202294日 ペトロの手紙一1章22~25節 「清く生きる」

 今日は振起日礼拝です。今年も残すところあと4か月です。秋が来て、新しい季節が始まり、教会はクリスマスへと向かっていきます。その中で改めて、今年の年間標語を思い返します。私たちはこの年を、「祝福の源になる。:分かち合う教会」という標語で歩み出しました。この標語の言葉は、今朝の私たちの御言葉とも重なります。今朝は自分たちについて、またこの教会について、どこから来てどこへ向かう私たちなのかということを確認させられたいと思います。

 

 今年のゴールデンウイークの頃までは、コロナが何とか今年こそは収束の方向に向かうのではないかという淡い期待があったと思うのですが、しかし2022年も、三分の二が過ぎた今、残念ながら収束どころの話ではない状態が続いてしまっています。今朝のペトロの手紙一124節では、イザヤ書40章が引用されながらこう語られています。1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。」

 まさにこれは、今のコロナ禍の中で、草のようにすぐに枯れて、花のようにすぐに散ってしまう、この人間の命と存在の儚さを言い当てる言葉です。この言葉を語った旧約聖書の預言者イザヤは、山の上にそびえる難攻不落の城塞都市であり、神の都として神様の庇護のもとにあると誰もが信じていた都エルサレムの陥落を、先程の言葉で預言しました。今のコロナ禍を、イザヤ書が語っているあのバビロン捕囚の時代に起こった危機になぞらえて、教会のコロナ捕囚だと、コロナ禍によって、今教会は教会らしいあり方を破壊され、捕囚の憂き目に遭っていると語っている神学者もいます。本当に、人はすべて、またどんなに強固で崩れないと思われる目に見えるものもすべて、しかしそれは枯れ草や散りゆく花に過ぎないのです。文明の挫折、戦争という悲劇、人間の限界、一寸先の未来でさえ、しっかりと保証されているとは言い難いこの2022年。この御言葉が語るのは、コロナ禍の中で、今私たちが本当に味わわされている現実です。

 しかし、枯れ草や散りゆく花が、聖書が語りたい現実の全てではありません。251:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」

 しかし主の言葉は永遠に変わることがない。あなたがたは、枯れることのない、散ることもない、永遠に変わらない、主の言葉を、福音として告げ知らされて、その言葉をその耳から受け取った。この、コロナ禍の危機的な状況よりももっと強い現実を、その福音を、あなたがたは、この私たちは、知り、また味わっているのです。ペトロはここで、立てと、立ち上がれと言っています。殉教した主イエスの使徒であるペトロが、彼の時代に向き合っていたのは、キリスト教迫害でした。キリスト者が社会の中にあって全く少数であったという圧力であり、教会の弱さであり、そこから来る希望が折れそうになり、信仰が消えそうになり、もうこれ以上生きるのは辛いとこぼしてしまいそうになるほどの試練がそこにはありました。しかしペトロは希望を語ります。教会を励ますために。キリスト者に生き生きとした希望を与え、永遠の御言葉によって支えるために。

 

 今朝は25節から遡って、後ろから前へと御言葉を読み砕いていきたいと思いますが、23節にこう語られています。1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」

 先程の、永遠に変わることのない主の生きた御言葉が、枯れ草のように儚いこの人間存在に入ってくる時に、何が起こるのか?朽ちる種から生まれる草花は散っては枯れますが、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉から生じる草花は枯れない。永遠に生きる神の御言葉によって立ち上がる人間は、朽ちない種から生まれる枯れない草花のごとく、新しく生まれ変わるのです。

 このことについて、少々長い言葉ですが、ある説教者が語っている言葉を引用して、紹介させていただきたいと思います。「『あなたがたは新たに生まれたのです』。私たちの存在の根本がきよめられることを、ペトロは、新しく生まれたと言い直すのであります。本性が変わったということです。私どもの自然が変わったということです。キリスト者として生きるということは、私どもの自然が変わったということです。キリスト者として生きるということは、私どもの自然に反して不自然に生きることではないのです。その点で、私どもキリスト者もしばしば誤解をします。キリスト者として生きるということは、何か不自然な枠をはめて人間の自然な思いを押し殺すことによって、成り立つのだと考える時があります。しかし、本当は、そうではないのです。私どもが神と共に生き、神に生かされて生きる方が自然なのです。神に造られた者として、神を拝みながら生きることが自然なのであって、神は存在しないなどと言い張ることの方が、不自然なのです。どうしてそこがひっくり返ったのだろうか。人間が罪を犯したからです。人間が罪を犯したからこそ神を否定したり、逆らったりすることの方が、自然であるかのようになってしまった。新しく生まれ変わるということは、その自然と不自然とが入れ替わるということです。キリストの愛の本性が、私どもに植え込まれるのです。」(加藤常昭『ペトロの第一の手紙』より)

 この、私たちを生まれ変わらせる、生きた、変わることのない、朽ちない種とは何か?それが、25節の終わりで、さらにはっきりと言い切られています。「これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」実はこの、福音として告げ知らされた、と訳されている言葉こそが、有名な、エヴァンゲリオンという言葉であり、これは動詞の言葉です。その意味は、永遠の言葉が、あなたに対して、福音の良き知らせとして決定的なかたちに語られた。そしてその語りは、これから先もずっと有効でありつづけるという意味の言葉です。

