2022102日 ペトロの手紙一21825節 「特異な生き方」

今朝の御言葉には、この分厚い聖書の中でも、他に類を見ないような言葉が出てきます。このところの説教題に、「生き方」という言葉が頻繁に出て来ますが、この御言葉の受け取り方次第では、本当に生き方が大きく変わってくるような、重大な御言葉が今朝語られています。今朝の個所からは語るべきことが他にも沢山ありますが、今朝はそのひとつ御言葉を中心に語らせていただきたいと思います。聖書の中でも他に類を見ないその言葉とは、今朝の24節の御言葉です。2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

ここには、聖書以外からでは決して聞くことのできない、傷の癒し方が語られています。つまり、この私たちの傷が、また痛みが、十字架に架かって死んでくださった主イエス・キリストの傷によっていやされたのだ、ということです。

このペトロの手紙一224節は、礼拝の説教で取り上げられることが少ないのかもしれません。私が初めてこの御言葉からの説教らしきメッセージを聞いたのは、私が神学校在学中の、先輩の卒業式での理事長挨拶でした。数分の短い挨拶の言葉でしたが、引用されたこの御言葉が心に響き、また大きな余韻を残すようにして心に残りました。痛みを負った人間が、薬や、愛や慰めの言葉によってではなく、キリストが十字架で受けた傷によっていやされるとは、どのようなことなのだろうかと、その時は、はっきりと分かるまでには至りませんでした。

 

 この御言葉から、まだ仙台で牧師として働いていた時のことを思い出しました。あまり良い思い出ではないのですが、ある時、自傷行為を繰り返す青年の部屋に踏み込んだことがありました。その青年の手から、血の付いたカッターを取りあげて、他にも部屋に散らばっているハサミや、刃物に類するものすべてをゴミ袋の中に放り込んで、とにかくリストカットにつながりそうなものすべて部屋から撤去したことがありました。しかしそこで思ったのは、こんなことでは自傷行為は止められない。その青年はすぐにまた繰り返すであろう、ということでした。自傷行為に追い込まれる多くの人々が居ますし、また自死の問題もあります。

 人がなぜ自傷行為に至ってしまうのかについては、もちろん様々な、人それぞれに固有な理由がありますので、一概には言えませんが、ひとつの原因として言えることは、駄目でふがいない自分への罰としてそうする、ということではないかと思います。大きな挫折の経験は、自己否定を生みます。そしてその時、自分は罰を受けなければならない人間だと思い、それと同時に、できていない自分に、それ相応の罰を加えることによって、自分の負債が幾らか返済できたような気持ちになって、少し落ち着ける。そういう気持ちもそこにはあると思います。

 

 私は若い時に体育会系運動部にいましたので、試合でチームが負けた時などには、お前の気持ちが弱いから負けたのだと叱られ、吐くまで走れと言われて、何時間でも学校の周りを走り続けるというしごきも普通に受けていました。そういう経験によって、周りでうまくいかないことが起こった時、自分が責められ痛みを負うことで周りが助かるならば、それは良いことだという、ちょっと不健康で、多分に自虐的な刷り込みも受けた気がします。

 今でも、思わぬかたちで苦しい目に遭った時や、病気や怪我で痛みを負った時、大きな苦労を課せられた時など、そこには英雄気取りの、ヒロイズムに似た気持ちがあると思いますし、苦しい時にはその自分の試練を、何とかして自分で意味付けをして、納得ずくで前に進んで行きたいという気持ちになりますので、この苦しみは人の代理的な苦しみだと、この自分の苦しみで誰かが助かるなら、と考えてしまう節があります。けれども、そもそも人の深い痛みや傷を、こんな私などが測り知ることもできなければ、ましてやそれを背負い担うなど、それは簡単にできるようなことではありません。

 

しかしながら聖書には、自分の苦難へのそんな勝手な思い込みや、独りよがりな傷の意味付けとは、全く別のものが語られています。傷が、傷でいやされる。聖書は、傷は、傷によっていやされると語るのです。こんなことを聞いたことあるでしょうか?知っていましたか?聖書の数ある御言葉の中でも、傷で傷が癒されると明確に語るのは、先程お読みした旧約聖書のイザヤ書535節と、新約聖書の今朝のペトロの手紙一224節だけです。

イザヤ書535節にはこうありました。53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

そして、今朝のペトロの手紙一224節の言葉は、もちろんこのイザヤ書の御言葉を元に語られています。イザヤ書が語る「彼」という存在が、十字架に架かった主イエス・キリストに他ならない。だから、キリストが「お受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」と、ペトロの手紙は語るのです。

 

 朝9時から、昼の3時までの6時間、主イエス・キリストが、十字架の上に釘で体をはりつけにされて、その肉体的痛み渇きと、それにも勝る精神的孤独と責めを負わされて、十字架で息絶えられた。今朝の22節から24節を改めてお読みいたします。

2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

 

 私たちがこの自分自身に対して繰り返し行ってしまう、肉体的、また精神的自傷行為、自分を責めて、自分を卑下して、おとしめて、それで何とかバランスを取って落ち着こうとする悪い癖、これを本当に止められるのは、主イエス・キリストの十字架の傷によるいやしだけです。

