2022925日 ペトロの手紙一21117節 「見通して生きる」

 見通して生きる、という説教題をつけました。最近、老眼が進んでしまい、近くのものに目のピントが合わなくなってしまっているのですが、私はもともと遠視ですので、遠くのものには、より良くピントが合って、見えやすい目に今なってしまっています。そして今朝の説教題は、近くのものよりも遠くをはっきりと見通すというイメージで、つけさせていただきました。

 今朝の御言葉の表題には、神の僕として生きよ、と書かれています。そしてこれと同じ言葉が、16節に「神の僕として行動しなさい」というかたちで出ています。ですので、神の僕としての行動について、今朝の御言葉は教えているのですが、なかなかその神の僕としての行動というものは、一筋縄では行かないものだと、今朝の御言葉から思い知らされました。数週間前に、主なる神様への信仰を持つことで、私たちの自然が変わる。今までこれが自然だと思っていた考えや行動が、逆に今まで不自然だと思っていたものと入れ替わる、という話をしましたが、今朝の、神の僕としての行動とはいかに、というテーマについても、それは、私たちが神様を信じる以前に自然だと思っていたこととは逆の行動をとるということですので、私たちは今朝、これをよく考え吟味して、新しい生き方を、聖書の御言葉から学び受け取りたいと思います。

 

 今朝の11節でペトロは、またここで、先週の生きた石という言葉から話題転換をしながら、諸教会に対して改めて語りかけています。11節の前半をお読みします。2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」

 「愛する人たち、あなたがたに勧めます」当然のことながら、ペトロのからの教会への愛が、改めてのこの言葉の前提となっています。そのうえでペトロは、「いわば旅人であり、仮住まいの身」という言葉を紡ぎます。旅人であり仮住まいという状態が、基本的な私たち、教会に集う者たちの状態だと言われています。

 旅人であるということは、まだゴールに至っていないということです。旅人と、そうでない人とでは、見ているものが違います。旅人は常に次の目的地を見て、そこを目指して進んでいる。また、仮住まいの身ということは、現在の場所にどっしりと腰を下ろして、そこに居ついているのではない、という状態です。旅人であり仮住まいの身ですから、荷物はほどけません。どっしり腰を下ろすことはできません。現在地点が最終目的地あのではなく、本住まいできる場所が、この先に待っている。

 ではその旅人は、神の僕としてどう行動するべきなのでしょうか?そのしっかりとした答えが、11節の後半から12節に、大変凝縮されたかたちで語り切られています。11節後半から12節です。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」

 今朝はここを丁寧に解読していきたいと思いますが、まず11節の後半から12節前半に、「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。」とあります。魂に戦いを挑む肉の欲を避けて、異教徒の間で立派に生活するとはどういうことでしょうか?肉の欲、肉欲と聞きますと、私たちは、これは性的な欲望のことかなと考えてしまいがちです。しかし、ここでの「肉の欲」の意味は、狭く性的な欲望を避けよということに限定されているのではなくて、これは、「この肉体を持つ人間存在である私たちの、この心とこの体という、トータルな私という人間が、それが自然に欲するような、したいと思うような行動と、そして思考を、避けなさい」ということです。11節後半の最初に来ている、「魂」という言葉は、もっと詳しく訳せば、「あなた自身の命」という言葉です。そのあなた自身の命とは、もちろん、先週の言葉で言えば、主イエス・キリストによって、主イエスと同じく生きた石とされた、私たち自身の救いのことです。つまり、私たち自身の救いと主にある命に、自ら自傷行為的に戦いを挑んでしまう、そういう私たちの自身の肉の欲、キリストと、聖書を出会う前の時点の、あなたの肉体と心が欲していた行動や思い、それを避けなさいと言われているのです。

 では、その避けるべき肉の欲とは、では一体何のことなのでしょうか?

