詳しく訳しますと、「あなたがたには、言葉では表現できず、さらに計算も数値化もできない。そんな、考えられない、想像だにできない程の喜びがある。」という言葉です。ペトロは、「見ないで主イエスを信じているあなたがたの信仰は、見てやっと信じた自分には、想像もできないぐらい、自分の遥か上をいくものだ!本当にすごい!」と、言葉を重ねて言うのです。

 だからこそペトロは、「あなたがたは試練を乗り越えることができるし、試練によって、かえってその信仰をさらに強く大きくして、進んで行ける」と、私たちに太鼓判を押してくれるのです。戻って、先程の5節の終わりの言葉です。「神の力により、信仰によって守られています。」信仰によって守られるとは、どういうことでしょうか?

 5節の終わりのここで言われている神の力とは、直前にある、死をも命に変える、主イエス・キリストの復活の力のことです。その主イエスの復活の力を信じる信仰は、その死から命への逆転の力で、苦難を徹底して、良きことへの道として捉えて、それを糧とし、試練や悩みを、それによって主イエスをさらに知り、それによって信仰がさらに強くされるという恵みに、変換してしまう、まさに神の力技のなせることなのです。

 

ペトロは、十字架の朝に主イエスを三度裏切って涙を流したそのあと、復活された主イエスから、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と言われて、最後ローマで殉教したわけですけれども、しかしペトロは最後、殉教さえも、「これ幸いである」と、火のような試練に焼かれながらも、それさえも、「これはキリストの苦しみに与る喜びに他ならない」と、言うことができました。先週、あなたがたは神に選ばれているという話をしましたが、選ばれているということが本当なら、私たちにとって一番良い道は、一番確かで安全な道は、私を選んでくださった神が、示して、望んでくださっている道に従って行くことです。

アブラムは息子イサクをいけにえとして献げるという試練を通して、アブラハムになり、ヤコブは神様と格闘して、イスラエルと呼ばれるようになりました。私たちそれぞれにも、試練がありますが、あなただけにしかないその試練が、あなた自身を形づくり、強くし、信仰の糧となり、何より試練が、あなたを主イエス・キリストに出会わせるのです。そこで試練は、喜びに出会います。主イエス・キリストが人生に及ぶ時、私たちの人生が変わらないはずはありません。