2022918日 ペトロの手紙一2110節 「ゴミくずが宝に」

 今朝の御言葉は、石についての御言葉です。説教題を、「ゴミくずが宝に」としましたが、石は、絶対にゴミくずなのだとまでは言えないにしても、それは、基本的にはあまり良いものだとは言えません。石が植木鉢に入っていたり、道の真ん中や、線路の真ん中や、玄関の正面に置いてあったら、それは邪魔で、すぐに取り除かれるべきです。それが石というものです。人に対して、この石というものが当てはめられるならば、石頭だ、石のような心だなどと、頭が固く、心がかたくなだと言われたりもします。その時にも石は、悪い意味で用いられます。

ある人は、自分自身を石になぞらえてこういう風にも書いています。「石である私たちは、他者には厳しく突き当たり、冷たくして愛を知らない。石は他者と手を結ぶことはなく、ばらばらに散らばっているのみ。固く自己を閉ざしていて、ついには深く沈んでしまう。それは死である。石は罪と死のしるしである。私もその一人であった。」

 今朝の御言葉の中に、生きた石という言葉が二度使われていますが、これは、とても矛盾した言葉です。石に命はありませんし、石は血の通わない無機物の象徴です。しかしその石が、ゴミくずが、死んでいるはずの物体が、生きる石になるという大転換が起こる。

 

 このペトロの手紙が書かれた当時は、歴史上最初の、クリスチャンたちに対する大規模な迫害が、ローマ帝国皇帝ドミティアヌス帝によって始まる、その前夜という時代でした。しかしこの手紙の著者であるペトロ自身が、この手紙がまとめられた頃に、ローマ帝国による迫害によって殉教したと考えられています。つまりローマ帝国皇帝のことをこそ、キュリオス、キリスト、人々の主と呼ぶべきであるとされたローマ帝国領内においては、クリスチャンたち、ペトロたちの存在が、邪魔で、排除されなければならない石だったのです。

 しかしこの手紙は、そういう邪魔で疎ましい石ころ扱いをされているキリスト教会とそこに生きる人々に向かって、こう語るのです。「あなたがたは、蹴飛ばされるべき、邪魔で価値のない、石ころなんかではなく、生きた石なんだ。」だから、今朝の1節から3節です。2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」細かいことかもしれませんが、この2節の翻訳は、直したいところです。この2節の御言葉は、混じり気のない霊のミルクを飲んで、成長して、そしてやっと救われるようになるという言葉ではなくて、これはもう既に救われている人に対して、信仰を持って、既に洗礼を受けて、迫害をされているけれども教会に通っているクリスチャンたちに対して、「あなたのその救いの中で、霊のミルクによって、さらにその救いを確かにするべく、成長していくのです。」という言葉です。

 キリスト教迫害の憂き目に遭う時、やはり心には、2章の1節にあるような、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口が生まれてくるのです。「でも迫害されて、石ころのように扱われているあなたがたが、さらに自分でも悪意や悪口で心を石のように固くしてしまうなら、それこそあなたがたは、死んだ、命無き石のごとくになってしまう。でもあなたがたは、そんなつまらない、死んだ石くずではないはずだと、悪意や悪口に向かうのではなく、与えられている救いをさらに確かにするように歩みなさい。迫害の時にこそ、心が石のように固くされるような苦しい時にこそ、かえって赤ん坊のような心と、赤ん坊がミルクを求める真っ直ぐさで、キリストの恵み深さを、より深く味わおうではないか」と、ペトロは勧めるのです。

 

 4節です。2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」ペトロは、ここで何よりもまず、イエス・キリストを指差します。そして、その主イエス・キリストの姿には、捨てられた石が生きた石になるという大転換が、これ以上ないかたちで表されたのだと語るのです。十字架は、神の怒りと呪いを身に受ける者が迎える悲惨な最期です。主イエスは人々から見捨てられ、エルサレムの町の外に追い出され、されこうべの丘の上で十字架で、主イエスは最終的には神にまで見捨てられて、死んで、黄泉の、地獄の底に転落されました。しかしそこから、三日後に復活をされて、主イエスは地獄の底の一番深いところに風穴を開けて、そこから天国での永遠の命に通ずる道を切り開いてくださいました。人々に排斥されて死んだ主イエス・キリストという石は、しかし、死を突き破って永遠に輝く、生きた石となったのです。

 この主イエスによって表された大転換が、この後の6節から8節の言葉によっても、改めて語られています。2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。」

 シオンとは、エルサレムの町の中にあるシオンの丘という、神殿が建てられている場所のことです。そのシオンの丘にある神殿の、さらにもっと言えば、全世界のキリスト教会の、その礎石となった親石であり、かなめ石が、主イエス・キリストなのです。そこに希望を置く人は、決して失望せず、裏切られることはないのだと言われています。しかしながら、多くの人々は主イエスを軽んじ、主イエスを迫害し、主イエスを邪魔な石だと蹴とばして、その人々は、いざ主イエスの十字架を前にしても、その救いを御言葉を通して聞いたとしても、「救いの神たるものが、あんな惨めな死を遂げるのか、何と情けなく、頼りないことよ」と、一向に十字架の救いを信じず、かえってそれにつまずいて、神様からさらに遠ざかってしまうのです。そういう人々のつまずきが、実は主イエスの十字架の1000年以上前の時点で、旧約聖書の、先程お読みした詩編に、既に、予告されていたのです。

