2022109日 ペトロの手紙一317節 「人を変える力」

 今朝の御言葉は、結婚式でしばしば読まれる御言葉だと思います。私も結婚前に、プリマリタルカウンセリングという結婚前のカウンセリングを、カウンセラーであり牧師でもある専門の先生から受けたことがあるのですけれども、何回か行われるカウンセリングの総仕上げの段階で、カウンセラーが今朝の御言葉を、私と妻の前で開いて、ここにあるように、このアブラハムとサラの姿を模範にして、結婚生活を歩んでいっていくようにと教えて下さった時のことを。今でも覚えています。カウンセラーの先生が、パッとこの御言葉を開いて、「読んでみなさい。ここには何が書いてありますか?」と聞いてきた時、私は、なかなか複雑に色々と書いてあるなと思いまして、うまく説明できませんでした。しかしそこでカウンセラーの先生が、ここに書かれていることをまとめて、うまく私たちに当てはめて語ってくださいました。あとから私の脳内で勝手に脚色されて、付け加えられている言葉もあるかもしれませんが、そのカウンセリングの時間に、私はその先生から、大体こんな内容のことを受け取りました。

 あなたたちは、学生時代に一度別れたんですよね。ではこれからは何で結び付いていくのですか?最初のカウンセリングで、契典さんは、くみさんのことをとにかく明るく楽しい人だと言いましたね。でも本人は自分のことをそういう人だとは思っていないようでした。これからも自分の理想を相手にただ押し付けるだけだったら、うまくいかなくなります。サラは、アブラハムのどこを見て、アブラハムに従ったのですか?アブラハムが神様に従う姿を見て、そこでサラはアブラハムに従いました。ましてやあなたは牧師をしています。もしあなたが神様に従わなくなったら、くみさんはあなたに従えなくなります。そしてこれからは、別々にではなく二人で神様に従って歩んでいってください。 

 この言葉を聞いて、何を大事にして夫婦関係を築いていくべきなのかという方向性が定まりました。しかし、方向性が定まったということと、実際にその方向にしっかりと迎えるかということは別問題ですので、実際には行ったり来たりの歩みで、ふと気付けば、神様に付き従うよりも、また相手を気遣うよりも、自分自身の事だけを優先して考えてしまっている自分に気付くこと、本当にしばしばです。

 

 しかし、今朝の私たちの御言葉で、アブラハムとサラの夫婦が模範とされているということは、非常に現実的で、リアリティーのあることだと思います。もちろんこのアブラハムは、最初に神様と出会って神様に従う歩みを始めた、神の民イスラエル民族の最初の一人であり、信仰の創始者という意味で、信仰の父と呼ばれる人物です。けれどもアブラハムは、妻のサラに対して、かなり酷いことをしています。アブラハムは、彼が創世記12章でセンセーショナルに神様に選ばれて、初めて聖書に登場してきたその直後に一度、そして待ちに待っていた息子イサクが誕生する直前にも、アブラハムは合わせて二度も、「これは私の妹です」と言って、妻サラを王様に差し出して、それで何とか自分の身を守って、危機を切り抜けようとしました。これは、二度浮気をするということよりもさらに酷い、妻を二度も他人に売り渡すという、信じられない行為です。また、後継ぎとなる息子が不妊の女性サラとの間に生まれないことが見通された時に、彼は女奴隷ハガルを側室にし、ハガルによってイシュマエルをもうけました。しかしそれが、サラを追い込むこととなり、また後の時代にまで及ぶ禍根を残すことになります。

 信仰の父とは言われますが、アブラハムの歩みは、特にその夫婦関係は、実際には模範として相応しいような、褒められたものだとはなかなか言えない要素を含んでいるのです。

 しかしながら、今朝の御言葉の6節には、「サラはアブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。」と書かれています。サラには、アブラハムのそういう弱さ、ずるさも当然見えていました。しかしサラは、今朝の7節にも「相手を尊敬しなさい」という言葉がありますけれども、アブラハムが主なる神に従う姿を尊いものとし、アブラハムの信仰者としての姿を尊敬して見ていたのです。だからこそ、サラはアブラハムの信仰の旅路に生涯ついて行き、最後まで彼に従い通すことができたのです。

 

 今朝の御言葉の3章1節には、3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。」と書かれていますので、今朝の御言葉はまだクリスチャンになっておられない夫の元にいる、信仰を持つ妻たちに対して語られていると受け取られるのが一般的な読み方ではあるのですが、しかし、まるっきりそのように読んでしまうならば、その逆にクリスチャンの夫の場合はどうなるのか、夫婦ともクリスチャンである場合や、独身者には、この御言葉は関係のない御言葉なのかと考えられてしまいますし、実際にはそんな狭い範囲の話として受け取るべきではないと思います。

なぜなら、ここで例として用いられているのは、あのアブラハム夫妻だからです。神様を信じて歩んだアブラハム夫妻の歩みの中にも、神様を知る、知らないにかかわらず、さすがにこれはやらないだろう、という罪があったのです。その意味では、御言葉を信じている人であっても、時に、アブラハムでもその罪に陥ったように、御言葉を信じず知らない夫のように、酷い振る舞いをすることがあるのです。それに対してサラは何をしたか?アブラハムのことを彼女は、少なくとも聖書の言葉に記録されている範囲においては、非難しませんでした。サラは、妹だと偽られて自分を人に売るようなことをするアブラハムに、今朝の31節が語るのとまったく同じようにして、無言の行いによって語るということを貫いたのです。そのサラの行いが、アブラハムを、度重なる彼自身の罪や躓きから、信仰へと復帰することに導いたのではなかったかと思うのです。アブラハムが見せた強い信仰には、実はサラの無言の行いによって養われ強められたという側面も、必ずあったはずです。

