2022828日 ヨシュア記23章1~11節、24章14~19節、24~31節  召天者記念礼拝「これからどう生きようか」

 今朝は、召天者記念礼拝として、先に天に召された方々のことを思い起こしながら、ご一緒に礼拝を捧げております。板宿教会に近い関係者の方々だけでも、22名もの方々が、近年天に召されました。礼拝プログラムに書かれているお名前を読むだけで、その一人一人の方々のお名前が心に浮かびますし、今日は、玄関ロビーと掲示板に、天に召された信仰の先輩方の写真がディスプレイされています。懐かしいですけれども、しかし同時に寂しい思いもいたします。先週、納骨のために舞子墓園にも行きましたけれども、そこにも名だたる信仰の先輩方の碑銘が刻印されていて、改めて襟を正される共に、今朝の説教題に、素直にその気持ちを書き表していますけれども、あの頼もしい先輩が召されてしまった今、残された私たちは、果たして大丈夫なのだろうかと、「これからどう生きようか」「どう生きていけばよいのだろうか」という、一抹の不安を感じて、天を仰ぐような気持ちにさせられるのも事実です。私たちは、これから先を、どう生きていけばよいのだろうか。夏の終わりの、暑い夏が過ぎ去り次第に涼しくなり、もの悲しさも漂うこの時期の召天者記念礼拝に、私たちは今年も至って、召天者たちの写真を前に天を仰ぐこの私たちなのですが、こういう思いを抱くのはこの私たちだけのことではなくして、今朝の飛ばし飛ばしに読みました旧約聖書ヨシュア記の御言葉には、今のこの私たちの姿や、今のこの私たちの気持ちに通じるような同じ思いを抱いている、イスラエルの民の姿が、はっきりと描き出されています。

 

このようにして旧約聖書の御言葉を、今朝のような召天者記念礼拝で読むことは、とても大切な、意義あることだと思います。旧約聖書が語るのは、はるか昔の紀元前の事柄ですが、私たちが今朝すべきことも、召天者たちがかつてこの教会で歩まれていた昔を思い起こし、過去に繋がることであり。さらにそれによって、私たちがどこから来て、また先人たちからのどんな遺産を受け継ぐことによって、この今に至っているのかを、丁寧に振り返ること、これが今朝私たちがすべきことです。旧約聖書の御言葉は、それを助けてくれます。

 

今朝はヨシュア記の23章の始めから24章の終わりまでを、部分的に朗読させていただきました。この場面は、海を二つに割り、エジプトから民を率いて脱出し、十戒を始めとした神様からの掟と御言葉を受け取ってイスラエルの民に伝えた、あの神の人モーセが120歳で死んだあと、モーセの後継者となったヨシュアが、出エジプトの旅を受け継ぎ、イスラエルに入植してその旅を完成させ、やがてそのヨシュアも110歳を迎えて、今や最後の遺言を伝え、息を引き取っていくという場面です。

 

そしてここには、今までにはなかった大きな問題が生じています。それは、かつては、神の人と呼ばれ、ほとんど神様と同等の存在だった言って良いモーセが、強力なリーダーシップでイスラエルの民を導き、そしてその後継者として、モーセに続く真っ直ぐな信仰をもってモーセの路線を継承したヨシュアがこれまでは居て、二人は、もう不死身ともおぼしき仕方で、老齢に至るまで頭脳明晰で決断力にも溢れ、他の追随を許さない力強いリーダーシップで民を導いてきたのですが、問題は、もうこのあと、次のリーダーが居ないということです。

そういう状況で、もう自分の仕事は終わりを迎えたと、最後の遺言を語り出すヨシュアを前に、イスラエルの民はたじろいで、間違いなく大きな不安に駆られたのだと思います。モーセとヨシュアが居なくなったら、私たちはこれからどう生きていけばよいのか?何をすればよいのか?誰に従えばいいのか?この時、その数は数百万人に達していたと言われるイスラエルの民は、この時、あたかも空中に放り出されるような格好になります。

 