宗教改革者マルティン・ルターは、およそ500年前に『キリスト者の自由』という書物を著しました。そこには、キリスト者である私たちに与えられている自由について、特に有名な以下の言葉が語られています。それは、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。キリスト者はすべてのものに仕えることのできる僕であって、誰にでも服する。」という命題です。これは相矛盾する命題ですけれども、キリスト者は、まことの主なる神様以外には誰にも服従する必要のない自由と、また同時に、キリスト者は、全ての者の僕となってくださった主イエス・キリストのゆえに、誰にでも服従することができる自由という、この二つの自由を持つのだと、ルターは語りました。その通りだと思います。

今朝の御言葉にも、自由という言葉が語られていますが、まず私たちが主イエス・キリストの救いに与ることによって得た自由は、ルターが示した第一の命題です。つまり、私が神として礼拝し、服従し、拝み拝するのは、主イエス・キリストの神ただお一人であり、それゆえに、私を拘束するのは、その神の聖書にある御言葉のみであり、よって、それは、いかなる人間も、またいかなる他の神々も、またいかなる政治的力や、法やしきたり慣習も、私たちを縛ることはできない、という自由です。ですから私たちには、見えない神様の御存在とその力を、しっかりと見通して生きるという、この世の基準をある意味超えた生き方が与えられたのです。私たちのゴールは、この人生の先にある天の御国という、私たちがそこで永遠に安らい住まうことのできる本宿です。ですから私たちはそこに向かう旅人であり、私たちは、本当に従うべきの主人を、既に見出して、誰にも縛らなれない自由を手に入れたのです。

でもそういう私たちが、自分の得たこの救いと命に、自ら戦いを挑み傷を付けてしまうような、肉の欲に自ら引きずられてしまうことが起こるのです。それがとても起こり易いので、ペトロは、それを避けなさいと言います。その肉の欲とは具体的に何なのかというと、それは、人を裁きたくなるという欲です。

この手紙が書かれた当時、キリスト教徒は迫害されていました。先程の12節の半ばにも、「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても」という言葉が語られています。主イエス・キリストへの信仰を持っているというだけで、悪人だと見なされてしまう状況が、そこにはありました。あらぬ噂、デマ、ヘイトスピーチがクリスチャンたちに対して繰り広げられ、小さく集まって礼拝し、聖餐式をしている教会に対して、「あの者たちは、子どもを殺してその生き血を吸う悪魔だ」という言葉が浴びせかけられていました。しかも、一般の人々がキリスト教会をヘイトするだけでなく、政治も、統治者たるローマ皇帝も、寄ってたかって教会を攻撃していました。15節に、「愚か者たちの無知な発言」という言葉も見えますように、教会を迫害し、クリスチャンたちを悪人呼ばわりする人々や為政者たちは、それはクリスチャンの側から見えれば、とても愚かで、無知で、真の神を知らない、何も分かっておらず見えていない、悪人呼ばわりする彼らこそが、実は本当の悪人たちなのだということが分かるわけです。

ですから、その誤った知識と見識に立って、真の神と、真の教会に反旗を翻している権力者たちに対して、キリストを知った者は、「愚か者!」と、「お前たちの目は節穴か!馬鹿者よ!」と、裁きたくなる、糾弾したくなる。そして、上から見下したくなるのです。

信仰を持ち、教会に来るようになり、聖書を読むようになり、神様に祈る生活をするようになることによって、確かに、クリスチャンになる以前よりは罪が抑制されて、そのことによって、減っていく、犯さなくなる罪もたくさんあると思います。けれども逆に、もちろん牧師も含めて、全てのクリスチャンに、しかも熱心で誠実な信仰者の間で、信仰を持つことによって、さらに増えて強まっていく罪があります。それが、裁くという罪です。

新約聖書に幾度も出て来て、その度に、周囲の人々を裁いて見下すあの律法学者やファリサイ派のように、時にキリスト者は、神様の御心よりももっと厳しい基準で、人を裁き、ひいては神様のことさえも裁き、上から目線でダメ出しを食らわせる。しかもそれを、これこそが信仰的で正しいことだとの確信をもって、使命感さえ感じながらやるのです。