 しかしペトロは、あなたがたはそのつまずきの道を行ってくれるなと、その大きな流れに屈してくれるな、主イエスにつまずいてくれるなと、必死で教会を励ますわけです。

 なぜペトロは、そんなに必死なのでしょうか?それは、そもそもペトロ自身が、十字架につまずいて、もんどりうって大転倒した経験があるからです。ペトロという彼の名前自体、実はそれは、彼が主イエスから頂いた名前でした。その前まではシモンと呼ばれていた彼に、「あなたはペトロ、私はこの岩の上に教会を建てる」と言ってくださったのは、他ならぬ主イエスでした。石よりももっと強い、岩という名前を付けていただいたペトロですが、彼は主イエスを十字架から守り救うことができず、主イエスを救い出せるチャンスがあった場面で、彼はこともあろうに三度も主イエスを知らないとしらを切り、十字架の前から逃亡してしまったのでした。ペトロは十字架につまずいて、死んだ石、死んだ岩ペトロとなってしまったのです。

でもだからこそペトロは、かつての私のような、こんなに腐った瀕死の石をも、赤子を抱くように拾い上げて、霊のミルクで養ってくださり、生き返らせてくださった神様の奇跡を、愛なる神様のその選びを、命がけで必死に語らざるをえないのです。

910節をお読みします。2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。」

 ペトロは、ここで、ものすごくたいそうな言葉を使って、迫害の中を歩む教会とクリスチャンたちを誉めそやすようにして、盛り立て励ましています。先週はエリザベス女王のニュースが駆け巡りましたけれども、この私たち皆も、主イエスによって今や、王の系統を引く祭司とされ、聖なる国民とされている。いわば、あなたがたは今、ロイヤルファミリーなのだと、ペトロは私たちに向かって語るわけです。「あなたがたは、選ばれた民」という言葉が、9節最初に来ています。今朝の文脈から、「あなたがたは、選ばれた石」と読み替えても意味は通ると思います。

ダイヤモンドやサファイアの原石だったら別ですが、そもそも石ころそれ自体に価値はありません。どれだけ頑張っても、石は石です。ですから、石の価値は、それを選び評価する人によるのだと思います。見る人の見方によるのです。この石は価値があると、目利きによって見出され、選び出され、職人によって素晴らしく加工される時に、命無き石は初めて命を吹き込まれ、生かされます。そして、あなたがたは選ばれた民、選ばれた石なのだとペトロは言う。「だから、この主のもとに来なさい。」とペトロは言うわけです。そして、捨てられたけれども復活した生きた石である主イエス・キリストによって、主イエスに選ばれて、あなたがたも生きた石に復活するのだ!と、ペトロは私たちを押し上げるのです。

 最後に改めて、今朝の45節を読みたいと思います。2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」

 日本語の翻訳では分かりにくいのですけれども、4節の最初の言葉は、英語の聖書ではこうなっています。As you come to him, the living stone. あなたが、生きた石である主イエスのもとに来る時。そして5節の最初の部分は、英語で訳すとこうなります。You also, like living stones.つまり、4節最初と5節の最初をつなげて読むと、「あなたたちが、生きた石である主イエスのもとに来る時、あなたたちもまた、生きた石になる」と、4節と5節はこういうつながりになっています。「あなたたちが、生きた石である主イエスのもとに来る時、あなたたちもまた、生きた石になる」のです。

そしてさらに、今朝の御言葉は、その生きた石たちが積み重ねられることによって、霊的な家が造り上げられ、つまり教会がそこに立ち上がり、さらにその上、ここから先は、先程お読みした9節の終わりの御言葉へと続くのですが、9節中程を再度読みます。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」

つまり、生きた石主イエスを通して、私たちも生きた石となり、そこからキリスト教会が生きた石の集まりとして力強く建て上げられ、さらに教会を通して、もっと広く多くの人々が、living stonesに、生きた石へと変えられていく。

 

 私がかつて東北の教会で働いていた時、捨て石という言葉を時々思いめぐらしていました。捨て石とは、海に堤防や橋などを作る時に、実際に組み立てていく堤防の面積よりもはるかに広い範囲の海底に沈めるための石です。捨て石は、海底に沈められ、水面下に見えなくなりますが、しかし捨て石がなければ、堤防や橋は、波の浸食を受けて簡単に崩れてしまいます。東北地方では、人が次々に首都圏に流れていきます。教会で若者を育てたり、受洗者が与えられて人数が増えても、それ以上の勢いで、東北の教会からは人が去っていきますので、人は減り続ける一方です。その意味では地方の教会は、首都圏の教会を支える捨て石のようなものだと思いました。当初はそのことで悩むこともあったのですが、捨てられた石が、生きた親石になるのです。今朝の25節にも、「生きた石とされたあなたがたは、霊的ないけにえを、キリストを通して神に捧げなさい」いけにえとは、犠牲という言葉です。石は、ただ鎮座し、飾られているだけでは意味を持たず、犠牲として用いられることを通して、その本分を発揮するのです。東北の教会が捨て石なら捨て石で、それがどこか他の教会を建て上げることになるならば、それは何も悲しむようなことではなく、それこそが、教会の教会らしい、素晴らしい在り方だと。むしろ地方から、生きた石を、惜しむことなくどんどんと都会に輩出していけばいい。それが地方の教会の使命に他ならないと、決意を新たにしていました。

 つまらない、小さな、固く、動かないはずの石、それが神様に見つけられ、触れられて、価値ある、生ける、命ある石へと、驚き変化を遂げる。死んだ石が命を与えられて生き生きと動き時、そこではゴミくずが宝になる以上の、信じ難い奇跡が起こる。主イエス・キリストによって、この奇跡は、この喜びは、私たちにも起こるのです。