けれども、翻って私たちは今朝、召天された方々の面影を思い起こし、その写真を懐かしんで見つめながら、召された先達たちから、私たちは無責任にも放り出されたのかと問う時、決してそうではなく、先人たちは私たちに何も残さずに、私たちを急に放り出すようにして天に旅立たれたのでは決してなかった、ということをもまた同時に思い起こします。たくさん、経験、記憶、今でもこの胸に残っている言葉、風景、そういう確かな、多くの遺産を私たちは先人たちから受けている。この教会には、そういう意味での召天者たちの息遣いが、今もまだ息づいている。山中雄一郎先生の言葉は、今も私たちのこの胸に響いていますし、私たちは、召天された方々のことを今も夢に見たり、ふと思い出します。そしてそれは、とっても良いことであり、大きな恵みだと思います。あの方々は消えたのではなくて、たくさんのものを私たちに遺してくださり、天国で神様と共に生きて、今も私たちに語り掛けてもくれています。そういう方々のたくさんの遺産が、今のこの101年目の板宿教会の土台に、確かに存在しているのです。

 

ヨシュアは、そのように、イスラエルの民よ、あなたたちは今、手ぶらではない、空っぽではない、何もないのではないと言っています。232節から8節を改めてお読みいたします。23:2 ヨシュアは、長老、長、裁判人、役人を含む全イスラエルを呼び寄せて、言った。「わたしは年を重ね、老人となった。23:3 あなたたちの神、主があなたたちのために、これらすべての国々に行われたことを、ことごとく、あなたたちは見てきた。あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった。23:4 見よ、わたしはヨルダン川から、太陽の沈む大海に至る全域、すなわち未征服の国々も、既に征服した国々もことごとく、くじによってあなたたち各部族の嗣業の土地として分け与えた。23:5 あなたたちの神、主は、御自ら彼らをあなたたちのために押しのけ、あなたたちのために追い出される。あなたたちの神、主の約束されたとおり、あなたたちは彼らの土地を占領するであろう。23:6 だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。23:7 あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。23:8 今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。」

とても大事な言葉が6節にあります。23:6 だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。」モーセは、後の世代のために教えの言葉を遺したのです。そしてこれからは、そのモーセが残した言葉が、モーセ自身の代わりになって、イスラエルを導くのです。それゆえそこでは、その言葉から右にも左にも逸れないということが大切になる。

 私たちの今の状況も、これと似ていると思います。ここに、モーセやヨシュアに匹敵するようなリーダーはいません。けれども、モーセやヨシュアの言葉、これまでの主を信じる者たちが歩んできた道のりの歴史、召天者たちが残してくれたたくさんの遺産があり、何よりも、私たちの手には、モーセの教えを始めとして、これまでの信仰の先駆者たちと、神様御自身からの言葉を集めた聖書がある。

私たちがこれからの人生を戦うために必要な武器は、これからどう生きるのかを知る術は、しっかりと手渡されている。そして、「今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。」という言葉を、説得力と共に真に受けることができるだけの信仰を、私たちは、信仰の先輩方の生き方を通じて学び、今朝も受け継ぐことが許されている。だからこそ私たちはここにいる。

 

今ここに、モーセやヨシュアのようなリーダーがいないということ、そして有力な先人たちを天に送ったということは、私たちのパワーダウンを意味しません。そして、強力なリーダーがいないということで立ち上がってくるのは、私たちそれぞれの自主性、主体性です。これからは、私たちが、聖書という道しるべに立ちながら、自らの足で前に進んで行くことが大事になる。

そしてヨシュアは、これまでのように主なる神に仕え従いなさいと勧めながら、しかし、驚くべきことにそれをイスラエルの民に強要しませんでした。24章の1415節をお読みいたします。24:14 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。24:15 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

なぜヨシュアはここで、「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と、こういう、慎み深い、控え目な言い方をするのでしょうか?それは、後に続く世代の人々の自由な心を、圧し潰したくないからです。「四の五の言わずにとにかく従え!」と上から強く言い放つことは、それを言う方も簡単ですし、言われた方も、何も考えずにただ命令された通りにすればいいのですから、簡単です。でも強権発動で従わせると、強権発動をされた側の心は自由を失い、永久に自主性を失ってしまう。そして、そこでそういうやり方で主に従ったとしても、そこでの服従は、生き生きとした、喜びのある歩みにはならず、活力のない渇いた心での服従になってしまうのです。ヨシュアは、そんな死んだ心で神様に仕えるのではなく、文字通りここで述べているように、「真心を込め真実をもって主に仕える」ことを、自分自らの意思で決断するようにと、イスラエルの民に求めました。