 ですから、例えばこれは24時間常に体につなげられて注入され続ける点滴のようにして、永遠に朽ちない、永遠に死滅することがない、命ある神の御言葉が、福音として、良き知らせとして、それによって私たちを生まれ変わらせる言葉として、ずっと心に体に注入され続ける状態が、ここで言い表されています。

 福音とは、主イエス・キリストの生涯全体を表す言葉であり、特にその十字架に表されている救いをひと言で言い当てる言葉です。ペトロの手紙の前回読んだこの上の段の1819節に、福音の内容を言い表す言葉がありました。1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

 本当にこれは、点滴として、輸血のようにして、主イエス・キリストの尊い血が、枯れゆき、散りゆくはずのこの体に、神の御言葉と共にこの耳に、この心に、徹底的に輸血され、注入され、宣べ伝えられる。そうしたら、どうしたって、この私たちの自然が変わる。根本が変わり前提が変わる。そして私たちは生まれ変わる。別の人間になるのです。

 

 今朝の22節は、それを物語っています。1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」この22節の言葉は、過去完了形で語られています。あなたがたは既に真理を受け入れた。あなたがたの魂は清くなった。「魂を清め」と訳されている言葉は、「存在の根本から完全にきれいになった」という言葉です。そして、偽りのない兄弟愛を抱くようになった。偽りとは、偽善とか、嘘とか、見せかけの演技と訳せる言葉です。イエス・キリストを知る前の私たちの愛のことを指し示すことばです。確かに、聖書の愛を知る前に考えていたところの愛は、偽善的で打算的だった。自分に良くしてくれる人のことは愛する。自分にメリットがあるなら愛するし、大切にする。でもそうでなければ愛する必要は生じない。その場合の愛は、自分のメリットのための、自分が愛されるという目的を達成するための、嘘になりうる、偽善に、見せかけの愛に、演技になりうる。

 そういう嘘や偽善が、まかり通っています。もうすぐ国葬が実施されようとしていますが、人を弔う哀悼の意というものは、本来真実の愛の現れであるべきです。しかしそういう本来的な故人への愛は抜きにして、暖かさに欠ける偽装的な弔意を、過半数の国民の反対を押し切るかたちで、国策として国民に喚起する。

 ペトロが求めていることは、それとは対極にあることです。「あなたがたは、主イエス・キリストの血を注がれて、福音の真理を受け入れて、自分の存在を根本からきれいにされた。あなたがたは偽善ではない主イエス・キリストの愛を知ったのだから、清い心で深く愛し合いなさい。」

 22節の最後の言葉は、「その心で、互いに熱く愛し合いなさい。」という言葉です。熱く愛し合うというとは、愛が冷えて冷たいのではなく、燃え上がって熱く高まる愛で熱し合う、熱愛をもって愛し合うということです。

 今朝は「清く生きる」という説教題を掲げましたけれども、聖書が語る清い生き方とは、クールに涼しげに爽やかにということとは違います。それは熱い愛に燃えた情熱的な生き方です。

 

 先週「荒野に希望の灯をともす」と題された、中村哲医師のドキュメンタリー映画を見に行きました。本当に今朝の聖書が言う意味の清い生き方が、そこにあったと思わされました。御自分の10歳の息子を脳腫瘍で亡くされながらも、その見取りも家族に任せて、御自分は命懸けでアフガニスタンに留まり続けました。「アフガニスタンにある大きな不平等に復讐し、一矢報いたい」という強い言葉が語られていました。とても熱いその心が、多くの人の心を動かし、社会を動かし、広大な砂漠を緑溢れる大地に生まれ変わらせました。こんなにも強く情熱的な、我を忘れるほどの愛に、人は、どうすれば生きることができるのか?翻ってこの自分は今、何に愛を燃やし、情熱をどこに注いで生きているのかと、問われました。

そしてその映画の中で、最初から最後まで繰り返し流れていたひとつの曲が耳に残りました。それは、晩年のモーツァルトが妻の介護をしてくれた合唱団指揮者に送った、アヴェ・ヴェルム・コルプスという曲で、これは教会のJoyful聖歌隊でも、45年前にラテン語で皆で歌った賛美です。歌詞は、こういう歌詞でした。「めでたし、処女マリアから生まれた真実の肉体よ。人間のために十字架にかかり、本当に苦しみ、犠牲となり、貫かれた脇腹から、水と血を流された方。私たちのために、死の試練を予め味わってください。」私たちのために犠牲の死を遂げ、十字架で血を流された主イエス・キリストに感謝する歌です。クラシックファンを公言し、オーディオ機材をアフガニスタンまで持ち込んでいた中村医師は、時間のない方でしたので、3分間のこの短い曲を、映画でのように、いつも繰り返して聞いていたのかもしれません。そしてここに、中村医師の情熱的な愛の源があったのです。

 

私たちへの神の愛は、既にもう熱く燃えたぎっています。神様の深い愛は、イエス・キリストの尊く熱い、私たちを生かす血と共に、主の御言葉を受けるものに、絶えず、力強く、注入され続けています。私たちは、それを知り、その福音を告げ知らされ、今朝、この教会まで来ました。今朝も聖書を開いて、ペトロの手紙を告げ知らされるところまで辿り着きました。そうやって主イエスの血によって、自分の中の自然を丸ごと作り変えられ、新しく生まれ変わった私たちには、兄弟姉妹を互いに愛し合うべき義務があるのだ、ということではなく、ただ主イエス・キリストに感謝して、深く互いに愛し合い、主イエスを愛して生きるという以外に、他の生き方はもうないのです。