今朝の1節から6節を改めてお読みしたいと思います。そしてこれは、サラがまさにアブラハムに対して為したことだったのです。3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。3:3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。3:4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。3:5 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。3:6 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。」

ではどうすれば、私たちも、サラの娘、そしてサラの息子となることができるのか?鍵になるのは、6節に置かれています、「恐れ」という言葉だと思います。この言葉は、217節にも出て来ました。そこでは、「神を恐れ、皇帝を敬いなさい。」と語られていて、その神を恐れという言葉と、今朝の「何事も恐れないなら」の恐れとは、全く同じギリシャの言葉が、原文に充てられています。

つまりその意味は、恐れるのは神様だけで、他の何事も何者も、夫でも妻でも、どんな人でも、それを神様を恐れるように恐れてはならない。本当に恐れるべきは、神様お一人だ、ということです。神様だけを恐れるということは、神様だけを、本当に力をお持ちで、私の人生と命を握っておられ、私の全てを左右することのおできになり、力と命と愛と、私が必要とするすべてのものを与えてくださることのできる唯一の方であると認めることです。ただ神様だけを恐れるとは、その神様に、良い意味で自分の全てを明け渡す。そういう意味で、ただ神様だけを恐れて、他を恐れないということは、自分にとってこの方以上の方は他に居ないのだと、天を指差して生きることなのです。

 「自由な人として生活しなさい。」216節にも語られていました。神様だけを恐れ、人を恐れないのは、神様を気にして、神様に縛られこそすれ、人に縛られず、良い意味で人を恐れず気にしないで生きることですので、それは自由な生き方です。

 

 今朝の説教を、「人を変える力」と題しましたが、一言足りていませんでした。人を変えるにも、その方向性が、人を何に向けてどう変えるのかということが決定的に大切です。そして今朝の私たちの御言葉は、1節や4節の言葉によって、人を信仰に導けと、神の御前で価値ある装いをせよと、神に向けて人を変えるのだと、神様に向けて、夫と、妻と、家族と、人を、自分自身も含めて変えなさいと勧めるのです。その方法はシンプルです。御言葉を信じない人に、神様への畏れ、神様の御言葉への畏れと信仰を、言葉よりも態度で示すのです。もちろん言葉も含めて、いつも、生活の全体で隙間なくそれをするのは大変だとしても、サラがアブラハムの姿に、またアブラハムがサラの中に、神様へと向かう信仰を見出したように、断片的な失敗続きの服従であっても、それを態度で、夫に、妻に、人に、自分自身に対しても、示すのです。そのイメージとしては、自分の生活の中に、神様への矢印が見て取れるような生活をするということだと思います。この日曜日の朝に、皆様本当はとても疲れていて大変でしょうに、しかしそれにも勝る力で、礼拝に来る。毎日夫の前で妻の前で、インマヌエル会の聖書通読をする。そうやって、自分の本当の意味での畏れと、自分の矢印が天の神様の方に向いていることを示すなら、その生活を見た人は、すぐにではないかもしれませんが、どうしたって、神様のことを考えないわけにはいかなくなります。その時、私たち皆が、サラの娘であり息子となるのです。

 

 相手が御言葉を信じない人であっても、無言の行いで神様に導く。いったん御言葉を信じて、神様を信じても、また信じられなくなるということも多々あります。アブラハム然り、この手紙の著者ペトロ然り、私然り、他の人然り、つまり、アブラハムとペトロがそうであったならば、もうみんながそうなると言って良いのです。なぜそうなるのか?苦しいから。苦難があるからです。先週の2章の御言葉にも、不当な苦しみ、無慈悲な主人、という言葉が出てきました。

 神様を信じても、苦しみが消えない。不条理が止まない。信じてみても、状況が変わらず、聖書を読んでも、無力感にさいなまれてしまう。じゃあどうするのか?先週、そこまで語ることのできなかった、221節の御言葉に改めて目を留めたいと思います。そこにはこうありました。2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」

 なんで私だけ?信じたのになぜ?神様つらいよ本当にいるの?と思う。御言葉が読めなくなる。でもそういう私たちに、聖書は、「あなたがたが召されたのはこのためです。」と語るのです。あなたがたは、実に、そうするように、その苦しみの中を通るようにと召されたのだと、つまり、それは、クリスチャンにとって、何も特別なことはない。むしろ普通なのだ、それこそがクリスチャンの通常運転なのだと。苦しみを受けた主イエス・キリストを見なさい、と。クリスチャンは、皆そういうところに召されている。苦しまれた主イエス・キリストに連なる歩みを歩まされるのがクリスチャンなのだ。神様が、あなたがたを召されたのは、このためだった。今のあなたの、その苦しみと恐れの場所で、あなたがキリストの肩にもたれて立ち上がって、神様だけを畏れて人を恐れない強さ自由さをもって、立つためだったのだ、と。

 「あなたがたの信仰は、その試練によって、本物となる」とは、17節で語られた言葉です。神様は、皆様一人一人を、今日その場所で、その場所から、この教会を通して変えようとしておられます。一人では無理です。無言の行いによって、迷って、道を外す自分を信仰に導いてくれる、一緒に神様の前に立って、支え合える、仲間が必要です。皆が大事で、私たち皆が祈り合う祈りが、みんなに必要です。そういう、神様に向かって人を変えていく力の渦が、御言葉と共に、私たちのこの教会にも与えられていることを、感謝いたします。