 なぜなら、本当に十字架が分かる時、本当にそこで主イエスが苦しんで、傷んで、心と体から血を枯れる程に流して、叫んで、絶望して死なれたということが本当に分かる時、そして、その主イエスの背負われた痛みの大きさを本当に知る時、それによって何がどうなるのかというと、それによって、自分が自分を傷つける必要がなくなるのです。自分が自分を傷つけること以上の傷で、十字架の主イエスが傷つき、打たれてくださった。しかもそれが、私たちの罪を担うためであり、この私が癒されるための、私のための傷だったと本当に知る時には、語弊があるのを承知で申しますが、いくら自分を打ち叩いたところで、そんな自分の傷や痛みなんて、それは十字架から見れば、子ども騙しのようなものなのであって、そんな自傷行為を私がわざわざすることの意味が、効果が、理由が、もはやもう何も無くなるのです。「あなたが、この自分は傷付かなければならない、もっと傷を受けなければならないのだと考えているような、あなたの全ての負い目や責任やダメさ加減は、すべてわたしが、すべてを十字架で、私がすべてこの身に引き受けたのだ」と、この私に、主イエス・キリストは、語ることができるのです。本当にキリストだけが、その傷で、私たちをいやすことができます。それができる唯一の方が、十字架に架かかられた主イエス・キリストです。

 

主イエスの12人の弟子に、ユダとペトロがいました。そして二人とも主イエスを裏切りました。ユダは主イエスの身柄を、銀貨30枚で当局者たちに売り払い、ペトロは、当局者たちに捕まって十字架に架けられていく主イエスを助けなければならない場面で、怖くなって自分の身の安全を優先し、「私はイエスを知らない、全く無関係だ」と、3度続けて言い張りました。そのあとユダもペトロも、自分の犯した裏切りの罪の大きさに、はたと気付いたのですけれども、しかし裏切った二人のそのあとの行動が、不幸にも二人の道を大きく分けてしまいました。

ユダの方は、主イエスを裏切ってしまったことを後悔し、報酬としてもらった銀貨30枚を返しに行きましたが、受け取ってもらえず、「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と言われてしまい、首を吊って自殺してしまいました。いわば武士が切腹するようにして、ユダは自分の罪の責任と償いを、自分で支払うしかないと、思い詰めてしまいました。

しかしペトロは、裏切った直後に主イエスと目を合わせて、ペトロを見つめる主イエスの眼差しに打たれて、激しく泣きました。泣けなかったユダに比べて、切腹しようにも、自分で裏切りの罪を取り返そうにも、何もできず、主イエスの前で、ほっちらかして、ダメダメな自分を晒して、泣きじゃくることしかできなかったペトロは、ある意味幸せでした。主イエスは元々ペトロの裏切りを予告していて、その裏切りの罪もすべて込みで、御自分が十字架に架かって引き受けると語っておられた。その意味が、泣きじゃくるペトロに、その時初めて分かったのです。

もう、ペトロの裏切りも込みでの十字架だということが分かったので、この期に及んでペトロが切腹しても、何の意味もない。それは必要ないのです。ユダは切腹して自分の過失を処理しようとしましたが、しかしペトロは、その道を主イエスの十字架によって塞がれて、自分が償わなければならい罪も、主イエスに赦されてしまって、ペトロ自身としては、ただただ泣くことしかできなかったのです。そこでペトロは、ただ熱い涙を流しながら、主イエスの赦しと、こんな自分に代わって、こんな自分のために、傷ついて痛んでくださる主イエスの愛を、ただ受け取ることだけしかできませんでした。しかしそこに救いがあり、十字架の傷による、ペトロのいやしがありました。ペトロはだからこそ、この手紙で、十字架の傷による傷の癒しを語っています。そしてこれは、このペトロだからこそ語ることのできた言葉です。

 

今朝の御言葉の前半には、無慈悲な主人のもとにいるだとか、不当な苦しみを受けているだとか、色々な苦痛が言い表されています。そこで経験する困難や、歯ぎしりするような思いがあり、傷がある。そういう過去の経験もある。そこから、先週お話ししたような、人を裁き、自分を裁き、神様さえも断罪するような思いも沸き上がってきます。なぜ私だけがこんな苦しい思いをしなければならないのかと思う。しかし、今朝私たちが知ったことは、それがこの私だけのことではないのだ、ということです。なぜ私だけが、なぜ私ばかりがという思いがあるなら、それは間違いです。どんなところにいる誰よりも、この私よりもずっと、私のために、私のことで、心と魂の両面において、最も深く傷ついたのは、主イエス・キリストだったのです。人を傷つけ、自分を傷つけ、神を傷つける私のために、既に、主イエス・キリストが傷つき倒れて、私のために死んでくださった。その傷は、この私のためだった。

 今朝の終わりの25節は語ります。2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」そうです。私たちは、行く当てを失った弱く小さい羊のように、さまよっていました。しかし今は、今朝こうして、魂の牧者であり、監督者である方のところへ、帰るべき場所へ、戻って来たのです。良かった。私たちは間に合いました。私たちのために、傷を負ってくださった主イエス・キリストが、帰る場所です。他に帰る場所はありません。他のいやしの場所は、ありません。