 

 しかしペトロは語ります。13節から17節をお読みします。2:13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、2:14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。

2:16 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」

 今も、私たちを治め、世界を回しているのは、無慈悲は政治家たちであったりしますので、従いたいとはなかなか進んで思えません。彼らは何も分かっていないと、小馬鹿にするは簡単です。聖書の言葉ほど強く確かな言葉はありませんので、それに依って立つ私たちはついつい、あの人はできていない。絶対に許してはいけないと、人を、また、私にもかつてそういう傲慢な時代がありましたけれども、キリスト教会のことも裁き下すことがある。

私たちの、主イエスに出会う前の自然の状態においては、悪には悪で返すのが基本でした。やられたらやり返す。悪人呼ばわりされたら、「真実が見えてないのは、むしろお前たちの方だ」と責め返す。しかしペトロは、その逆が、神の僕として生き方だと語ります。

 

改めて、今朝の中心である11節から12節を読み返します。2:11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。2:12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」

 12節の「異教徒の間で立派に生活しなさい」とは、「善い行いをしなさい」という言葉です。「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」

 ペトロが、神の僕たちに求めたのは、あなたがたは神の僕なのですから、神様の御心を、その心としなさいということです。そしてその神の御心とは、あなたがたを悪人呼ばわりしている異教徒たちのことを、裁き、見下し、彼らと戦って粉砕することではなく、むしろ彼らを裁く自らの肉の欲と戦って、善をもって悪を封じ、彼らに善い行いを示し、それによって、彼らも、神をあがめるようになることです。13節で先程お読みした、「すべて人間の立てた制度に従いなさい。」という言葉の前にも、「主のために」という枕詞が置かれています。主のために、神様のために、神様の御心、神様の願いのために、全ての制度に従う。それはまさに、「キリスト者はすべてのものに仕えることのできる僕であって、誰にでも服する。」という、ルターの二番目の命題が語っていたことです。そしてその際の神様の御心、神様の願いとは、あなたたちを迫害し、悪人呼ばわりする愚かで酷い人々、そういう為政者、政治家、そういう人たちが、あなたがたの善い行いを見て、彼らもまた神様を見上げ、彼らにもまた、あなたたちと同じように見えない神様が、今生きて、私たちを愛してくださっていることを見通して生きるようになること。彼らも含めて、全ての人が主なる神様を知り、救われて、自由にされて、教会に加わる。そこへと招かれることなのです。

 だから、17節にあるように、2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」なのです。

 

 そして本当に、初期の、古代の教会は、実際にこのペトロの手紙の言葉を受け取って、この御言葉そのままを、殉教覚悟で、本気で、神の僕として行動に移したのです。当時、女性は全く差別されていて、男性の道具のように扱われていました。子どもも、当時は子供の数が増え過ぎたら、殺して処分して良いということが合法でした。やもめ、未亡人が生活する術はなく、街にはホームレスが溢れていました。しかしペトロは、各地に建てられている教会にこの手紙を書き送り、2:17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」と伝えました。教会は、餅のもの食べ物を分け合い、老人、女性、子どもを大切にし、身分の格差が生じない交わりを作りました。だからと言って、外の人を蔑んだり批判したりせず、いつも柔和に人々を共同体に迎え入れ、もてなしてきました。

紀元100年に、ローマ帝国全体の人口の0.001%だったクリスチャン人口は、10年かけて1.4倍になるという、比較的緩やかな成長をずっと続けることで、紀元313年にはキリスト教が国教として公認され、紀元350年には、ローマ帝国の総人口の56.6%がクリスチャンになったのです。

私たちも、神の僕に違いありません。だったら、この御言葉は、私たちが本気でそれを生きるべき、神の僕の生き方です。今は、私たちを悪人呼ばわりするような人さえ、神をあがめるようになる。その奇跡を、神様は約束してくださっています。