 

私たちがこれからどう生きるか?私たちの教会がこれからどう進むか?召天者たちから引き継いだ遺産はありますけれども、それをどうするかは、全く私たちの自由です。今日から何をするかは、全く私たち次第です。ですから、今日、どう生きるのかを、私たちそれぞれが決断することが大事ですし、期待されているのです。また、同じように私たちは、私たちの次の世代にも、何かを強要することはできません。具体的に、私たちもいずれ世を去ってしまい、50年後には、ほとんど誰もここには居ませんから。私たちにできることは、あとに託し、あとの世代の自由に任せることだけです。

 

 15節で、「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。」と言ったヨシュアに対して、ペトロが三度愛しますと主イエスに語ったのと同じように、イスラエルの民も、「私たちも主に仕えます。従います。」と三度続けて語りました。

 しかし、さらに衝撃的なのは19節です。24:19 ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。」」

 民の決意の言葉とは裏腹に、なんとヨシュアは、あなたたちは主に仕えることができないであろう。あなたたちは罪を犯し、主なる神からの、赦し難い怒りを買うことになるだろうと、民の決意とは反対のことを断言しました。ヨシュアには、イスラエルの民の足が見えていた。彼らの問題、たとえ三度誓ったとしても、口先だけの決断の言葉になってしまっているという決断の弱さも、ヨシュアにはすべてお見通しでした。

 しかしながらヨシュアは、それにもかかわらず、これから背いて、罪を犯すであろうイスラエルの民と神様の間を取り持ち、彼は改めて契約を結び、神様とイスラエルの民との間が、切っても切れない関係としてしっかりと結ばれるための契りを結んでから、人々を解散させました。

 背いて罪を犯すことが分かっている民への、赦しと、保護と、神はそれでもイスラエルの民を見捨てないという契約。ヨシュアというヘブライ語の名前は、ギリシャ語読みをするとイエスになります。これまでは、モーセとヨシュアが、罪を犯すイスラエルの民と主なる神の間に入って、両者の間を取り持って、必要な時にはモーセやヨシュアが民の代わりに神様に謝罪して、祈って、何度もそうやりながら何とかここまでやってきました。

 しかしここから先は、モーセやヨシュア以上に鮮やかに、主に従う人間としての、リーダーシップと模範を私たちに示してくださり、強権発動をする上からの支配ではなく、本当に弱い者に目を留め、弱い者たちを特に選んで御自分の12人の弟子に登用してくださるような、愛と優しさの慈しみ深いリーダーとして、そして何より、民の罪を担って十字架に架かかり、主なる神と私たちとの間を一時的に取り持つどころではなく、永久に、そして完全に修復し、回復してくださった、主イエス・キリストが、ここから先には、おいでくださる。そして私たちは、今、モーセとヨシュアがまだ出会えなかった主イエス・キリストに出会って、その救いを手にすることができます。

 

 そしてヨシュアは息絶え、葬られました。しかしイスラエルの民には、新しい明日が用意されていて、その先には死と葬りさえも復活で克服してくださった、主イエス・キリストの姿が眼差されているのです。

 私たちは、これからどう生きようか?「どんな神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」と語ったヨシュアの言葉が、今、私たちの愛する、既に召天されたこの教会という家の家族の先人たちの言葉としても聞こえて来るようです。そして同時に、今も復活して生きて私たちを導いてくださっている、私たちのために十字架に架かって死ぬまでしてくださった主イエス・キリストが、私たちに語り掛けてくださる言葉としても、この言葉は、今朝私たちに語り掛けられています。「あなたはどんな言葉と教えに従うのか?あなたは何に仕えるのか?どんな道を歩むのか?あなたはこれからどう生きるのか?今日、自分で選びなさい。」