2022年8月21日 ペトロの手紙一1章10~21節 「神にかかっている」
先々週から先週半ばまで夏休みを頂きましたけれども、その休み期間中に、家族が順番に発熱してしまい、最後に私もコロナ陽性になってしまいました。自宅療養期間が今週火曜日までと設定されましたので、今朝はご不便をおかけしますが、牧師館の書斎から、礼拝説教部分の配信をさせていただきます。
最初にこの手紙を読んだ時、このペトロの手紙一は、ローマ帝国のキリスト教迫害によるペトロの殉教直後に書かれた手紙であり、この短い手紙には、他の長編にわたる福音書に匹敵するほどたくさんの、生きるという言葉、そして希望、望むという言葉が、繰り返して語られていると申し上げました。
死ぬような迫害の中、そして実際に仲間も自分も殺されてしまうという厳しい状況で、同じ苦境を味わっているたくさんの諸教会に向かって、ペトロは、生き生きとした希望を力強く語りました。
では、死ぬような状況の中、実際に人も自分も死んでいくペトロの状況の中で、一体何に、その状況の中のどこに、希望があるというのでしょうか?ペトロは今朝の御言葉で、その生き生きとした希望の根拠を、これぞキリスト教だと言ってよいような、聖書の核心部分を言い表す言葉として語っています。
そして実際、先週の私は、今朝のこの御言葉によって励まされ、生き生きとした希望を与えられることができました。続いて起こってしまった家族の発熱がやっと済んで、やっとこれからが夏休みだと思っていた矢先、最後の最後に自分がコロナに感染してしまい、正直少しがっかりし、気落ちしていました。幸い軽症だったとはいえ、保健所から数回のでんわがあり、基礎疾患がないことを繰り返し確認され、そのあと医者からも電話がかかってきて、本当に基礎疾患が無く、悪化の恐れや傾向が無いのかという点を再確認されました。なぜここまでと思いましたが、事実としてそれだけ、場合によれば命にも危険が及ぶほどの、恐ろしい病気に自分が感染してしまったということです。感染者の状態で迎えるまさかの誕生日になりましたが、残念だったということよりも、毎日役員会の方々には励まし祈っていただいていましたし、誕生日にも、インマヌエル会のラインで、皆様がお祝いのメッセージをくださって、この度、重症化から無事に守られて、家族も皆回復を与えられて、誕生日を迎えることができたことに、本当にこれ以上ないことだと感謝することができました。感染してしまったら、部屋の中にじっと閉じ籠っていなければなりません。眠ってしまうことが多かったですが、その中でも、好きな本を読んだり、パソコンで映画を見たりするという時間が無い訳ではありません。しかし、特別面白い本や楽しい映画はありませんでした。けれどもその中で、私にとって一番楽しく、心動かされ、励まされたのが、聖書の御言葉を読んだ時。御言葉に基づく説教集を読んだ時でした。最初の数日間は聖書も枕元に無いままに臥せってしましたが、やはり自分が病んでみて改めて分かったことは、自分にとって、聖書の言葉に触れる以上に力の出ることはないということでした。
以前からも語ってきたことですが、光と命と力の源である神様を知らないことが、私たちの暗さと死と寄る辺なさの原因です。ですから事柄はとても単純で、神を知り、神様に近づくということをせず、神様への信仰というものに重きを置かずに、それを他のもので補い、他のものから力を得て自分を満たそうとすることは、とっても危険で、自分のためにも良くないことなのです。自分が危機に瀕した時に、何に解決を求めるかということは、とても重要なことで、その優先順位をすぐに見失いがちになる私たちには、少なくとも毎週日曜日には礼拝を通して、必ず繰り返して御言葉を通して神様を知るとういことが、死活問題的に重要であるということを、改めて学びました。
今朝のこの説教奉仕のために、代打で説教してくださる何人かの先生の可能性を探ったのですが、いずれも予定が合いませんでした。けれどもこの度、今日の説教の準備をすることが、私が回復するための一番の薬であるに違いないと分かりましたので、この状態だからこそ、語ることのできる言葉があると思いましたので、今朝こうして語らせていただきたいと思いました。
死ぬような状況でも、しかしそこでも人を生き生きとした希望に生かすものとは何か?それは、イエス・キリストを信じる信仰です。前回の最後の1章9節にもありましたように、そのイエス・キリストへの信仰が、信仰の実りとして、魂に、救いをもたらすのです。
そして今朝の10節からの段落には、新旧約聖書を含めたこの聖書の全体は、人の魂が救いを受けるのだというこのことを、実はずっと預言者たちを通して語ってきたのだと。そして既に私たち信仰者が主イエス・キリストによって与えられている信仰による救いは、天国のみ使いたちである天使たちでさえも、それに与ってみたいと欲っするような、素晴らしいものであると言われています。天使たちには罪がないため、堕落もなければ救いの必要もなく、それゆえ、天使は主イエス・キリストへの信仰によって救われるという魂の救いを知ることができません。
しかし私たち信仰者は、旧約の預言者たちや天使たちでさえ味わい知ることのできなかった、イエス・キリストのとてつもなく大きな救いを得ている。その恵み救いが、今あなたのすぐ目の前にあるではないかと、今朝の20節は語っています。20節を読みます。「1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」統一協会問題が明るみに出て、日本人の宗教性も政治倫理も本当に地に落ちたと嘆かざるをえない現状において、しかし、私たちは、真実の神様がおられることを信じ、また諦めずに、今朝も礼拝に集っています。それはなぜなのかを、今朝の21節が語ってくれています。21節「1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」
最後の「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」これは、元の言葉から訳すと、「あなたがたの信仰と希望は、神の中にある」という言葉です。私たちが信じている信仰と、胸に抱いている希望は、神の中にある。神にかかっている。それは、自分の信仰や、自分の希望であるように見えて、実はそうではない。前回の1章の5節にも、「あなたがたは、神の力により、信仰によって守られています。」という言葉がありました。ペトロに言わせれば、信仰とはもはや、私たちが心の中に抱いている信心という枠を超えて、神様が、神様の中で、その神の力をかけて、守り支えてくださっているという、私の信心や信念とは別の、それはこの胸から飛び出て、外側から私たちを大きく捉えて包み込む、神様からの大きな庇護、私たちを守ために神様がこしらえてくださるバリアーのようなものとして語られているのです。そういう信仰と希望が、神の中にあって、その信仰が神様の力と共に私たちに及んで、私たちを覆い包んで、守っている。
ですからその信仰を受け取っていれば、たとえコロナ感染してまだ胸が苦しかろうが、幾多の試練によって希望を保ち難くなってしまったとしても、実は信仰と希望は、私たちのコンディション如何に全く左右されることなく、力強く存在し続けるということになります。信仰と希望は神の中にあるので、私たちの信仰と希望が、そのような決して奪われない神様の中の金庫のような場所で堅く守られているので、イエス・キリストへの信仰が失われ、希望が絶望に終わり、それによって私たちから生き生きとした希望が取り去られるということは、人がたとえべトロのような殉教の場面に直面したとしても、それは起こりえない。信仰と希望は、それだけ強いのだということを、ペトロはここで訴えているのだと思います。
さらに、私たちの魂を救いに至らせるこの信仰は、そんじょそこらの信仰とは、訳が違う。中身が違う。それは特別なのです。信仰の中身の核心に触れる部分を、主イエスの12弟子の筆頭たるペトロは、今朝の18節19節で堂々と、こう言い切っています。「1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」統一協会が提唱している救いとは、全くもって対極にある救いが語られています。これがキリスト教信仰の核心です。つまり、私たちは、先祖伝来の空しい生活から、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によって、神様により、贖われた。贖われたとはつまり、私たちは買い戻されて、私たちは神様に、キリストの血によって買い取られた。
何でか?理由ないです。私たちが何かしたから、これをしたから、だから救われて、買い取られて、神様のものにしていただいた、ということではないです。でも何もしていない私たちは、不思議と救いに選ばれた。そして今、値千金の信仰を与えられている。そこに理由があるとすれば、それは「愛」しかありません。神様から私たちへの見返りなき、無償の愛です。神様の無償の愛は、それが発動するための理由を必要としません。そして理由なき純粋な無償の愛は、神様のもととにしかありません。そして神様はその無償の愛を、私たちに、特にキリストへの信仰を受け取る者たちに、向けてくださる。
統一協会では、逆に救いや愛を買わなければなりません。金や銀や、そういう朽ち果てるものによって、救いを自分で買わなければならない。そうやって壺や指輪を手にしても、朽ちるものから出るものも皆、やがて朽ち果ててしまいますので、そこに永遠に残るようなものは何一つありません。それこそが18節が語る、先祖伝来の空しい生活というものです。
しかしこの私たちのためには、神様が、金や銀ではなく、イエス・キリストの尊い血を支払ってくださいました。その血が支払いに使われたということは、イエス・キリストが私たちのために痛い目に遭ってくださった、苦しんでくださった。そして血を流して、命を費やして、私たちのために死んでくださったということです。自分が持っている一番価値あるものは命です。そして、この自分の命よりももっと価値ある命があるとしたらそれは、自分が愛してやまない、この自分よりも大事な、自分の子どもの命です。父なる神様は、その一人息子、御子イエス・キリストの、自分の命よりも失うのがつらいその尊い命で、そこから注ぎ出される血で、私たちのことを、さらにそれ以上に大事な存在として、空しい生活から、朽ち果てる金銀を信じてそれに奴隷のように依り頼んでいた奴隷状態から、救い出してくださったのです。
今日発行された8月の月報に、世界観とかストーリーということを少し書きましたけれども、どんな映画を見ても、どんな本を読んでも、この聖書にある、福音というストーリーを超えたストーリー。こんなにも世界中の全歴史にわたって、多くの人を支え、守り、救い出し、生き生きとした消えない希望に導いた、この主イエス・キリストの救い。これに匹敵するもの、これに匹敵する程大切な事柄は、他には、どこにもありません。
私たちが元気な時には、大きな危機に瀕していない時には、この福音とこの信仰が、色々ある良いものの中の一つであるかのように見えて、他にも沢山のものが、聖書と同様に興味深いものに見えたり、大事に思えたりします。それもあながち間違いではないですし、だから四六時中ずっと聖書だけ読んでいれば良いとは決して思いませんけれども、しかしこの時代、この時こそ、本当に今、何を読むか?何を聞き、何に寄り頼み、何を信じて生きるかということが、とても大事だと思います。
このような高度に医療の発達した時代にありながらも、たった一瞬で人を死の危険にまで追いやるような病に、今や世界の人口の大半が感染しようとしています。そういう現実の中で、たとえこの命が突然費えようとする瞬間にも、決して費えてしまわない、生き生きとした大きな希望。その時においても信頼に値する、魂の救い。そこでも失われない愛の支え。この全てを、この私たちは、持っています。このすべてが、私たちの前に、今あります。
今朝の18節から21節までを、もう一度お読みして、説教を終わります。これは皆様一人一人への使徒ペトロから、聖書を通じて語られる熱い愛の言葉です。「1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」